蛙の子は蛙

昨晩、彼が出て行った後に

ちゃんと話し合いたい旨を綴り送信した。

昨日はうちも頭に血が上っていた。

でも、信用できないのは本当。

これまでどんな隠し事をしていたのか

それを全て話してクリアにした上で

また戻ってきてくれないかなんて、

藁にもすがるような言葉を投げかけた。

が、コウは無情にも

既読無視をして以降音沙汰がない。


彼方「…。」


朝の日が視界を掠めるだけで

翌日が来てしまったことを

酷く理解する他なくなる。

虚しい。

朝が来ることが鬱陶しい。

時間が止まればいいと

願っているわけでもないが、

このまま進んでほしいわけじゃなかった。

立ち止まっていたい。

世間でも、しんどくなったら

立ち止まっていいなんて言葉が流れているが、

実際立ち止まった分周りに置いてかれる。

周りは進むから。

だから立ち止まれないんだよ。

ずっと苦しいならずっとここから進めない。

長いこと置いていかれる。

いざ戻ってみようと思ったって

そこは世界が違うんだ。


立ち止まれと言うのなら

お前らも全員立ち止まれよ。

言葉だけ適当に投げかけて

さっさと進んで逃げんなよ。

無責任だ。

うちは一緒に立ち止まってくれるような、

それか元から立ち止まっているような

人間としか関わることができなかった。

じゃないと、相手の進度を見ては

恨み嫉みが強かに膨れるから。


それは家族に対しても

思っているのかもしれない。

置いていくな、と。

物理的にも心的にも。

落ちるならどこまでも共にあれ。

そう願っている。

家族とは、友達とはそういうものだろう。


あまり眠ることのできなかった

昨日の夜を思い出しながら

リビングのソファに座る。

テレビをつけると

笑顔で夏への対策グッズの

レビューをしている

アナウンサーの顔が目に入り、

無駄に憎くなってしまってすぐに消した。

音を流す気にもなれず、

曇天をじっと眺めていると、

やがて足音がした。

振り返ると、眠たげに

目を擦るアサヒが立っていた。


アサヒ「ママおはよー…。」


彼方「…おはよ。」


アサヒ「朝ごはんー。」


彼方「冷蔵庫にあるもの適当に食べて。」


アサヒ「何が入ってるー?」


彼方「見ればわかるでしょ。」


アサヒ「…はぁい…。」


冷蔵庫を開ける音がした。

まだ背の低いアサヒが

頑張って背伸びをして上の方まで

覗いているのが目に浮かぶ。


アサヒ「これ食べていいの?」


彼方「…。」


アサヒ「ねえママ、これは」


彼方「勝手にして。」


アサヒ「…でも…温めたらいいんだよね?」


彼方「嫌ならコンビニでも行けば。金は置いておくから。余ったらお小遣いにしといて。」


アサヒ「……温めるよ、これ多分パパが作ってくれたやつでしょ。」


彼方「…。」


アサヒ「パパは?もうお仕事?」


彼方「…知らない。暇ならさっさと準備して。」


どうせアサヒも学校の友達やら

先生やらの話を受けて、

進み続けることが善だと

勘違いしだす人間だ。

うちと一緒に落ちるような人間にならない。

ならばそんなやつ

近くに置いておかない方がいい。

さっさと学校に行かせて

1人でいる方がいいような気がした。


アサヒはいつもより言葉少なく朝食をとり

支度を済ませると、

「行ってきます」と小さく言って

玄関から出て行った。


彼方「……はぁ。」


けれど、1人になれば暇で暇で仕方がない。

雑念ばかり脳裏に浮かぶ。

ネットニュースを見ても

メンタルは順調に削れていくし、

かと言って好きなことも何もない。

楽しいこともない。

この家の通帳やら

自分用のネットバンクやらを覗いたが

金だけはあるらしい。

夢の中でもそうなのか、と

反吐が出そうだった。

結局惰性で生きている。

意味もなく苦しい。

意味もなく立ち止まっている。

