3


 自分たちをガラスドームに軟禁した国がいうには、病が収まるまでこの状態を解くつもりはないと。病なんて収まるはずがない。特効薬を作る財力もウィルスを研究する人手もないのだから。実質、軟禁はとくつもりは無いと、ルレザンは国に言われたのだ。

 彼らに待つ終わりは、病に犯されゾンビとなるか、ゾンビに食われ死ぬか、餓死するかだ。生き残ったって絶望しかまっていない。


「クソッ、クソッ、クソクソクソッ!!」


 ルレザンの私室。彼は床に這いつくばり、何度も床を叩いた。

 この世界は地獄そのものだ。自警団という仕事柄、この切羽詰まった世界で人間の汚い部分を何度も見てきた。こんなこととなるならこの世に産まれてきたくなかった。

 神に何故、我々に命を吹き込んだか問えば、命を宿してみたんだと言うだろう。粗末なものだ。


「あぁああぁ──」


 ルレザンの口から、ボトボトと唾液がたれる。

 しかしこの地獄にも、救いはあった。ストレーリチアである。彼女は昔から、太陽のように笑う。どこまでも純粋で自分を英雄と呼んでくれるストレーリチアを、ルレザンは愛おしく思う。思うからこそ、

(その澄みきった瞳で、僕を見ないでくれ──)

 仕事柄人も、ゾンビも屠ってきたルレザンは苦しむ。

 今のこの感情をなんというのだろう。この痛みはなんと形容するのだろう。ああ、苦しい。胸も、頭も、腹も。肉が引きちぎられるように痛い。ああ、


「お腹が、すいた」


 出しては行けない言葉。そうずっと押さえ込んでいたつもりの欲求が口をついてでた。ルレザンは慌てて自身の口に手をあてる。

 食べたい。食べたい。食べてしまいたい。ストレーリチアのあの白皙の肌と、柔らかい唇を、引きちぎって咀嚼して嚥下して光悦としたい。

(いや、そんなことは許さない! この僕自身が、許さない!)

 緩やかに、彼女を血でどろどろにとかして、それをゴックンと。喉奥に流し込みたい。ルレザンは懇願する。

(お前は誰だ! こんなこと考えるなんて、僕じゃない! ストレーリチアは大切な僕の希望なんだ!)

