春が過ぎ、草木には恵みの雨が降り注ぐ季節。


 土と水が混ざり合う瞬間の香りが、都十夢ツトムは気に入っていた。子どもの頃、草に弾ける水滴があまりにも綺麗で飽きずにずっと眺めていたことを思い出した。側にはいつも絢がいて、優しく微笑んでいた。


 都十夢ツトムの実の母親はとても心の弱い人だった。夫の単身赴任中、一人で全てを抱え込みその矛先が全て幼い都十夢ツトムに向かってしまった。都十夢ツトムは自分のせいだと思い込み、誰も彼を攻撃出来ない世界に心を避難させることを覚えた。そこはとても暗く寂しく、それでいてとても安全な場所だった。


 そんな時、手を差し伸べてくれたのが絢だった。優しく都十夢ツトムの心のドアを叩いた。


 一緒にいることが自然で、これから先もずっと隣にいてくれる存在だと思っていたから、都十夢ツトムは昨日偶然にも見てしまった光景を忘れられずにいた。



「よっ! 未来の義弟よ。なんかあったのか? いつも以上に仏頂面してるぞ」


 ぼーっと外を眺めていた都十夢ツトムに声をかけてきたこの男。都十夢ツトムの唯一の友である澤木だ。澤木は都十夢ツトムとは正反対、誰とでもすぐに仲良くなりクラスでも人気者だ。なぜか都十夢ツトムに懐いている。


「……で? お前はなぜここにいる?」

「なぜって? もちろん絢さんに会いにきたからに決まってるだろ?」

「……」


 都十夢ツトムは重い腰をあげ、定位置に座り直した。もちろん澤木のためにコーヒーを入れるなんて芸当はこれっぽっちもない。


「絢さん、お出かけか?」

「あぁ」

「何時ごろ戻ってくるかな〜? 絢さんの手料理食いたい」


 澤木は勝手知ったるなんとかで、冷蔵庫から麦茶を取り出す。


「残念だったな。姉ちゃんは、デートだ」

「えっ?」

「もういいから、帰れよ」

「えっ、えっ? 絢さん……。どこのどいつと? 俺じゃ物足りないってことなのかぁぁぁぁ!?」


 都十夢ツトムは澤木がこぼした麦茶を「早く拭け」と言わんばかりにティッシュを渡しながら、さも何も無かったかのように雑誌を広げる。


「絢さん、気合入れてたか?」

「別に」

「ワンピースとかだったか?」

「あぁ」

「足の先まで綺麗にしてたか? 下着とか」

「知らない」


 澤木の妄想が爆発する。それを制するかのように都十夢ツトムは読んでいた雑誌をパタンと閉じた。その音は予想外に部屋に響き渡り、澤木を黙らせるには十分だった。


「もう帰れよ。俺は寝る」


 そう言うと、リビングにあるソファーに身を沈め目を閉じる。澤木が何やら抗議しているが、もうその声は聞こえない。


 昨日から、心の中に何かがつっかえているようで、妙に気持ちが悪い。知らず知らずの内に都十夢ツトムは口元に指を運んでいた。

 こんな時いつも絢は、都十夢ツトムの手をギュッと握りしめ『こうしていれば、爪を噛まなくてすむでしょ?』と微笑んでくれた。

 そんなことを思い出し、都十夢ツトムはやり場のないモヤモヤを押し殺すように腕を組み、ギュッと瞼を閉じた。


※ ※ ※


 パチパチパチパチ。

 盛大な拍手の中、絢が純白のドレスを身にまといバージンロードを歩いてくる。会場は光に包まれ、全ての人が二人のことを祝福している。


―― そうか、今日だった……。


 絢は目を潤ませながら、都十夢ツトムとは違う男の隣で神に誓う。


 都十夢ツトムは少し離れた場所から絢を見つめていた。一番近くにいるのに、手を伸ばせば届くはずなのに、絢の幸せそうな笑顔がそうさせてはくれなかった。


―― どうして、俺は……。


「誓いのキスを」


 神父が誓いのキスを促す。

 ベールが上がり、絢の顔がはっきりと見えた。


―― 姉ちゃん……。


 二人が過ごしてきた時間が終わりを告げ、絢は新しい道へ進む。それが都十夢ツトムにとってどんなに苦しくても、弟としてこの先も絢の幸せを祈ることしか許されない。


―― どうして……。

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