第2話
食事が終わると後片付けである。残ったご飯をラップでくるんで冷凍。残りものの始末。皿洗い。
「コラッ、自分だけテレビの前に戻らないの。洗ったの渡してくから拭きなさい」
と怒ると、桜史郎は人生で初めて言われたそんなこと、の顔をした。そりゃあまあ、あの家で育ってりゃねえ、と桃子は思った。
並んで手を動かす二人の後ろ、たまがテレビをつけては消し、つけては消し、チャンネルをあれこれ回して遊んでいる音が聞こえる。桜史郎はずいぶん背が高いので、隣に並ぶと圧迫感があった。
「あなた今何センチなのー?」
「ひゃく……ななじゅう、はち?」
「そりゃすごい。高一なのに。背の順で一番後ろでしょう」
「もう背の順なんかで並ばねえよ……」
「高校ってそうだっけ? 全部忘れた」
「まあ百年前のことだもんな、おばちゃん」
桃子は桜史郎のふくらはぎを蹴って後ろに声をかける。
「たまちゃーん、お風呂の入り方わかるー?」
狐の耳としっぽの生えた少女がきょとんとするので、桃子は彼女を風呂場に連れて行き、使い方を教えてやった。
「あなたくらいの大きさの子供は溺れる心配があるからさ、おばちゃんと一緒に入ろうか?」
「見くびるでない。今ので大体使い方はわかったし、わらわは水に浮ける。なんなら元の姿に戻れば――おっと」
桃子は口の前に人差し指を立てた。
「ナイショ、ね」
「おう。うふふふ」
と笑い合い、桃子はリビングへ向かう。廊下はひんやりしていた。十月半ばである。まだ暑い日も多いが秋に向かう時期で、夏休みもとうに終わり二学期がはじまった頃。こんな時期に一人で伯母のところにやってくるだなんて、甥っ子も大変な人生を送るはめになったものだ。
まあでも、仕方ないのかもしれない。『向こうの世界』の人なのだ。能力を持った子なのだもの。
「私とはデキが違うのよねー、っと。さて」
テレビの前、ちゃちなちゃぶ台と座椅子の横に桜史郎は正座していた。心理的なものだろうが、そうするととても小さく見えた。
「前に会ったのって五歳だっけ、小学校の入学祝いを渡したときだったよね」
「あ、うん。文房具セット――中学入るまで使ったよ、ありがとう」
「あらヤダ。嬉しいこと言ってくれるわね、オホホ」
日が暮れるとすぐに肌寒くなるので桃子はジャージの上に上着を羽織っていた。
「寒くない?」
「大丈夫」
「じゃ、話しましょうか」
風呂場からは水音と、たまの鼻歌が聞こえてくる。お湯、帰ってすぐ溜めておいてよかった。
それで桜史郎は話し出した。ただ残念ながらながら桃子には、
「穂宮の本家が襲撃されたのは、一昨日の夜半だった。敵はおそらく渦宮だ。呪符に見覚えがあった」
とか、
「やつら獣を調伏して尖兵に使ってきやがって……! 倫理呪言委員会に真っ向から歯向かう腹積もりだったんだ」
などの、桜史郎にとってはとんでもなく重要であろうことも、桃子にはいまいち、響かない。なぜなら桃子はなんにも知らないからだ。実家が『あの世界』でどういう立ち位置で、どこと仲が良くて、悪くて、などもそうだし。そもそも家業のことだって。桜史郎をはじめみんなが知っていることを何も知らない。その代わり、家を出ることができた。
それが桃子の立場だった。
興奮して喋り続ける桜史郎は、徐々に沈静化して声が小さくなった。
「うん。そうなのよ。聞いてもわかんないの、私」
「そ……っかあ」
「私のところに行きなさいと言ったのは、誰? お父さんか、お母さんか」
桜史郎は目を泳がせる。それにしても目元と口元が妹に、桜子によく似ている子だ。
「おばあちゃんだよ。ここなら安全だから、って」
「オッケー。そっか。それじゃあまずは、私のことも話そうかな。認識のすり合わせしなきゃね。桜子から私のこと、何て聞いてた?」
「一族生まれだけど、力がなかった、って……」
「そうよ。そうなの」
桃子はけらけら笑った。本当に、心から、なんにも気にしてないのをわかってくれたらいいと思いながら。
「私は陰陽師一族に生まれた普通の人で、一人だけ幽霊も妖怪も見る目すら持ってない。爪弾きっ子だったのよ。だからここで一人暮らしなの」
風呂場からシャワーの音が聞こえ、たまの小さな悲鳴も聞こえた。
デジタル時計が夜の九時を指し、桜史郎はきゅっとちゃぶ台の上の右手を握る。
「誤解しないでほしいの。私は別に穂宮のおうちにも、あそこの人たちにも恨みつらみは持ってない」
――逆に、じゃあ愛してるのかって聞かれたら困っちゃうんだけどね。というのは言わないで、桃子はスマホカバーの模様をなぞった。そういえばここに放置しといて、たまちゃんにいじられなかったかな。見られて困るデータもないけど。