 生きるためなんだ仕方ないよな。

 ストレーリチアの、味付けはどんな夢がいいかな。


「あああぁぁああぁっー!!!」


 全てをかき消すようにルレザンは叫ぶ。思考も欲も頭の声も、全て聞こえないように耳を塞ぐため。喉が枯れるほどに絶叫する。


「僕は誰だ! お前は誰だ!!」


 化け物がとり憑いた指先でルレザンは髪を掻きむしる。


「ルレザン! どうしましたのっ!」


 小鳥のような鳴き声が外からする。

 ああ、君のか細い声が胃袋を刺激してたまらない。


「来るなっ。ストレーリチア、来ないで、くれ……」


 貴方のその瞳に愚かな自分を映したくない。

 ルレザンは覚めない夢のような感情が泥まみれに落っこちて、感じたこともないこの惨状が現実だと知る。


「ルレザン!」


 ストレーリチアは小走りで自室をでる。そして隣の部屋である、ルレザンの私室を開けた。


「──るれ、ざん?」


 ストレーリチアに一番に飛び込んできたのは這い蹲るルレザン。口から唾液を落とし、カーペットにそれが広がっている。頭を掻きむしるルレザンは、目隠しをしていなかった。


「──ルレザン」


 全てを悟ったように、ため息を吐くようにストレーリチアは呼ぶ。

 ストレーリチアを映すルレザンの瞳は色が抜け、血の色に真っ赤に染まっていた。


「任務で目を切ったというのは、嘘だったのですね。病に犯されたことを、隠すための」


 ストレーリチアは落ち着いて言葉を落とした。鉛のように重いそれはルレザンに激突し、ルレザンはうなだれる。


「ちが、うんだ、チア。僕はチアとの生活を壊し、たくなくて──ごめん」


 ルレザンは声を潰し懺悔する。ボタボタと垂れる透明な粘液は、もはや涙か唾液が判断がつかない。


「私も、謝らなければならないことがありますの」


 ストレーリチアはルレザンの元へ歩む。床に広がった唾液がストレーリチアの靴下にじわりと染みた。


「あなたが食人病にかかっていたことは、知っていましたの。私も食人病にかかっていますから、わかって、しまいましたの──」


 ルレザンの瞳が見開かられる。彼の赤瞳に映るストレーリチアは、口を結んで罰の悪い顔をしていた。


「私も貴方と同じ。この日常を壊したくなくて黙っていましたわ。ごめん、なさい」


「いいんだ。もういいんだチア。ありがとう。お陰で、僕は今日まで君との時間に浸れた。幸せだった。だから、逃げてくれ。もう限界なんだ……」


 ルレザンはやにわにストレーリチアを突き飛ばす。きゃ、と軽い悲鳴がしてルレザンに罪悪感がへばりついた。


「君を食べたくて、仕方がない。逃げて、くれ」


 食べる。それは殺すと同義。殺害予告をされたストレーリチアだったが、彼女の表情はこの部屋に来た時から変わっていなかった。ルレザンという、自身の英雄の弱みを見据える澄ました顔だ。そこに恐怖も緊張も介在しない。ストレーリチアは立ち上がり、軽く寝巻きを払う。


「私が逃げて、その後貴方はどうするのです?」


 ルレザンは何も言わない。ストレーリチアの質問に頭を回すほどの余裕もないのだから。だから、懇願する。切なに声を絞り出す。


「逃げて、くれ──」


 ストレーリチアは滑るように膝をついてルレザンの肩を掴む。怒りが入り込んでいるのだろうか。ストレーリチアの力は強かった。


「私が逃げたその後、貴方はどうするのです! ゾンビとなって人を食べるのですか!」


「あ、ぅ──」


 ルレザンは俯く。図星だったのだ。無性に乾く喉を満たし人の肉を食いちぎりたい、空腹の欲。それは津波のようにルレザンの理性を流してしまう。

 彼にとって今一番重要なのはストレーリチアを食べてしまわないことで、それ以外はどうでもいいのだ。言い換えるなら、二番に重要なのはこの空腹を満たすこと。ルレザンは、それをストレーリチアに見透かされた。


「でもチア、お腹が、すいて。僕は満たされたいんだ。けどチアは食べたくない。殺したくない、失いたくないっ! だからチア、逃げ──」


「──私の英雄様は、間違ったことをしませんの」


 ピシャリと言い放ったストレーリチアにルレザンの言葉はかき消される。この状況で何を言うのだとルレザンは目を見開く。


「私の英雄様は、ヒーローは! 誰彼構わず人を助けてしまうお人好しで、情に弱くて、食人病にかかってしまったこんな私を養ってくれる心優しい人なんですの!」


 ルレザンの赤瞳にうつるストレーリチアは、ぽろぽろと涙を流す。顎を伝って落ちていくそれに、更にルレザンは唾液を落としてしまう。その気持ちのすれ違いを空目するようにストレーリチアは大声を上げた。


「人を食べるなんて私が、私の英雄様が、貴方自身が、許さないでしょう!!」


「はは、チア。なら、僕に死ねというのか? 僕は、嫌だよ」


 実際のところルレザンは、ストレーリチアが思うほど完璧な人間ではない。人相応に汚い欲も考えもあった。英雄などとは程遠い。彼は一般民衆である。死にたくないのは当たり前だ。しかしそれはストレーリチアが認めない。


「私の英雄様はそんな事言わない。真っ先に自分を殺せと、そういうのです」


「英雄様、ね。そうか、君の中で僕は、まだ英雄でいられるのか」


 ルレザンは瞑目し、また開いてストレーリチアを見上げる。

 ストレーリチアが思い描く英雄とルレザンは程遠いものだ。しかし、ルレザンが思い描く“救い”であるストレーリチアは偶像などではない。純粋で、自分をヒーローと慕う愛らしい娘。

(僕は、永遠にチアの英雄でいたい)

 親にも愛されなかったルレザンは、ストレーリチアの愛だけは、失いたくなかった。


「チア、僕を殺せ」


 38口径の拳銃を床にストレーリチアへ向けてスライドさせる。


「あなたなら、そう言う、はずですわ」


 ストレーリチアは拳銃を手に持つ。その腕は震えている。自身の英雄を永遠のものとするために、英雄という偶像を壊さないために、ストレーリチアはルレザンを殺さなければならない。

 自身のエゴのために、大切な人を殺さなければならない。

 しかしそれでいいのだ。ルレザンがストレーリチアのヒーローであり続けるには、彼を殺す他に方法はない。


「さようなら、私の、英雄様」


 パァン。

 月の雫が、落ちる音がした。

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