第11話
翌日。日曜日の朝。
朝食はご飯と佃煮、油揚げと小松菜の味噌汁だった。豆腐がない。もう次から二丁ずつ買って来る方がいいかもしれない。
「桜史郎、話があるの」
と桃子はリビングのテーブルの前の席を示す。窓際でまどろんでいたたまがちらっと二人を見て、
「じゃ、わらわ見回りいってくるぞな」
狐の姿に戻り、しゅるりと出ていった。
「いってらっしゃい」
と見送って、桃子は桜史郎の顔色を見る。いかにも健康そのもので血色がいいが、なんだかそわそわしていた。何について怒られるのか、過去を大急ぎで振り返っている顔だ、これは。……普段何をしているのやら。
桃子は一枚の通帳を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これ、あんたのお父さんの名義の通帳よ。昨日、ある人からもらってね。あんたのだから、あんたが管理しなさい」
桜史郎の顔色が変わった。
「『こっちの世界』の連中から接触があったのか?」
「ほんの下っ端だと本人は言ってたし、実際そうだったと思う。私をどうこうしようとはしてなかったよ、大丈夫」
「おばさんは穂宮の家から離れてるんだから、そっとしておくのが礼儀なのに」
と頭を抱える様子である。桃子にしてみれば、そんなしきたりがあったことに驚きだ。ますます両親の選択は正しかったのだと思える。
「それでこのお金のことだけど、名義があんたの父親になっているから、私が勝手に使うわけにはいかないのよね。使い道について……」
「いや、それはおばさんが取っておいてくれればいいよ」
「それはできないよ」
桃子はきっぱりと首を横に振る。
「これはあなたの、土崎のお金だからね」
二の句が継げなくなった桜史郎はしばらく口をぱくぱく開閉させていたが、やがてしぶしぶ手を伸ばし通帳を受け取った。
「じゃあ……もらっとく。うわ。こんな金額入ってるの怖ぇよ」
と戦々恐々、薄く開いた通帳の中身を矯めつ眇めつしているのが微苦笑を誘った。
桃子は内心、ほっとしていた。桜史郎が素直に自分の取り分を受け取り、また自分の生活費や学費にまで気が回っていないようであるのが逆に安心だった。学費は桃子の懐でないところから引き落としがされている。桃子からはその問い合わせ先すらわからない有様だ。
霊力のない無能力者は陰陽師たちの間で一人前とみなされない。桜史郎がごく『普通』の感性でものごとを見つめられる子で本当によかった。あまりにも『あっちの世界』のことしか知らないと、桃子の一人暮らしを親に幽閉されていると思いかねないから。
十五歳に金の心配をさせるなど、大人の、血の繋がった身内のすることではない。生活費は桃子が負担しよう。幸い、というか正直顔がにやけそうだが、両親からだという通帳の金額はそれなりだった。
妹夫婦に義理を通したことで肩の荷が下りた。桃子はいつものくどくどした口調で告げる。
「変な無駄遣いしないのよ。大きな買い物をする前に必ず相談すること」
「怖くて引き出せないよ、こんなの。ていうかなくしそうだな……」
「絶対なくさないところにしまっておきなさい」
「うん」
生真面目な顔で頷いた。これが漫画や小説の中であれば、こんなちまちました、生臭い現実味のある話をしなくてもよかったのに。
「で、最近学校はどうなの? 奏汰くんと優希ちゃん以外で友達できた?」
「まあ、そこそこ」
桜史郎の顔が一気にめんどくさいなあ、そのものになったので、桃子は半笑いである。
「将来はどうするとか決めた?」
「陰陽師だ」
桜史郎はまっすぐに桃子を見る。
「陰陽師になるよ、俺は。――父さんと母さん、見つかってないんだろ」
桃子は頷く。確信をもって肯定なり否定なりしてやれないのが歯がゆかった。
「十八になったら正式に倫理呪言委員会に登録して、陰陽師になるよ」
「わかった。でも焦る必要はないよ。ゆっくり一日一日を過ごしていけばいい。高校の間はこの家に帰っておいで。おばさんはずっとここにいるからさ」
桜史郎は桃子の言葉に顔をくしゃくしゃにして笑った。幼い子供そのものの表情だった。
「ありがとう、おばさん。心強いな。」
「あんたの後見人ですからね。私にできることがあるならなんでも言って」
桜史郎はしばらく黙って考え込んだ。
「おばさんの夢は?」
「え?」
「ここでこのまま生きて、死んで――ずっと一人で? それは寂しいだろ」
迷子の子供のようにあどけなく、彼は桃子を見つめる。
「結婚相手とか、いないの」
桃子は吹き出した。この子には全部があった。桜子の闊達さ、慎司の気難しさ、それから土崎のおうちの古びたところ、若い男の子の無鉄砲さに世間知らずに高飛車な信頼。
「大きなお世話よ。ほっといて」
「でも好きな人がいるのに、俺のせいで結婚できないんじゃ……」
「そんな心配してたの? 毎日定時で上がってるのにそんなわけないじゃないの」
桜史郎は納得いかない顔である。言葉を探しあぐねたように手をわたわたさせながら、
「母さん、結婚してすごい幸せだって言ってたから」
「そうなの?――夫婦仲いいなあとは思ってた」
「だからおばさんもそういう考えなのかなって思ってた」
「姉妹でも別の人間だからねえ。私はそういうふうには考えないかな」
「へえ……」
珍しい生き物を見るように桜史郎は瞬きをする。
「そんなら、いい、けど。俺が邪魔になったらすぐ言ってよ」
「そんなことにはならないと思うけど、わかった」
うんうん。伯母と甥っ子は頷き合い、それで会話が途切れた。焦るような沈黙ではなかった。むしろ心地いい。ガラス窓ごしに太陽はぽかぽかと温かかった。
「あんたが無事でよかったよ」
頬杖ついて窓の外を眺めつつ、桃子は言った。庭木は古く手入れがされていない。ずっと前、会ったことのない祖父が建てたという家はあの頃のままだ。
「桜子たちがいないのは寂しい。心配だ。でもあんたがこの家に来てくれてよかったと私は思ってる。そのことは知っておいて」
桜史郎の手がテーブルの上でぎゅっと握りしめられるのを、桃子は見て見ぬふりをする。
「……俺も、ここにこられてよかったと思う」
吊り目を伏せて桜史郎はゆるく頭を振った。黒髪がさらさら流れ、なんてことだろう、桃子と同じシャンプーとリンスしか使ってないはずなのに天使の輪ができる。若さである。
「親を探して飛び出していかないで、よかった。いつか必ず――今よりもっと強くなって、体勢を整えて、父さんと母さんを探しに行く」
「そうしなさい。応援するよ。……たまちゃんが帰ってきたね」
毎回のことながら、たまの空気の読め具合には感服する。桃子はたまを迎え入れ、リビングに戻ったときには桜史郎は二階に引っ込んでいた。北側の彼の部屋から何やらぶつぶつ言っているのがくぐもって聞こえる。また通話だろうか、相手は奏汰か、はたまた別の人か。
「あっという間に切り替えたわね」
「やれやれじゃのう」
桃子とたまは目を見かわして笑った。
風がガタガタと窓を揺らした。エアコンの効いた室内にいるとわからないが、あの風は冷たいのだろう。桃子のいるのはいつだって暖かい場所だから、実際に戦う力ある者たちの考えることに心から同調できない部分もある。けれど受け入れることはできる。
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