揺れる

 その頃絢は、河野に誘われて都内の人気バルで食事をしていた。


「この店は、いろいろな国のビールを多く扱っていて、料理にあった物をペアリングしてくれるんだ。そして、このビールに合うものが食べたいとお願いすると、ぴったりの物が出てくる」

「確かに! これ、このビールにすごく合いますね」


 グラスを傾ける絢を、河野は眩しそうに見つめていた。その暖かい瞳が絢をくすぐったい気持ちにさせる。


 店内はカップルが多く、テラス席も満席だ。桜が咲く季節はこのテラス席から美しい景色が見えると、河野が教えてくれた。


「桜里さん、この後もう一件行きたいバーがあるんだけど、どう?」

「私……」


―― ご飯、ちゃんと食べたかな……?


「桜里さん?」

「あ、ごめんなさい。私帰ります。今日はありがとうございました。楽しかったです!」


 河野は何か言いかけて、それをぐっと飲み込んだ。


「そうか、残念。それじゃ、送るよ」



 河野はどこまでいっても紳士的だった。子どもの頃の話や趣味の釣りの話。つった魚を捌けるほどの腕前だと、初めて知った。


 とてもキラキラした瞳が少年っぽくて、河野の意外な一面に、いつの間にか吸い込まれていった。


 絢の家の前にタクシーが止まると「ちょっと待っていてください」と運転手に声をかけ、河野は絢と並んで歩く。


 家までもうちょっとゆっくり歩きたい。絢はそんなことを思っていた。


「河野さん。今日は本当にありがとうございました。また月曜日に」


 絢が玄関を開けようとしたその瞬間、フワッと河野の煙草の香りとアルコールの香りが絢を優しく包み込む。


「俺、本気だから……」


 河野の鼓動が伝わってきて、力が抜けていくようだった。絢はそっと河野の腕をほどき、振り向く。


 その時だった。玄関の鍵が解除される音が聞こえた。


「ごめんなさい。もう少し、もう少しだけ時間をください」


 絢はそう言うと玄関の扉を開け、部屋に駆け込んだ。残された河野のタクシーが去って行くのを、絢は玄関で祈るように待っていた。


 部屋は暗く、都十夢ツトムの姿も確認できない。


 もしあの時、鍵が開かなかったら……。

 縁側のあるダイニングだけが街灯の光を受けて、ユラユラと輝いていた。

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