意味もなく。


こんな意味のない人間が、

悪影響しか及ぼさない人間が、

1人でいた方がいい人間が

仮にもこの夢の中で大切であろう人と

一緒にいちゃいけない。

そう思ったのが建前。

本音を言うのであれば、

たとえ自分の息子だとしても

信用できないからだ。

ひとつひとつの声が鬱陶しい。

1人にさせてくれない。

その上生意気なことしか言わない。

愛なんて与えても返ってこない。

いつも返ってくるのは

捨てられたという事実だけ。


捨てられてばかりのうちだ。

なら捨てられる前に

捨てるしかない。


彼方「…。」


そう思ったうちは

少しの間だけ、と

何度も脳内で唱えながら

1日過ごせる分の金を机に置いて

荷物をまとめて家を出た。

昼間から外を歩き続けるのも疲れるので、

近くのカフェに寄ってだらだらとしたり

図書館に寄ってみては本を開いたり、

コンビニで商品の値段やら

成分表示や雑誌を

まじまじと眺めたりと

1日というものを

ありとあらゆる方法で浪費した。


気づけば夜9時を回っており、

そろそろ帰らなきゃと思うと同時に

まだ帰りたくない気持ちが出てくる。

帰ったらアサヒに顔向けしなくちゃいけない。

コウだって帰ってこない。

人といた方が1人に感じる。

いつか捨てられる。

なのに、捨てられるために

うちは家に帰らなきゃいけないのか。

でも、家がここなのだ。

家族が過ごす家はあの場所しかない。


彼方「……くだらな。」


不平不満をひとつこぼす。

最初から期待しないよう、

自らで希望をへし折る言葉を吐く。

それでも帰らなければならないと思い、

やっとのことで踵を返す。

家に着いた時、リビングのカーテンの隙間から

光が漏れているのを見て、

もしかしてコウが戻ってきたのかと

不意に思ってしまう。


どう考えてもそんなことはないだろう。

けど、人間というのは愚かで

どれほど、何度同じ過ちをしようと

時間が経てばなあなあになって

忘れかけてしまう。

その心の隙間に期待が入り込む。

他人に期待するだけ無駄なのに、

その生き方しか知らないせいで

どう足掻いても抜け出せない。


家の扉を開いた。

すると、リビングから

とたとたと走ってくる音がした。

ふと顔を上げた時には

正面から衝撃が加わっていて

思わず倒れそうになる。

何かと思えば、アサヒが

うちに抱きついてきていた。


彼方「…は?なん」


アサヒ「ごめんなさいママぁ…っ…僕、僕が悪いことしたから、ママは…ママはぁ…いつもお家にいるのに、いなかったからっ…。」


彼方「…っ!」


アサヒ「帰ってこないんじゃないかって思って…ごめんなさいぃ…うあぁっ…。」


アサヒはそれ以降

言葉という言葉を発さず

ただわんわんと泣いていた。

それをどうすることもできず、

ただ答えるようにして抱きしめ返す。

アサヒの涙と鼻水が服を濡らす。

ぐしょぐしょになってもなお

うちのことを離そうとしなかった。

だからうちも離さなかった。


最低だ。

知らずのうちにうちは

母親とおんなじ事をしていたんだ。

金を置いていけば子供は不便しない。

勝手に寝起きするだろう。

好きな時間に戻ればいい。

戻りたくないなら戻らなくていい。

そんなはずないんだ。

子供がいるんだ。

きっとこの夢の中でうちは

専業主婦で家から出ることが

少なかったんだろう。

アサヒが帰ってきてからの約5、6時間

彼は心底不安だったろう。

普通ならこんなことは起きないから、

親に何かあったのだろうと

思ったのかもしれない。





°°°°°





彼方「お母さん…!お母さんおかえりなさい…っ。ねぇ、なんで帰ってきてくれなかったの…っ。」



---



彼方「お金…?うん。まなとと2人でご飯買ってきて食べたよ。ちょっとだけ余ったよ、返すね。」



