第8話



あんなわかりやすい罠にみすみすかかった自分もそうだし、状況が全部わからないのもそうだった。桜史郎のことも心配だった。桃子ごときにさえ接触があったということは、あの子はもっと厄介なことになっているに違いない。たまが出て行ったのがその証拠だ。


帰りが遅くなる日、桜史郎が何をしているのかもっと問い詰めるべきだった。玄関で叱った日から、連絡はくるようになっていた。今日も来ていた。『今日も遅くなります。晩ご飯食べます』だけだったが、桃子は安心したものだ。


安心したからといって、心配しないわけではない。いつ帰ってくるのかと思えば胃が痛くなる。


……両親のことも、桜子のことも、いつだって心配していた。できることがあれば何でもしてやるつもりだった。彼らは大人で、桜史郎は子供だが、そこにはなんの違いもない。


桃子は首を振る。髪の毛の先がぱさぱさ首に当たった。いやな汗をかいたあとだったので、まずシャワーを浴びた。それからジャージに着替え、猛然とキッチンに向かった。


冷凍庫の一番奥――あった。ふるさと納税でもらった牛筋肉。ばちんと意識が切り替わる。現実逃避? 思いたければ思い、笑いたければ笑え。桃子が何もできないのは事実だが、本当に何もしないで電気を消したリビングで座って待つつもりはない。


桃子は桜史郎とたまが帰ってくることを信じている。その証拠に、今日も料理をする。


牛筋肉をパックごと流水解凍。メニューは決めてあるというか、いつか作ろう作ろうとしているうちに延び延びになっていた。ワイン入りのビーフシチュー。じっくりことこと、いつまでも煮込んでやろうじゃないか。


食材をずらりとテーブルに並べ、いつの間にか微笑んでいた。

長ねぎの青い部分を半分に切り、生姜は皮ごと薄く切る。雪平鍋にたっぷりお湯を沸かし、沸騰したら解凍した牛筋肉、長ねぎと生姜を加える。そのうちグツグツと大量のアクが出始めた。シンクに茹で零す。


長い間冷凍してしまったから、念のためこの工程をもう一回繰り返す。泡立つアクごとざるにあけた肉を流水で洗い、血のかたまりや汚れを除く。それにしてもいい肉である。さすが返礼品。


時間をかけることに対するいら立ちはなかった。今日は金曜日である。思う存分手間ひまかけてやろうじゃないの。頭の片隅をよぎる不安から目を逸らし、手を止めることなく一つずつ手順を進めていく。

具材となる野菜の下ごしらえだ。玉ねぎを切る。じゃがいもとにんじんの皮を剥き、じゃがいもは芽を取る。にんじんは面取りまでしてやった。


持っているうちで一番大きい鋳物鍋に、下処理が終わった野菜と一口大に切った茹で肉を入れる。全部にかぶるまでの水を注ぎ、まずは強火で沸騰するまで待ち、その後は弱火。


互いにぶつかり合いながら踊る食材を見ていると、徐々に心が落ち着いてきた。


フライパンに有塩バターをざっくり入れる。じゅわじゅわ溶けて香ばしい香りが立ち上ったところで、細切りにした玉ねぎを炒め、薄力粉を加える。ちゃんと小型のざるでふるってやった。洗い物が増えても今日ばかりはいいのだ。


抑えるように混ぜながら炒め続ける。無心になれるから料理はいい。その上おいしいものまで食べられるのだから一石二鳥だ。


粉っぽさがなくなったフライパンの中に、顆粒コンソメにケチャップにウスターソース、トマトジュースと塩コショウ、とにかく思いつくがままに全部入れていく。全体がねっとりまとまったら沸騰する鍋の中に投入。少しずつルーが溶けていくのをお玉で崩し、最後まで面倒見る。


そして最終兵器デミグラスソース缶。賞味期限は再来月。わりとギリギリだった。使う機会が訪れてよかった。ぱかっと開いて中身を全部鍋に入れ、できることはやった。


水菜を切って洗って水を切り、半分にしたプチトマトと一緒にガラス皿に盛り付け、こちらはラップして冷蔵庫に入れた。食べる前にドレッシングをかければいいだろう。


ふう、とため息が口からこぼれた。とろとろに粘度が増していく鍋の中を桃子は見つめる。家の中が明るく、温もりが広がっていくような気がした。料理は栄養を取るためお腹を満たすため、それだけではないのだ。


