選ばれた少年と暮らした五か月についての記録~あるいは作ったごはんの記憶~

重田いの

第1話


ピンポーン。チャイムが鳴った。びくっとしてキャベツを取り落とした。

「え? 何?」


一人暮らしは一人ごとが多くなっていけない。でも、東京の小さい部屋で暮らしていたときならまだしも、ここに引っ越してきてからチャイムなんて鳴らされたことはない。


何も言うべきところがない、戦後に建てられた小さな一軒家である。洗濯物を干すのくらいしか使ってない小さい庭があって、古い自転車と水道がある。フローリングの廊下を通って玄関に向かう。二階に続く階段を通り過ぎ、


「はいはーい」

桃子は扉を開けた。せめてスコープで確認すべきだったかもしれない。でも、夜の七時過ぎだ。何か急用なのかと思ったし……。


それに実際、急用は急用だった。


高校生くらいの子供がそこにいた。男の子で、でかいスポーツバッグを肩にかけ、足元には犬がいる。


「どなたでしたっけ?」

「……お、僕です、桜史郎です。桃子おばさん」

「あー、桜ちゃん?」


と言われて思い当たった。妹の子供である。

「よく来たねえ。……え、どうしたの。何かあったの? 桜子は?」

と背後を探しても、誰もいない。


家の前は田んぼが広がる。電柱と電線が空を区切り、月は曇り空の向こうで電灯の灯りだけが明るい。田舎に特有の湿ったような匂いが、びょうっと吹いた風に乗って鼻に届いた。


「一族が壊滅しました。逃げてきたんだ。匿ってほしい」


なんてことを甥っ子が言うものだから、桃子は黙って上を向いた。脳裏によぎる、家族のあれやこれや、それに入れない自分のあれこれ。足元で犬がクゥンと鳴く。チワワくらいの真っ白な犬だ。


「とりあえず、お上がんなさい」

「すみません。お邪魔します」

「ごはん食べた?」

「え?」


桜史郎は目を見開いた。見れば見るほど綺麗な子である。さらさらの黒髪、切れ長の黒い目、白い肌。見れば見るほど妹の桜子にそっくりで、でも慎司さんの面影もある。


「まだならおばちゃんと一緒にごはん食べよう。ね? その犬は? 普通の犬なの?」

「あ、これ狐……。俺の式神」

「ふうん。普通のご飯は大丈夫な狐なの?」

「え、うん」


よし、と桃子はにっこりした。

「じゃあとりあえず一緒にご飯食べよっか。話はそれからね」


桜史郎とチワワみたいな犬――狐は顔を見合わせ、う、うん。と頷いたのだった。




古い家だ。玄関から入ってすぐに二階への階段、その脇に小さい物置部屋、リビングはダイニングキッチンで、台所とリビングの仕切りはない。コンロから振り返ればすぐにダイニングテーブルである。といっても一人、二人用の小さいテーブルだ。ぎょうざをいっぱい包むときなんかは全面にラップを敷いて作業台にする。


「おし。じゃあ作っちゃうから待ってなさい。あ、テレビでも見てて」

「う、うん」


桜史郎はぎこちなく、犬はキュウンと返事する。どうにも話が早すぎないか、と訝しむような空気だった。


さあて、桃子はキッチンの作業スペースに向き合った。何日かにわけて食べようと思って材料を買った。たぶん量は足りるだろう。


今日は生姜焼きだ。すでに炊飯器はセット済みで、三合ぶんのお米の湯気が出ている。豚肉は市販の生姜焼きたれに漬けてある。桃子はもう一度手を洗って、腕まくりした。


さっき流しに落としたキャベツを拾って洗ってざく切り。お湯は沸いているから放り込む。顆粒出汁、豆腐を切って入れる。味噌。これでしばらく煮込めば味噌汁の歓声。


「沸騰したら香りが飛ぶとか気にしませーん。安い味噌だし」

「え? 何? 呼んだ?」

「一人ごとよー」

「あ、うん」


また一人と一匹で顔を見合せて、ごそごそやってる気配。はてさて、あの大きなバッグに甥っ子は何を詰めてきたのやら。勉強道具ではなさそうだ。


玉ねぎ一個をざくざく切る。フライパンに油を熱して炒める。

ポリ袋に入れた豚ロース肉を冷蔵庫から取り出す。たれはよく馴染んでいる。

そのまんまフライパンにどばーっと豚肉を入れて、たれが跳ねないように弱火にする。玉ねぎの上で肉を蒸すような感じに並べ、蓋。


キャワワン、と感嘆の声が聞こえた。小さな家にはソファなんてものはなく、背の低いテレビ台を見るのは座椅子に座ってだ。学生の時に買った安いちゃぶ台は、なんとなく捨てられないままここまできてしまったもの。


