第22話 菊と誠
「俺が入院した次の日、キクは病室に現れた。ありえないだろう? 俺は今度こそ死んだと思ったよ。……実際、本当に死んでいたはずだったんだ」
誠は自分の足元を見ていた。今落とした菊の枯れ葉を地面に探すように、もう取り戻せないとわかっているのに探し続けるように、ぼんやりと虚ろに記憶をたどっていた。
僕に話しかけているのか、独り言なのか。誠の心はここになかった。
あの日、俺が寝かされているベッドの横にいつからかキクが立っていた。俺を呼ぶこともなく、ただ静かに俺を見下ろしていた。
キクに気づいた俺は、キクに話しかけた。まともに息もできない状態で、本当に話せたのかはわからない。意識もぼんやりしていて、曖昧な状態だった。
それでも、夢ではないとなぜだか確信していた。
『キク、お前は咲き続けろよ』
これでキクとお別れだ。俺はもうそれで良かった。だが、目を閉じた俺にキクは話しかけてきた。
『それはマコトさんの望みです。私はそれに従います。でも、私にも望みを叶えさせて下さい』
俺はもう一度目を開けることになってしまった。
『キクの望み? お前は俺の心の暗い一部分みたいなものじゃないのか?』
『私はマコトさんではありません。私はキクです。マコトさんが私をキクと呼びました』
『お前は菊の花だから、キクと呼んだだけだ』
『私は菊として存在しました。私はマコトさんの深い望みとして存在しました。ですが、私は菊そのものでもマコトさんでもありません。実体のない私をマコトさんはキクと呼びました。だから私は、キクとして存在します』
お前は俺のための花だ。俺の死後もずっと咲け。
俺は菊の花に念じ続けた。キクが現れてからは、キクにそれだけを言い続けてきた。
キクは俺の望みを叶えるだけの存在ではなかったのか?
キクは、俺の頬とこめかみにそっと触れてきた。俺は一郎と違ってキクに接触できないから、実際はキクが触れるしぐさをしただけだろう。
なんだろう。キクは少し笑っていた気がする。髪を引っ張ろうとして、引っ張れなかったのがおかしかったのか。体を動かせない状態だった俺は、ただキクのすることを見ているしかなかった。
俺は、この時初めてキクを怖いと思った。
キクが現れたのは俺の願いが形になったのだと勝手に理解して、俺にしか見えない存在を不思議にも思わず接して話して、俺の言うことを聞くのが当たり前だと信じて疑わなかった。
今、自分の目の前に人ではないものがいる。何を考えているのかもわからない。そう意識したら、死神よりもよほど怖いと思った。
それからキクは俺の胸に顔を寄せると、生きているのを確認するかのようにじっとしていた。
キクの顔を間近で見たのは初めてだったが、普通に人間だった。これが実体のない花だというなら、死にかけの俺は何だろう。
そんなことを考えていると、キクが俺を見て言った。
『私は、マコトさんが存在し続けることを望みます』
キクは何を言っているのか。俺は望まれても生き続けられるわけではないのに。
キクは俺の胸に片手を乗せた。そして、そのまま俺の体に沈んでいった。
いつもならすり抜けていくだけだ。だが、キクの手は、まるで氷が水の中で溶けるように俺の中に混ざっていった。その感触がはっきりとわかった。
キクは、俺に溶けていった。
『キク!』
俺はとっさに、形が残っていたキクの手を取った。手をつないだように見えたのは一瞬で、わずかにしか動かない俺の手はこぶしを作って胸の上に落ちた。
ひとりになった。
キクは、何をした?
俺は死にかけていたはずだ。それなのに、まだ生きている。
キクが望みを叶えたというのか。
存在し続けることを望む……。
そもそも、なぜキクは病院に来られた?
重い体を引きずって、すぐに荷物を確認した。全て。全て探した。
見覚えのないものを見つけたよ。カバンの外ポケットの、奥底に入っていた。
婆ちゃんは御守りなんて持たせたことはなかった。
『一郎!……またキクに利用されやがって!』
袋の中の葉は、既に枯れていた。
きっと 一郎の庭も俺の家も、菊は枯れたな。そう思っていたら、婆ちゃんが血相を変えて面会に来た。少し前まで病院にいて帰ったばかりだというのに、またすぐに戻って来たという。家の菊を見たと、後になって聞いた。
俺が起き上がっているのに相当驚いたらしく、ぼろぼろ泣いていた。俺の手にしていた御守りを見て、奇跡が起きたと言ってまた泣いた。
モニターやら点滴やらとにかくチューブだらけの俺が構わず動き回っていたから、病院のスタッフも駆けつけた。 床頭台も棚も開け散らかした状態で何ごとかと騒ぎになり、それからはキクのことを考える余裕もなかった……。
「あの時の婆ちゃんを見たら、俺はキクに対して何も言えなくなってしまった。もうキクに言うこともできないけどな」
誠はぽつりと言った。
「俺は、こんなことは望まなかった」
望まなかったのは、キクによって誠が生かされたことか。キクが誠のために消えたことか。それとも、キクがキクとして存在したことか。
誠は気づかなかっただけだ。
きっと初めから、キクは誠の死後のためではなく、誠が生き続けるために存在していたのだろう。
「キク」と呼ばれたその時から。
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