第5話
「ホントにおばちゃんも行かなくて大丈夫?」
「大丈夫だってば! 高校生にもなって付き添われていくやつなんかいないよ。じゃあね!」
ばたばたしているうちに十一月になった。桃子もそうだが桜史郎とたまも忙しそうで、というのはつまり『あっちの世界』の事情で走り回っていたらしいのだが、なんとかそれも落ち着いた。
桜史郎は転校手続きがなされた高校に今日から通う。心配する桃子を邪険にするその背中を見送り、桃子は出勤のため車に乗り込んだ。
「いってらっしゃいのじゃー。わらわも二人が帰る頃には戻っておるゆえ」
というたまは、今日一日獣の姿で近所を散策するらしい。
「まあわらわ小型犬みたいなものじゃし、このへんの神と会議っぽいことをするのじゃ。挨拶はしておかんと」
とのことだった。
今の仕事は工場の事務員で、派遣だ。契約終了日が来たら次はどうなるかわからない。ここは東京ではなく、選択肢は常に少ないのだ。家賃がかからない住居があるのは、だからかなり助かっていた。
午後五時には一日の仕事を終えた。家に帰る足も軽い。家に誰かがいてくれる、というのは気分が上向きになるものだった。
給油に立ち寄ると、円高に思いをはせるほどの金額だった。ピュウピュウ吹く風がジャケットを通して腕に染みる。
小さな町のスーパーに寄った。実のところ、桜史郎が来てからお米を炊いても炊いても追いつかない。恐ろしいほどのスピードで米櫃の中身が減っていく。桃子一人の稼ぎではちょっとエンゲル係数を支えきれないかもしれない。
家についてもたまはいないし、桜史郎も戻っていないようだった。初日だから部活の見学にでも行ったのだろうか。
「友達できるといいけどねー。あの子スカしてるからなあ」
洗濯物を取り込んで畳んだり、軽く掃除したりしているともう七時である。さすがに遅い。
不審に思いつつも、もし桃子のわからない世界の方で何かが起きているのなら変な連絡は足を引っ張る。気分転換もかねて料理することにした。
鶏ささみパックを取り出した。グラムあたりが底値のタイムセール品だ。冷蔵庫に入れられていたので冷たい。よく手を洗って、フォークで筋を取る。
まな板にラップを敷いて肉を乗せ、もう一枚ラップを上に。それから綿棒を取り出してぼこぼこに殴った。肉の繊維が断ち切れ、グニャグニャに半分の厚さになるまで。鶏には悪いが、ストレス解消である。ひと口大にそぎ切りにし、ボウルに入れ、片栗粉とマヨネーズと醤油を加えて揉み込む。真っ白になった肉を味がなじむまで放置。
泥が落とされ済みのごぼうのビニールをびりびり破り、ぐしゃっと丸めたアルミホイルでごしごしやって皮を剥く。そのまま流しに小さい方のボウルを敷いてささがきに。ずいぶんぶっといのができた。そのまま水につけておく。
まな板を洗う。雪平鍋にお湯を沸かして小松菜を茹でる。茹で上がったら洗ったまな板の上でざくざく切って、水を絞りお浸しにする。
ごぼうをざるに取り水気を切ると、ごま油をフライパンに注ぎ、火を点けた。油が熱くなったらごぼうを入れてサッと炒める。透明感が出てきたらめんつゆと砂糖。最初から小皿に三等分して入れ、指で軽く潰しながらごまを振りかける。
「いい香り。ごま油の仕事だよね、香りはねー」
漂うごま油の香りにうっとりしながら一品上がり。
大きい方のボウルから、続けてフライパンに鶏ささみを移す。弱火でチリチリ焼いていくと、たんぱく質が焼ける香ばしい匂いがキッチンを満たしていく。こんがり焼き目がつくまでフライパンを見守った。
壁掛け時計を見ると、七時半。桃子は腕組みした。
再びお湯を沸かして豆腐とわかめの味噌汁を作る。炊飯器がピーと鳴いてご飯が炊ける。
とりあえず桃子は自分一人用の食事を用意して、一人だけの晩ご飯を終えた。
待っていようかとも思ったが――陰陽師というのは危険なこともある。桃子が中学に上がってからは両親と桜子が急に出て行って、怪我をして帰ってくることも稀にだがあった。そんなときに桃子ができることと言えば、救急箱の中から呪文が書かれたお札を取り出して、手当を手伝うことだけだったのだ。
桃子はちらりとテレビ台の引き出しを見た。その中には救急箱がある。桃子用の胃薬や鎮痛剤の下に、お札が五枚、入りっぱなしになっていた。妖怪とか幽霊にやられた傷は、あれがないと異常に治りが遅くなる。理屈はわからないがどうやらそういう法則があるらしい。
「もし怪我してたら――とっちめてやる」
桃子は小松菜をシャクシャクと噛み、柔らかく焼き上がった鶏肉を箸でちぎり、味噌汁を飲んでご飯をかき込む。
「覚えてなさいよ。私の家に住んで私を後見人にして、未成年と子供が、許さないわよ……っ」
この家は元々、母のものだった。そもそもは祖父の建てたものだという。その祖父に会ったことはない。桃子が生まれる前に死んでしまったらしい。交通事故と聞いたけれど、あれはもしかして陰陽師の何かが死因だったのだろうか。