「無能っ子ってさ、よそのおうちだとひどい、それこそ虐待みたいな扱いされることもあるらしいじゃない? でもうちのお父さんお母さんは、あんたのおじいちゃんおばあちゃんはね、私のこと普通に育ててくれたのよね。恨みが生まれる理由もなかったの」
「うん……」
桜史郎は冴えない顔である。頭を撫でてやりたいなあ、と桃子は思った。
「土崎さんとこは違うんだよね? 無能で生まれると大変だって、桜子に聞いたことあるよ」
「え? なんで知ってんの」
切れ長の目が丸くなった。本当に驚いたようで、桜史郎は身を乗り出す。
「よく電話してたもん。深夜とかに」
「え? 母さんと? おばちゃんが?」
「ウン」
「……ひょっとして母さんとおばちゃんって、意外と仲良かったりした?」
「ひょっとしてじゃなくて、わりと。普通に育てられたって言ったでしょ。普通の姉妹くらいには仲よかったと思うよ」
桜史郎は黙り込んでしまった。桃子は彼の父親を、妹の夫を思い出した。
土崎慎司という人だ。背が高くて顔がよくて、人から優しくしてもらうことを当然だと思う人だった。あと、自分のことが大好きで、そうなるだけの実力がある人だったということだ。実際に霊力とかいうのも強かった、らしい。桃子にはわからない判定基準だけど。
もし桃子が土崎さんのおうちに生まれていたら、大人になるまで生きられなかっただろうと教えてくれたのは誰だっけ。親戚のおばちゃんで、遠くを見ながら唇を動かさないようにして教えてくれたのだった。
だから桃子はなるべく妹に電話をかけないようにしたし、妹から電話が来たらすぐに取った。履歴があってもかけ直さなかった。嫁ぎ先で迷惑になったらいけないと思って。
「そんなびっくりすること?」
「父さんが……あのおばちゃんが家に来ても話しちゃだめって言ったから」
「嫌われたもんだねー」
桃子は苦笑いだ。桜史郎といえば、その程度で流せるんだと言わんばかりに目を丸くしている。
桜子に似たきょとん顔だった。あの子は陰陽道の才能は抜群だったけどどこか抜けてるところがあって、桃子が忘れ物を指摘したりするとそういう顔をした。
「あんたが小三のお正月にお父さんのお屠蘇で酔っぱらって階段から滑って落ちたことも知ってるよ」
「ウソだろ母さん。そんなことまで話すなよなぁ!」
桜史郎は頭を抱えて上を向く。すっかり正座は崩れている。聞いてた通りだ。学校ではクールキャラで押し通してて、修行でも優等生中の優等生だけど……実はちょっぴり抜けてるただの男の子。桜子っぽい。そっくりだ。
――いっぺん、小声で聞いたことがある。ねえ桜子、慎司さんとはさ、普通に思いあって結婚したんだよね? 家の都合とか、そんな、昭和みたいな理由じゃないよね?
そのとき妹はかなり怒ってすぐに電話を切ってしまった。後悔したが、一か月後にはいつも通りの声で電話がきたから安心した。
桜史郎を見るに、やっぱりあれは杞憂だったのだと思う。この子はちゃんと両親に愛されて育った子だ。
風呂場の水音が大きくなったので、桃子は腰を上げた。
「聞きたいことはいっぱいあるけど、聞かないでおくわ。あなたまだ話せる状態じゃなさそうだし」
「な、何言ってるんだよ。ちゃんと説明するよ」
桜史郎はちゃぶ台に両手をつき、そのままガクンと肘が折れてつんのめる。桃子が支えるまでもなく自力で踏みとどまったけれど、あと少しで鼻を打つところだった。
「……ホラね、マトモな状態じゃないでしょ。そんな甥っ子を問い詰めるほどじゃないの、私」
桃子は胸を張った。
「この家をもらったときに決めたの。一族の人が私を、というかここの土地とおうちを頼ってきたら、力になろうって。お母さんがわざわざ私にくれたってことは、なんかあるってことだもん」
桜史郎は眩しそうに桃子を見つめて瞬きする。
「そっか。うん……わかった」
と頷く。みるみるうちに目の下に隈が溜まって、真一文字に結ばれていた唇がゆるゆる開いた。右手の拳が解かれ、肩の力が抜ける。
疲れていたのだ。もう限界だったのだ。本当はご飯を食べさせて、寝かせるべきだったのだろう。
たまがタオルを探し、着替えにと貸したシャツに四苦八苦する声が聞こえた。桃子は風呂場に向かう。
「ありがと、おばちゃん」
どこか照れ臭そうな、ホッとした様子の桜史郎に親指立ててみせる。
「いいってことよ」
彼は十五歳の顔で笑った。
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