---



彼方「……お母さん。次はいつ帰ってくるの…?2週間後…?来月…?お仕事忙しいの…?」



---



彼方「…お母さん……。帰ってきてよぉ…寂しいよ…。」





°°°°°




そうだ。

母親はいつからかだんだん帰ってこなくなった。

毎回金を置いて出て行った。

毎度置いていく金の量はさほど変わらずとも

帰ってくる頻度が少なくなっていった。

死ぬかと思った。

死んでくれと思われていたのかもしれない。

けれど、生きるために、

大地に生きて欲しかったがために、

自分を売る手段を知った。

金が必要だった。

自分を、体を売れば金が効率よく、

大量に手に入るらしかった。

それで金を稼いだんだった。

いつからか母親は憎しみの対象へと変化した。

妥当だ。

うちらを捨てたんだから。


もしアサヒに対して

このような真っ黒な感情を抱いていたら、

信用できないと延々と思っていたら、

彼はうちと同じように

もう自分はいらないのかなと

思ってしまうかもしれない。

うちだってそうはさせたくない。

させたくないのに、

その方法以外わからない。

家庭を傷つけず、

自分も守る方法が、

どうしてもそれ以外で見つからない。


昨日のアサヒの怯えるような態度を見るに、

夢の中のうちは

アサヒに対して殴ったり当たったりと

していたのかもしれない。

殴られると、危険だと思わないと

あんな怯えた反応はできない。

ああ、この夢の何が幸せだ。

うちが幸せを壊している。

幸せになっちゃいけない。

できない。


仮にもアサヒに対して

今のうちが暴力を振るわなくて良かった。

もしコウに対しての憎悪や

その他のことでもいい、

心がさらに踏み躙られるようなことがあれば、

さらにアサヒを傷つけていたのかもしれない。

アサヒを置いて出て行ったにも関わらず、

自分を正当化するようなことばかり浮かぶ。


両手でアサヒの肩を掴み

そっと距離を空ける。

ぐずぐずになった顔で、

潤んだ瞳でこちらを見上げるアサヒがいる。

目線を合わせるためにしゃがんだ。

アサヒはきょとんとした顔をしていた。


彼方「…よく聞いてね。」


アサヒ「…ぐずっ…なあに…?」


彼方「今から荷物をまとめて、友達の家に泊めてもらいなさい。」


アサヒ「…え…?」


彼方「よそのお家を見てきて。うちにいちゃ駄目になる。」


アサヒ「やだ、やだ!僕が何かしたの?僕が悪いんだよね…?なら」


彼方「違う、違うの。…うちがこれまでアサヒに対して嫌な事をした時もあったでしょ?」


アサヒ「…っ。」


彼方「アサヒを傷つけたくないの。でも、どうしてもそうできない時があるの。母親失格なんだ。だから…できるだけ長く、他所に行って。それでうちの影響を無くしてきて。」


アサヒ「帰ってきちゃ駄目なの…?」


彼方「アサヒがまたうちに会ってもいいなって思った時でいい。明日でも明後日でもいい、でも少なくとも今晩だけは、お互い別々のところにいよう。」


アサヒ「じゃあ明日、明日帰ってくるから!だから…だから…。」


彼方「こんな人間でごめんなさい。」


そう言ってアサヒを自分の部屋に行かせる。

小学生の登校範囲といえば

さほど広くないことは目に見えている。

近所に友達くらいいるだろう。

よくサッカーをしに外に出ている感じを見るに

友人関係はある様子。

だから、夜遅いことは気になるが

泊まる場所が確保できないことはない。

夢なのだし、アサヒが向かう先の家へ

わざわざ手紙を認める必要もないだろう。

ソファに座って待っていると

荷物を持って悲しげな顔をしている

アサヒが立っていた。


玄関へと向かう背中を追う。

コウは勝手に出て行った。

アサヒは、出ていかせた。

うちが捨てた。

そう言い聞かせた。

結局あの親から生まれたうちだ。

子供を捨てるのだ。

