第7話
自分ではなにもできないといえど、桃子の危機回避能力もそれなりのものである。人間ではないものに恨まれることも多い家業、実家は安全だったけれどそれでも完璧ではなかった。数珠やらお札やらを神妙に渡される日もあったし、なんだか通らない方がよさそうな道というものへ直感が働いたこともある。
だからまったくもって、どうしてこうなったのだか。油断していた、といえばそうなのだが。
桃子は今、公園の低木の丸い葉っぱの中にいる。近くの小学校のチャイムがボーンと鳴って、蛍の光が流れた。帰る時間です。児童のみなさんはすみやかに下校しましょう……。
戻らなくちゃ。桃子も家に、帰るのだ。
「うああああ」
と小さな悲鳴が聞こえた。
桃子は声にならない悲鳴を叫んで両手でつくったお椀に顔を埋めた。
「どおおおぉこおおおおお。出ておいでぇぇぇぇええ」
と、その人はずるずる茂みの向こうを進んでいく。
(こ、こわ。怖い怖い!)
心臓がどくどく波打っていた。こんなに鼓動が早くなるのは子供の頃の全力疾走以来じゃないかしら。
その人の足音と呻くような声のさらに向こう側で、遊んでいた子供たちが親に呼び掛けられ帰っていく。たぶん――この低木と、足音の主以外の公園は正常なままなのだ。
(ここよ、ここ! こっちにいるのに。ううぅ、気づいてよお……)
と、理不尽にも見知らぬ人相手にキレそうだった。
神様、なんか私やらかしましたか。桜史郎が何度言っても汚れた靴下を裏返したまま洗濯機に入れるから、しかもそのまま洗濯ボタンを押すから言い合いになったからですか。たまちゃんのしっぽを踏んづけた昨日のことなら謝りますから。
ああ――思えば、とくに何か悲しい思いをすることもなくノホホンと暮らしてきた人生だった。そりゃあ一人だけ無能力なことがイヤだったりはしたけれど、それは自分だけ養子だと知ってる子供のうちの一人くらいの意味でしかなくて、愛されている自覚はあったからいつもイヤだったわけじゃない。
桃子の育った環境に、明確に桃子を傷つけようとする悪意は少なかった。皆無だったといっていい。
パワハラ上司とか、セクハラ取引先とか、いなかったわけじゃないけどもう顔も忘れた。
あのときの悔しさと怖さを、思い出してひきずられそう。そのくらい明確な恐怖の対象がすぐそこに、いる。
そもそもの発端は公園から悲鳴が聞こえたことだった。ちょっと遅くまでやっている郵便局からの帰り、安い方の駐車場まで歩いてきた通り道。
うぎゃあああん、と子供の悲鳴だった。桃子は何の気なしにそっちを向いて、公園のジャングルジムの真ん中で血まみれになった子供を見た。慌てて駆け寄ると子供は消えてしまい、ジャングルジムも消え、周りにちらほらいた大人と子供も消えた。
そもそもあんな状態の子供を誰一人として気にしていないのがおかしかった。気づけなかった桃子は迂闊だった。
「ねええええええええええ」
とずるずる足を引きずる音、耳を塞いで蹲る。低木の中が空洞になっているのは知っていたが、大人になってから入ることになるとは思わなかった。
桜史郎に連絡を取れればどうにかなるかもしれない。スマホはジャケットのポケットの中にあるが、手を伸ばすたびに外の足音の主がぬうっと現れたらと想像し、躊躇する。
脚全体を引きずるような平べったい足音が、あ、また。また、戻ってきた。
手のひらがずきずき痛んだ。どこかにひっかけてしまった傷が、血は出ないものの赤く一本線になっている。――彼らは血の匂いに敏感なのだ。桃子は歯噛みする。
(とにかく、なんとか音が出ないように連絡……)
するしかない、とポケットに手を伸ばしたときだった。
「――っちょ、うわああああ! こんなとこにいたああああっ!」
元気な威勢のいい声がした。怒鳴り声と言っていい。運動部で毎日声を出すのに慣れた少年の声だった。
「誰かいる! 誰かいるわ、巻き込まれてるっ!!」
と少女の声。応えてさっきの少年の声が、
「じゃあそっちを助けてやって、優希!」
軽い体重の足音が軽快に素早く動き、がさり、と低木の葉が揺れる。ヒュッと鋭い風を切る音がすぐそこでして、
「ねえええええ、なああああんでぇぇぇえええええ」
「なんでもさってもねえええ! ウチの結界ブチ破ってこんなとこまでお前ぇえっ」
と、どうやら戦闘になったらしい音がした。
桃子はそちらを見ることもできない。息も絶え絶えに、伸びてきた細い手に掴まって低木の外に転がり出た。
「説明はあとでします。今は避難しないと。走れる!?」
