第3話


二階には三つ部屋がある。一番南の一つは桃子の寝室で、真ん中は洗濯物を部屋干しするための部屋、残りの北側の一つがほとんど使っていなかった。


桜史郎はそこで寝ると言った。

「他の二つより狭いよ?」

「いいんだ。こっちは鬼門の方角で……あーと」

「なんか理由があって、遠慮してるんじゃないんならいいや」

それでそういうことになった。


女一人暮らしでも、客用布団はある。たまに友達が泊まりに来たりするからだ。とはいっても一組みしかないので、


「たまちゃんはおばちゃんと寝る? 桜史郎と?」

「おばちゃんとこ行くのじゃ!」

「バカ。お前は俺とだよ!」

というやり取りがあり、桃子は自室でしばらくネットを見たり家計簿を付けたりした。北側の部屋からはいつまでも何やらごそごそ動く音が聞こえた。まったくもう。


翌日は二人とも昼まで寝かせてやり、足りないものを買いにちょっと遠くの大型複合施設まで車を出した。たまは犬みたいな姿にさせて、カートに乗っけて、犬が入っていいところまでしか連れなかった。


「むぐううぅ、呉服屋が気になったのじゃ。見てみたかったのじゃあー」

と、帰り道のたまはご立腹だった。


「耳もしっぽも出ないで化けられたら連れていけるんだけどねえ」

「きいー、それはできるのじゃ、お茶の子さいさいなのじゃ。こいつから供給される霊力が少なすぎてできないのじゃー」

「悪かったなあ!」


後部座席でわちゃわちゃしているのをバックミラーごしに眺める。ほんとうにただのコドモたちだ。桃子は脳内で突然の有給所得の言い訳と残り有給を考えた。


数日経って、近所の公立高校への転入書類と、桃子を桜史郎の後見人にする書類一式が届いた。押した覚えのない自分の押印があり、書いた覚えのないサインがあった。ここに来てようやく、桃子は腹を括ることができた。


「不思議なんかに負けるもんか。私は血のつながった家族と諍いなんか起こしたりしないんだから」

と呟いて、ぱしんと頬を叩く。


桃子がごく普通の少女時代を過ごせたのは、生まれた時代がよかったのだろう。これからどんどんよくなっていくという予感があらゆる人にあった時代だった。遊園地にも水族館にも動物園にも連れていってもらえたし、母は授業参観に来てくれた。父はどこかの会社で勤めていると聞かされていた。


実際は裏稼業で稼ぐ陰陽師で、夜な夜な妖怪と戦ってお金をもらっていたわけだが。出張や夜勤が多かったのはそのためだった。なんなら母も陰陽師で、妹の桜子もその才能があるという。


幼い頃、夜中にふと目を覚ましてしまったら家の中に誰もいなかったときがあった。桃子は家じゅうを探し回り、廊下で丸くなって眠ってしまった。朝、起きると布団の中にいて、怖い夢を見たのだろうと諭された。


あれは両親が桜子に稽古をつけていたのだった。霊力がどうこうで、呪文とか祝詞とか、そういうことを伝えていたのだ。

両親がいくら隠していても、なんとなくうちが普通の家じゃないことはわかっていた。


一緒の子供部屋の並んだ布団の中、桜子は昨日の修行の内容をひそひそ声で語った。子供らしい万能感で自分の知ったことを一から十まで姉に伝えた。といっても、聞いたところで理屈も何もちんぷんかんぷんだったけれど。


家族のみんなが知っていることのうち、自分だけが入っていけない領域があるというのは寂しかった。捻くれずに育てたのはやっぱり両親がきちんと愛してくれたこと、それから桜子の方に自分の能力を見せびらかすような気持ちがなかったことが原因だろう。むしろ夜に眠い目をこすって修行しなくていい姉を羨んでいる気配もあった。


めちゃくちゃな愛情も、憎悪も感じることなく十八歳になった。大学に進学するのを機に一人暮らしをした。両親は支援してくれた。就職して、転職して、東京でやっていけなくなって、でも地元に戻るのもなあ、婚活でもしようかなあと思っていたとき母から見計らったように連絡があり、それでこの家をもらって引っ越してきた。一昨年のことだ。


「家の管理も兼ねてくれたら助かるわよ」

と電話口で笑う母に、感謝しきりやら申し訳ないやら。家を出てから一度も帰省していない不義理を詫びるやら。


別に不仲じゃないけど家族と縁遠くなってしまったただの人。現代にはよくいる、たくさんのうちの一人。それが桃子だった。


桃子は桜史郎たちの部屋を覗きに行った。


「部屋、片付いた?」

「なんで急に開けるんだよ! 俺が着替えてたらどうするつもりなの!」

「なんですかこの子は。はいはいすみませんでしたわねー」

「そうじゃぞう。おなごみたいに」


さっそくわあわあに巻き込まれかけて呆れ果てた。

桜史郎、十年ぶりに会ってまだ一日なのに、急に遠慮がなくなったものである。とはいえ桃子の顔は桜子そっくり、双子のように似た姉妹なので警戒心を持てというのも難しいのかもしれない。