幸せを捨てるのだ。

普通の愛がわからなかった。

愛を知らない人間が他人に

愛を与えられるわけがなかったんだ。


彼方「いってらっしゃい。」


アサヒ「……うん。」


アサヒはそれだけ言い、

とぼとぼと闇夜に消えて行った。

それを見届けることもせず

すぐさま扉を閉める。

その場で蹲る。

アサヒが踵を返して扉を叩き

「やっぱりママの元にいたい」と

言ってくれれば良かった。

そんなことは起こらなかった。

都合のいいものだけが夢じゃないから。


刹那、室内にいるくせに

風が吹いたような気がした。

慰めるような、

はたまた生暖かいだけのような。

まるで旧神居古潭駅舎の

トンネルを潜ったときのようだった。


しばらく蹲っていたが

どうにもならない。

当たり前のことに気づき、

やっとのことでその場を立った。


アサヒのことについて知るにも

コウのことについて知るにも体力がない。

もう夢の中の家族は捨てた、捨てられた。

執着する必要がない。

なら帰るのか。

帰ってどうする。

大地の元に帰るのか。

それは適切か?


彼方「…?」


そういえば、と

リビングに戻っては吹き抜けの2階を見る。

コウには「行くな」と言われていたんだっけ。

その後不倫だのなんだので

余裕がなくなって

すっぽり抜け落ちていた。

徐に体を動かして階段を踏む。

元の世界のうちの部屋も2階だった。

たった数日2階に行っていなかっただけなのに

長年封鎖されていた場所に

踏み込むような気持ちになる。


2階はうちの知っているものと

これと言ってかわりがなかった。

左側にうちの部屋、

そして右側に納戸と大地の部屋。

まず自分の部屋を見ることにした。

どんな風に使われているのだろう。

見るな、と強く言っていたくらいだ。

何かしら隠し事があるのだろう。

不倫の痕跡か?

ならあんなに疑わしくなるように

2階へ行くなというだろうか。

さまざまさな憶測が脳内で飛び交う中、

ゆっくりとその扉を開く。


彼方「…?」


すると、不思議なことに

…いや、当たり前なことに、だろうか。

うちの部屋があった。

見知った部屋。

高校の制服もあり、最近買った服もある。

小物もアクセサリーも

うちが持っているものが

並んでいるのが見えた。

ベッドに寝転がってみる。

元から掃除が行き届いていなかったのか

やや埃っぽい気もしたが、その程度。

なんら変わりがなかったのだ。


疑問に思い納戸をみる。

昔買ったであろう大型の家具や道具などが

段ボールに詰められたまま放置されている。

着なくなった服も詰められているようで、

これも記憶と相違ない。


そして最後、大地の部屋だった。

何となく2階から1階を見下ろす。

修学旅行に行く前、

いろはが遊びにきた時。

いろいろなシーンが浮かぶ。

そのどれもに大地がいた。


彼方「…。」


心に残るもやを捨て切ることもできず、

その取手に手をかけた。

そして、その中には。


彼方「…っ!?」


廊下の光が部屋に差し込む。

仄かな明かりの差す中には、1人の人がいた。

少年だ。

とはいえアサヒほど小さくもない。

学生服もハンガーにかかっている。

壁を背にベッドの上で腰掛けていた。

目の奥に光がない。

ゆっくりとした動きで

こちらを見たような気がした。

その髪の毛の癖に、

瞳に、顔に、見覚えがあった。


彼方「…大地…?」


「勝手に入るなって言ったよな。」


彼方「大地だよね…?え、何で…。」


この夢の中では

うちは結婚していたと言っていた。

現にコウがいて、アサヒがいた。

ならば、目の前にいる大地は一体何だ?

たまたま本物の家に

帰ってきてしまったのか?

いや、それ以前に

コウはこれを知っていて

通せんぼしていたのか?

それとも。

それとも、夢が切り替わった?