ピーッと炊飯器が鳴いた。ちょうどキャベツの千切りが終わったところだった。


平たい大皿を三枚出して、キャベツを上半分に盛り付け、生姜焼きの肉と玉ねぎを並べる。こっくりしたたれがとろんと広がって、キャベツに染みる。お茶碗は二つしかないので、ピンクのと黄色のにご飯をつぎ、自分用はカップスープとココアを飲むときのカップにつぐ。味噌汁椀も三つもない。お椀にひとつ、コーヒーチェーンのカップにひとつ、深さのある中くらいの取り皿にひとつ、用意する。


「ホラ、できましたよ。席に着きなさい」


といっても椅子も二つしかないのだった。なんなら使わない方の椅子は書類置き場になっている。一人暮らしなのだ。桃子は何食わぬ顔で住民税のお報せとか市民病院の案内とかを移動させた。


「……ずぼら」

と桜史郎は額に手を当てぼそっと悪口を言う。食べさせてもらう側のくせ、まったくナマイキな小僧である。


「その子はテーブルの上……んーでも、洗ってないと汚いかあ」

「あ、いや。大丈夫。こいつはあとで俺が食わせるからさ」


と、狐だというもふもふを指さしていると、

「なんの! わらわは自分で食べるゆえ案ずるでない!」


ぽんっと音がしてチワワのような生き物は宙返りし、小さな女の子の姿になった。緋袴の巫女服姿で、頭の上に耳、お尻にしっぽがついている。


「わーっかわいい」

と桃子はぱちぱち拍手をした。


「おい! おばさんには見せちゃいけないって言っただろう!」

と桜史郎は慌てた声を出した。うふふん、と女の子は鼻を鳴らす。


「冷めた料理をわらわ一人で食べろとな? 笑止千万。おぬしは正式な主でないのだし、やすやすと従わせられると思うでない。――伯母上殿、素晴らしい膳を用意していただき痛み入る。ありがたく頂戴いたしますぞ」


というなり、ずるずる座椅子を引きずってきて前後逆にテーブルにつけた。ヘッド部分をちょいちょい調整し、その上にぴょいっと乗る。人間にすれば五、六歳くらいだろうか、まだおでこが広いあどけない顔だった。あまりにも危なげなく乗るので、桃子は注意しようと思った気勢を削がれてしまい、


「落ちないでよ。桜史郎、ちゃんと見てるのよ」

「いや、こいつはそんなんじゃ……」

「たまじゃよ。名前はたまじゃ。不本意ながらこいつが名付けたんじゃ」

「そうなの。よろしくねえ、たまちゃん」

「うんうん。さあ食べよう。温かい飯なんぞ久しぶりじゃ。それに白いおまんま! 小石がいっこも見えんぞ。すごいなあ。大ごちそうじゃ!」


ときゃらきゃら笑う。桃子には慣れっこである。不思議な生き物、不思議な人。それに馴染んでいる家族。

「それじゃ、いただきましょうか。手を合わせてくださーい」

というわけで、食事がはじまった。


桜史郎はあんまり感想は言わないが、よく食べた。ご飯三合じゃ足りなかったかしらと桃子が危ぶむほどだった。少なくとも、冷凍分に回す余裕はなさそうだ。


たまの食べっぷりもなかなかいいもので、子供の身体には多いくらいの一人前をぺろりと平らげた。はふはふ言いながら豚肉に齧りついているときの、目がらんらんとして瞳孔が光っていた。


「こりゃうまい。いいもんじゃあ。甘ったるくて、醤油のいい香り」

「スーパーのたれだけどねえ。桜史郎は? お口に合う?」


口をもごもごさせながら甥っ子は何度も頷く。

「うまいですよ、あったかいんで」

「そりゃよかった」


桃子は苦笑した。まだ十五歳の桜史郎の辞書に、歯に衣着せるという文字はたぶんまだ載ってない。

「失礼なやつじゃのう。作ってもらっといて」


とたまがしっぽを膨らませるのに、本気でわからないという顔をする。そのくせ味噌汁を啜る口は止まらない。


桃子はぷくくと吹き出しつつ、助け舟は出さずに様子を伺った。口の中のものを飲み込んだ桜史郎がもごもごと、

「母さんはぜんぜん料理しなかったから、うまい」

「あー、桜子はねえ」


たまはふううと大げさなため息をついた。耳がぴこぴこ揺れる。ご飯茶碗が空になりかけているのを見つけて、桃子は炊飯器を指さした。


「おかわり?」

「いいのかえ? いただきたい」

「――はい、どうぞ」


ともう一杯よそってあげる。そこで桜史郎の茶碗もちょうど空になったので、


「あんたは自分でやりなさい」

「けち」

「身内でしょうが」

「十年くらい会ってなかったのに……」

その代わり、お茶のおかわりは注いでやった。

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