部屋には新品のプラスチック箪笥が置かれ、衣服や文房具が散らばっている。お昼ご飯はフードコートですませ、ついでに夕飯の買い出しをしてからの帰宅だった。


「晩ご飯作るけど何がいい?」

「えっ。……春巻き」

「何じゃ、それ?」

「揚げ物好きだろお前。多分好きだよ」

「じゃ、たまも手伝うのじゃー」


と寄ってくるのを桃子は迎え入れ、

「あんたは片付け続行して、寝られるようにしておきなさい」

と、包装紙やら紙箱やらを指さす。桜史郎は頷いた。


階下に向かいがてら、

「あいつどうせ先にいらんことやってるわね……」

「鋭いの。その通りじゃぞ」

と女二人でひそひそ囁きあった。


たまの髪の毛は白っぽい亜麻色で、耳としっぽも同じ。目はきらきらと澄み切った赤い色。ありえない色をしているのにしっくりくる、ぴかぴかの美少女である。

実家にも時折こういう非日常から抜け出してきたような人――人じゃなかったかも?がいた。ちなみに実家はちょっと大きいけれども普通の日本家屋だった。リフォーム済み。見かけるたびにおお、と感嘆していたのだった。桃子はせいぜい挨拶程度しかしなかったけど、彼らも話せば話せる存在だったのかもしれない。


さてさて。時刻は午後五時。三人前にはお米が三合でちょっと余ることを桃子は学習した。まだ二度目なのに、人数がいる食事の支度はたいへんだとじわじわ悟りつつある。


思えば実家ではご飯の支度は母に任せっきりで、まともに料理をするようになったのは就職後。だから一人暮らしの分量しか作ったことはない。今更になって母の偉大さがわかった。


「よし。じゃ、作りますか春巻き。皮買ったの見てたなんて鋭いわよねえ」

「はいはい。なんでも手伝うのじゃー。春巻きっていうのを、伯母上殿はいつも作って食べるのじゃ?」


桃子は首を横に振った。

「桃子でいいよ。それと、一人ではあんまり春巻きそのものは作らないかな。私がよくやるのはねえ、ハムとチーズを皮でくるっと巻いて揚げ焼きにしたやつ。うふふ。塩コショウすると酒のアテにいいのよね」

「ほほう。酒とな」


たまの赤い目がきらんと光った。

「イケるクチですか、お姉さん」

「ふふん。供え物でよう貰っておったのじゃ。好きじゃぞ、酒。わらわたちのような存在は、誰しも酒好きじゃ」

「ほうほう」


二人はキッチンでにやっと笑い合う。たまの身長はやっとシンクに届いた程度だから、けっこうナナメの視線の糸が結ばれる。


「ちなみに春巻きも残ればおつまみになるわよ。桜史郎がどれだけ食べるかによるけど」

「ふむう。……メシをいっぱい食わせればいいのじゃないか」

「そうしてみようか」


桃子は笑いながら耐熱ボウルを取り出した。雪平鍋に水を入れて火にかけた。


昨日の残りのキャベツを取り出し、ざくざくと五ミリ幅に切り分ける。キャベツの山ができあがると全部ボウルにうつし、

「たまちゃん。これ五分チンね」

「よかろう」

昨日今日でもうレンジの使い方を覚えたらしいたまは、器用にそれを使いこなした。内皿がくるくる回るのが楽しいらしい。じいっと覗き込んでいる。古いレンジは轟音と熱気を出すのに平気らしかった。


フライパンに豚ひき肉三百グラム。塩と醤油で味をつけて、パチパチと音をたてて炒めていく。あらかた炒まったときにお湯が沸いた。春雨を投入して柔らかくなったら引き上げ、熱いうちにまな板の上で井の字に刻む。


レンジがピーと鳴った。


「持ってこられる? 熱いからそこのミトン――手袋して」

「これじゃな? うむうむ、わかるぞよ。しばし待て」


たまは危なげなくほこほこ湯気を立てる耐熱ボウルを抱いてきた。当たり前のことだが、これが本当の人間の子供だったら桃子は気が気でなかっただろう。


「うまいうまい。ありがとう」

「しばらく桜史郎の家で暮らしておったからのう。現代の暮らしはわりとわかるのじゃ」

「あ、だからシャワーも物怖じせずに使えたのね」

「実際に浴びるのも、料理の手伝いも初めてじゃがの。桜子は料理せぬ女じゃったから」


ラップをひっぺ剥がし、耐熱ボウルの中に炒めたひき肉、刻んだ春雨。キッチンには熱を通された食材の良い香りが広がり、お腹がきゅうと鳴った。


桃子は冷蔵庫を開き、味噌とオイスターソース、鶏がらスープの素を取り出す。適当にボウルに入れて、またまた適当に菜箸で混ぜる。味見をして、まあまあイケると判断。

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