その場で立ち尽くしていると、

大地は手元にあったらしい

リモコンを手にして電気をつけた。

思えば大地はこんなな真っ暗な中

眠ることもせずただただ

座っていたのだ。

嫌なことでもあったのだろうか。

うちが力になれるのだろうか。


彼方「大地…大地、何か嫌なことでも」


「来んな、近づいてくんなっていつも言ってんだろ!」


彼方「…っ!?」


近づいて、抱きしめて撫でようとした。

いつものように。

しかし、大地はそれを振り払って

本気で相手を憎むような目をして

ベッドから立ち上がり

うちのことを蹴ろうとした。

間一髪で後ろに下がり

当たらなかったが、

それ以上に殴りかかってきそうな

気迫にやられてしまい、

更に数歩下がる。

がしゃ、と教科書やら何やら

いろいろなものを蹴飛ばす感覚があった。


どうして?

どうして、大地はこんなに怒っているの?

うちが何かした?

何で?

だってつい数日前まで

優しかったじゃんか。

この短期間の間で

何を心変わりしてしまったの?

ここまで彼に問いかける言葉が浮かんで、

不意に夢、という単語が口から出そうになった。


大地がうちを拒絶するはずがない。

だってうちは大地のために

人生を投げ出してまで頑張ったから。

だから。


大地は立ちすくんだまま

こちらをじっと睨んでくる。

それからうちが蹴り散らしたノート類を

静かに片付け始めた。


「そもそも大地って誰だよ。頭おかしいんじゃねぇの。」


彼方「……え…?」


「やっと帰ってきたと思ったらこれだよ!迷惑かけたいだけなら他所でやれよ。」


彼方「……大地って、名前…あの日…に…。」


「弟の本名も忘れたんだ。薄情だよ相変わらず。」


違う。

違うよ。

覚えてるよ。

でも、それ以上に

大地って名前を

大事にしてくれるって話だったじゃん。

親も帰ってこなくなって

うちが初めて稼ぎに出て

金をもらったあたりのこと。





°°°°°





彼方「……まなと。」


まなと「んー…?」


彼方「もうお母さんは帰ってこないね。」


まなと「…そうなのかな。」


彼方「だって現に帰ってきてない。でもうち、金稼げるようになったから。だからもう安心して。」


まなと「姉ちゃんが?それって大丈夫なやつなの…?」


彼方「心配しないで。まなとはこれまで通り過ごしていればいいから。」


まなと「手伝うよ。姉ちゃんだけに負担かけていられないし…。」


彼方「まだ小学生でしょ。大人になったらでいいよ。それまでうちが何とかする。そういう見込みはあるから。」


まなと「でも…。」


彼方「汚いのはうちだけでいいの。」


まなと「…。」


彼方「その代わりね。まなとにお願いがあるんだ。叶えなくてもいいお願い。」


まなと「何…?」


彼方「まなとから汚いものを遠ざけておきたいの。うちもそのひとつにはなっちゃうんだけど、ごめんね。」


まなと「姉ちゃんは汚くないよ。」


彼方「…ありがと。うちの他…親。親はうちらを捨てた。だから汚いやつ。伝わるよね?」


まなと「…うん。」


彼方「だからあいつからもらった名前を、この家の中にいる間だけでいい、捨てて欲しい。」


まなと「…どういうこと?」


彼方「…うちが名前をつけるの。…まなとがうちのことを汚くないって言ってくれたから、そう思えている間、汚い親からの繋がりを少しでも遠ざけたいの。学校や外では本名でいい。じゃないと変な子扱いされるから。」


まなと「姉ちゃんの前でだけ…。」


彼方「そう。お願い。」


まなと「いいよ。じゃあ俺も姉ちゃんに…」


彼方「ううん。それはいらない。」


まなと「どうして…?だってお母さんのこと嫌いでしょ…?」


彼方「…そうだけど、うちはあの人と同じもう汚いから。いいの。まなとから名前をもらっても削ぎ落とせないくらいだから。その気持ちだけで十分。まなとだけ綺麗なママでいて。」