元気溌剌を絵に描いたような少女だった。肩までの髪はくるくると跳ねて、大きな目がいかにも勝気そう。桜史郎が通う高校のセーラー服姿だった。肩にかけたぺたんこのスクールバッグとローファーがぺかぺか光る。
桃子は一も二もなく頷いた。少女に手を引かれて走り出した。
後ろでは少年の声と何者ともしれない人の吠える音、それから爆発音などが聞こえてくる。走りながら笑いそうになったが、ヒステリーを誘発しそうで耐えた。
公園と歩道を遮る車止めの間をすり抜けたとき、もう大丈夫だ、と感じた。明らかに空気が変わったのだ。普通の空気、街のざわめき、夕暮れになりかかった空の暗さに胸がせわしなくなる感じ。
「あり、ありがとう……助かったわ」
「おばさん大丈夫? 息をして。息をするのよ」
と少女は背中をさすってくれた。桃子は涙を拭いながら咳き込んだ。
「ごめんね、すぐに行かなきゃいけないの。アイツが――友達が一人で戦ってるから、加勢しないと」
「こっちはなんとでもなるよ。友達を助けに行ってあげて」
と桃子は笑った。額から汗がたらっと垂れた。
少女は踵を返して駆けていく。身のこなしのしなやかなことは新体操でもやっているのかもしれない。
桃子はしばらく車止めに手をついて呼吸を整え、フラフラ郵便局の駐車場までを歩いた。
こういう場合はどうなるんだっけ……ああそうだ、記憶を処理する役目の人とかが来るんだった。どこかで聞いたことがある。
桃子は自分の車に辿り着き、エンジンをかけた。
そういえば忘れていた。中学一年生のときのことだ。夜更けに目覚めた桃子はなんだか気持ちが悪くなってトイレに言って、吐いた。明らかに食べたものより多くの吐瀉物が出て、そのうち砂利みたいな気持ち悪い、いやなにおいがする灰色のものに変わり、とうとう最後の最後にカエルが出てきた。驚愕した桃子は両親の寝室を叩き、父に捕まえたカエルを差し出した。
「なんかね、桃子のお腹から出てきた。今」
握ったカエルは温かくぬめって、腹に変な文字が書かれていた。梵字、というのだろうか。日本語の漢字ではない文字だった。
父の顔色が変わり、母が塩水とお札を出してきた。それからどこかの知り合いの家に駆け込んで、お祓いをやってもらった。神道だか陰陽道だか、お祓いができる人の家だった。
朝にはなんとかよくなって家に帰った。そしたら桜子が何も気づかずくうくう寝ていたことがわかって、みんな脱力したものだ。
桃子が直接怪異と関わったのは、あれが最初で最後だった――と、思っていた。
「こういう展開はいらなかったんだけどなあ。桜史郎が気に病まなきゃいいけど」
今までが平穏無事だったからには、巻き込まれた原因には少なからず桜史郎が関わっているだろうから。縁は繋がり、また切れ、そしてまた繋がるものだから。異能の者たちの傍にいる無能な者も、絶対に被害に遭わないとは言い切れない。
桃子が実家を離れて以来帰らなかったのも、そういう事情があるのだ――。
好きだけど、好きだからこそ、いつまでも一緒にはいられない。この世にはそういう愛もある、と家族から最後に教わった。最初にたくさん愛してもらったから桃子は一人でも一人ではなかったし、東京やここで生きることができた。
ぐったりしながら家に帰りつく。テレビを見ていたたまが桃子を見てピャッと飛び上がり、キッチンから塩を持ち出してきた。桃子をかがませて、パッパッと頭に振りかける。
「わらわがついておらんとどうにもならんの、お前たち……」
「そうかもしんない……」
やれやれ、という顔で、けれどたまの赤い目はギラギラ光っている。カエルを吐いた夜の両親の顔によく似ていた――よくも自分じゃなくてこの子を狙いやがったな、という目。
「あー、でも、桜史郎が悪いんじゃないと思うのよ。私を狙っ……たのかもわからない。行きずりの獲物だったのかも」
と、手早くいきさつを伝え、
「男の子と女の子の二人だった。陰陽師かは分からないけど『こっちの世界』の人だった。たぶん男の子は桜史郎が話してた子だと思うよ、喧嘩したとかいう」
「ふんふん。わかったわえ。桃子はここにおるんじゃよ。ちょっとわらわ出てくる」
「危ないことはしないでよ?」
「せんせん。なんかあったまるもの作っておいておくれー」
たまは庭へ続く窓をからりと開けると、そのまま身を翻し行ってしまった。夜が来ようとする夕暮れ時、逢魔が時だ。ここからが彼らの時間だ。
窓を閉め、カーテンも閉めた。時刻は午後六時十分。
……猛然と腹が立ってきた。
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