そのあと炊飯器を二回ほど稼働して、冷凍ご飯のストックを貯めに貯めた。桜史郎はたぶん一回に二つ食べるな……と遠い目をしながら。


桃子がくどくどうるさく言ったおかげで、最近は自分のものは自分で洗うし皿洗いにも自主的に立つようになった。正直言って助かっている。初日の遠慮が消えて、すっかり子供の顔で居座られてしまったら一悶着あったことだろう。桜子がうまく育ててくれたから、そうならずに済んだのだ。土崎のおうちは男尊女卑的なところがあるから、桜子は苦労しただろうなあと思う。


シンクを磨きながら小声で歌う。普段はやらない食器棚の上まで拭いて、時々鍋の中身をかき回し、水を足す。

さて次は予備の毛布でも洗おうかと、二階の真ん中の部屋の押し入れから引っ張り出したときだった。


小さな庭から派手な悲鳴と共に、何かが落ちる音が聞こえた。どさどさどさっと三回。周りの田んぼにもよく響いたことだろう。


桃子が庭へ続く窓を開けると、一人すたっと着地したたまと目が合った。彼女はしっぽをふりふりしながら両手を突き出し桃子へ甘えてくる。


「今戻ったのじゃー。晩ご飯食べるのじゃー!」

「……後ろは全員無事?」

「ちょっと怪我してるけど心配せずともよい。若いから唾つけときゃ治るわえ」

「だっ、誰が……っ」

「くそっ、奏汰お前どけ! 重い!」

「いやーっ、スカートめくれる、めくれる!」


賑やかなものである。桜史郎と、公園で助けてくれた少年と少女だった。だんごになったところから一足先に這い出した少女の方と目が合った。あ、の形に少女の口が開かれる。


「おばさん! 無事だったんですね。よかった……っ。アレ? ここって桜史郎の家じゃないの? えっ」

「うん。桜史郎の伯母です。桃子と言います。よろしく」


桃子は頭を下げる。少女は慌てて同じようにした。男の子二人は、いつの間にか取っ組み合いに発展している。

「あの、はじめまして。私、鉄口優希といいます。あっちは波ノ宮奏汰です。桜史郎くんとはクラスメイトで――ってこら! 何やってんのよ人様の庭先でっ」


たまと桃子は弾かれたように笑い声を立てる。胸のつかえが下りて、桃子は心からほっとしていた。

優希に引き摺り出されるように奏汰が出てきた。ひょろりと背が高く、眼鏡をかけている。鼻がちょっと鷲鼻で、そこがバタくさい魅力になっていた。


「す、すいませんお騒がせを……。波ノ宮奏汰です」

「桜史郎からよくお名前聞いてます。一人暮らしなんだって?」

「えっお前言ったのかよ」

「言われて困るなら俺に知られるなよ」

「は?」

「あ!?」


たまがぱちんと指を鳴らすと、青い火が桜史郎と奏汰の間でぱちんと弾ける。

桃子は額に手を当てつつキッチンを振り返った。鍋は元気にぐつぐつ言っている。


「鉄口さん、ご家族は?」

「あっ、えーと、いません」


少女は言いにくそうである。ごめんね、と小声で返す。

ふむふむ。土崎桜史郎、波ノ宮奏汰、それから鉄口優希。どうやら三人が三人とも事情があるようだと桃子は思った。


「じゃ、お上がんなさい。ちょうどビーフシチュー作ったから食べていくといいよ。玄関に回って。――たまちゃん鍵開けてきて」

「うむ」


奏汰は顔を輝かせ、優希はえっえっと辞退する構えを見せ、スニーカーを脱いだ桜史郎は我が物顔で窓から部屋の中に入った。

「いいって言われてるんだから、上がれよ。飯食ってけって。もう遅いしこのへんはバスもねえぞ」

ぶっきらぼうに告げて切れ長の目をあさっての方向に飛ばす。桃子は容赦なくそのつま先を踏んだ。


「玄関に回れっつってんでしょうが。率先して別のことする子がいますか。言うこと聞きなさい」

「……ういっす」

「開けたぞーい。何話しておるのじゃあー、寒いからはよう入りやれ」

と、ちょうどよくたまの声がした。


桜史郎はのろのろスニーカーを履き直す。桃子は三人ににっこり微笑みかけた。

「じゃ、上がっておいで」