まなと「…わかった。」


彼方「そうだな…大地って名前はどう?大きいに地面の地で、大地。いろいろなことを見聞きして、この家に囚われない生き方をしてほしいの。」


大地「…いい名前だね。」


彼方「でしょ。」


大地「姉ちゃん。」


彼方「何?」


大地「…いろいろありがとう。」


彼方「ん。大地は大切な家族だから。」


大地「…うん。」


彼方「そうだ、これからは稼ぎに行くから夜いないけど、留守番できる?」


大地「できるよ。でも姉ちゃん、夜苦手じゃん。」


彼方「そんなことないよ。雷が苦手なの。」


大地「そうだっけ。」


彼方「そうだよ。夜が怖かったのは捨てられたのかそうじゃないのかわからなかっただけ。捨てられた後はどれだけ憎んでもいい。もう怖くないよ。」





°°°°°





大地という名前をもらってくれた。

捨てられた事実を

捨てたという事実に塗り替えたかった。

そうすることで、親になんぞ

何も執着がないようにしたかった。

けれど、目の前の大地は

名前をもらっていないことになっているらしい。


彼方「……まなと。まなとだよ…本名。覚えてる。ちゃんと覚えてるよ。でも、そうじゃなくて、大地って名前を」


まなと「妄言も大概にしてくれ。お前のせいで人生ぐちゃぐちゃなんだよ。わかってんだろ。」


「早く出ていけ」と

大地は…まなとは

拾ったノートをうちに向かって投げた。

大地ならそんなことはしない。

慌てて部屋から出ていく。

これ以上大地の顔で、声で

心を抉られる言葉を言われるのはしんどかった。

辛かった。


部屋から出ると、

ものすごい勢いで扉が閉められた。

彼の投げたノートが数冊

ぐしゃぐしゃになって

うちの足元に転がっている。

それを気持ちばかりか

扉の横に並べて置く。

そして静かに階段を降りた。


これは違う。

現実じゃない。

でも、現実に限りなく近い。

途中、さっきの彼は

「やっと帰ってきたと思ったらこれだよ」

と叫んでいた。

もしかしたらうちが大地のことを

捨てた先の未来なのかもしれない。

母親も全く同じことをしたら。

その未来を2度も見た。

うちならやりかねない。

今、本物の大地に対してだって

やりかねない話なのだ。

どうやったら彼に許してもらえるのか。

そこで浮かぶのはやはり

出て行った期間分の金を

渡して置くことしか出てこなかった。


彼方「…。」


リビングに降りてソファに座る。

隅に置いていたタオルケットを首までかける。

何も考えたくないのに、

自ずと先ほどのまなとと大地が重なる。


弟は。

大地は、愛した分だけ

愛が返ってくるから良かった。

だから愛し続けた。

そうしているつもりだった。

けれど、もし大地自身は

全て邪魔だ、おせっかいだと

思っていたらどうしよう。

うちに束縛されて厄介だと

思っていたらどうしよう。

うちを安心させようと言う義務感で

愛を与えてくれていたってこと?

それなら。

…なら、うちはどうだ?

血のつながった家族だからって

最低限生きれるように、

進学はできるようにと金を貯めてきた。

大地が生きる希望だからと

言い聞かせてきた。


しかし、それも義務感の愛じゃないか?

じゃあうちは大地に何をあげられた?

金だけか?

生活か?

名前か?

そのどれもを欲していなかったのだとしたら

うちは今まで何故生きていた?


大地は、愛した分だけ

愛が返ってくるから良かった。

だから愛し続けた。

そうしているつもりだった。

つもりでしかなかった。

そこには契約にも似た冷たい関係。

金だけの、うちがこれまで

体を売って金を稼いでいた時と同じ関係。


彼方「……っ。」


愛って何だ。

誰も教えてくれなかった。

だからうちはこんな無様で愚かな人間になった。

最悪な事態にならないように、

最悪な事態にならないようにと

気をつけていたはずが、

気づけば足を突っ込んでいたらしい。


ぽつ、ぽつと

窓を叩く音がする。

今晩はどうやら雨が降るらしい。

タオルケットを頭まで上げる。

耳を塞ぐ。

それでも完全に

音を遮断することはできなかった。

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