いつもそうだ。一族の誰かが桃子の知らないところで力尽きて、視界から消えていく。へたをすると葬式にも呼んでもらえない。力がないと、一人前に数えてもらえない……。
桃子は恥ずかしいことに、霊力がないからもっと努力して認めてもらおうだなんて、ちっとも考えたことがない。霊力というのは、身体の中にある目に見えない器官から発生するらしい。だからどうしようもないね、桃子は……努力したって私たちのようにはなれないからね。諦めなさい。そう言われた、気がした。誰が言ったわけではなく、それにすごいショックを受けたわけでもない。ただ、そういうものだよ、と言外に言われて育ったから。そういうものなのか、と納得した。
桃子は元々大人しい性質で、本を読むのと絵を描くのが好きだった。幼い頃、一人で留守番するときも画用紙とクレヨンがあれば平気だった。どれだけ放っておかれても大丈夫だった。もし家族が帰ってこなかったら泣いただろうし、あまりに帰りが遅くなったら心配になっただろうけど、そうなったことはなかったから。……ほかの家族の輪の中に入れない場合もある、ということも、同じような理屈で受け入れた。
力不足が悔しいのはこんなときだった。桃子では桜史郎を探しに行けない。彼らは彼らだけが入れる場所で戦いなり諍いなりをしているだろうから。仮に夜の国道に車を出したところで、たぶん見落としてしまうだろう。
後片付けを終えた桃子はテレビをつけ、見るともなしに眺めながら静かに待った。座椅子は妙に固くて、きちんと拭いたはずなのにこの前こぼしたコーヒーの匂いがした。
――チャリ、と玄関で音がしたのは夜の九時を回ったところだった。鍵とストラップがこすれる音。
桃子はどたどたと玄関へ駆けつけた。
「ただい――」
「遅い!! 何時だと思ってるの!」
「ご、ごめん……なさい」
「おまけにどうしたの、その顔!」
桜史郎の左頬がぷっくり晴れ上がり、反対の瞼は切れている。
彼の足元にまとわりついた狐の姿のたまが、くるんと宙返りして少女の姿に変わった。呆れたように両手を広げ、
「ケンカしたんじゃよ。この阿呆」
桃子はすうう、と深呼吸した。桜史郎は反省しているというよりも、ひたすら驚いた様子である。まるでこんなに叱られるとは思わなかったとでも言いたげだ。
「ケンカって?」
腹に力を込めて、なんとか冷静な声を出した。
「なんと同じクラスにのう……」
「たまちゃん、甘やかさなくていいから。桜史郎が答えなさい」
「う、うん」
たまはみょっと耳を立てる。しっぽが膨らむ。それから面白そうに、面映ゆそうに袖で口を隠してくすくす笑い出した。
「その……同じクラスに波ノ宮の紋章を持った奴がいて……」
「おばちゃんそのおうちのこと知らないけど、それで?」
「行方不明になってたすごい強い陰陽師の子供だっていうんだ。式神も連れてた。そんでモメて、放課後に一対一で決着つけようってことになって。河川敷に行ったんだ。そしたら時間忘れちまって」
「人様にご迷惑はかけなかったでしょうね?」
「結界を張ったよ! だから大丈夫、ホームレスのおっちゃんも気づいてなかったみたいだった」
「ならそれはよし。――話を聞いている限り、スマホで連絡はできたように思うけど?」
桜史郎はうっと言葉に詰まったが、やがてぺこりと頭を下げる。誤魔化しきれないなら誤ってしまった方がまし、という内心が透けた仕草だった。
「ごめんなさい。心配かけました」
「わかってるならいい……よくはないけど、一回目だし大目に見るわ。言っとくけど次があったら同じように叱るし、その次もそうよ。私は親じゃないけどあんたの後見人だから、これからもこうやって口を出すからね」
顔を上げた桜史郎はどもりながら足踏みした。
「わ、わか……ったよ」
「自分をしっかり持って、自分で考えて行動できるようになってほしい。あんたが才能ある子なのは知ってる。私ができること以上のことができるのも。でもまだ子供よ。子供が夜に出歩いていたら心配する。それはあんたの才能とか霊力とか、私にそれがないとかの話とは関係ないの。わかった? オッケー?」
「わ、わかりました」
「んじゃ、上がってご飯食べなさい」
桜史郎とたまが斜めの席で食事をすませる間、桃子は少しでもおかずを温めてやり、お茶を沸かしてやり、根掘り葉掘り聞くのはやめた。話せないルールや、彼らなりの気遣いがあるらしいということを知っていた。
それにしても……転校初日にクラスメイトと取っ組み合いするだなんて、これからこの子はやっていけるのかしら? 桃子としては、ナントカ宮が結界を張ってうんぬんより、そっちの方が気になるところである。
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