牛筋シチューは好評で、鍋いっぱいに作ったのが全部なくなった。炊飯器がちょうど三回転目だったのが功を奏し、ご飯もサラダも景気よく減っていく。


テーブルは高校生たちに譲り、桃子とたまはちゃぶ台の方で食べた。ちらちら若い方を見ながら、

「すごい。掃除機みたいに減ってくわね」

「見るだけで腹いっぱいになるのう」

とひそひそしたり。


ちょうど食べ終えた頃にチャイムが鳴った。桃子が出るとスーツ姿に七三分けの、絵に描いたような大人である。


「冬宮の者です。うちの預かりの者がお世話になりました。迎えが来たとお伝えいただけますか」

「ご苦労様です。――優希ちゃん、お迎えきてるよー」

脳味噌の使っていない部分が久しぶりにフル回転し、桃子はあやういところで思い出した。


冬宮は身よりのない霊力を持つ子供たちを面倒見ている組織の名前だ。お母さんの友達にそこの施設出身の人がいて、子供同士の確執が大変だったという話を聞いたことがある。そうか、優希は冬宮にいるのだ。


「ああ、穂宮さん」

と呼び止められ桃子は振り返る。男はにこりともせず、撫でつけた髪は一糸も乱れず動かないまま、


「波ノ宮奏汰も一緒に送っていきますので」

「あ、どうも」

リビングに行くと会話が聞こえていたのだろう、二人はもう支度をしていた。桜史郎が残念そうな顔をして、しかもそれを隠そうと何でもないふうを装っているのがわかった。案外かわいいところのあるヤツである。


奏汰は手ぶらだったが優希はスクールバッグがあった。リビングを出る間際、彼女は思い出したようにその中を探り、

「桜史郎、忘れてた。返す。貸してくれてありがとう」


と言って小さな、鉛筆を削る肥後守かカッターナイフと見間違うくらいの小刀を桜史郎に手渡す。奏汰がそっと先にリビングを出て行き、たまはちゃぶ台の上を拭いている。桃子もキッチンに飛び散った水滴を拭くふりをした。


「べ、別に返さなくてもよかったのに」

「いや、返すよ。大事な守り刀なんだもん……」

「あ、っそ……」

何やら甘酸っぱい空気になりかけている。


優希は踵を返して玄関に小走りで向かった。桃子は桜史郎の背中を叩き、一緒にそのあとに続く。

「またおいで、二人とも」

「ありがとうございます。ご馳走様でした。今度は手土産持ってきます」

「私もそうします。ご飯おいしかったです。ありがとうございました」

「どういたしまして。――ホラあんたも」


桜史郎は桃子をうるさいなあという目つきで見て、

「また……今日みたいな失態は次はしないけどな、俺は。でもまた来ればいいんじゃない?」


桃子はいらっとした。いつの間にか近くに来ていたたまが手を握ってくれなければ、いらん口出しをしていたかもしれない。

子供たちが目を見かわしてプッと吹き出したので、どのみちそんなことはしなくてすんだのだった。


外には桃子が逆立ちしても買えないような車が止まっていた。クラウンだ。

子供二人を後部座席に追い込んだ男が、一人庭先まで出てきた桃子にふと思い出したように言う。


「穂宮さん、土崎桜史郎を冬宮に預ける気はありませんか。こちらはプロですから、お宅様より能力指導には詳しい者が揃っております。万一の際のサポートも手厚いですよ」

「いいえ」

桃子は微笑する。業務用の微笑は接客業をしていたとき以来だ。

「うちの子です。どこにもやりません」

「わかりました」


そうして車は田んぼの横道を去っていった。


桜史郎はもう玄関にいない。気恥ずかしいのかなんなのか、五歳の女の子みたいに引っ込んでいたのだった。


リビングに行くとたまと桜史郎は何やらひそひそ話している。

「何の話?」

「別に」

「のじゃー」

桜史郎は桃子に背中を向けた。耳がわずかに赤い。たまも耳をぴょこぴょこ動かして上機嫌である。何が何だか桃子にはわからず、といって問い詰めてもわかるものでもない。


桜史郎は流しに行くと、自主的に洗い物をはじめた。

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