第17話 菊
「キクちゃんを連れて行く?」
「はい。私は、私のあるところにしか存在できません」
「……菊の葉を届ける、か」
キクが誠に会うことを望んでいる。
それは誠のためなのか、キク自身の想いなのかはわからない。でも、その二択ならどちらも僕が断る理由にはならない。
「わかった。とにかく大家さんの家に行こう」
大家さんの家の門扉は開いたままだった。一度病院から戻って来たというから、必要な物を持ってまた病院に向かうのだろう。
昨日の夕方に宿泊合宿から戻った僕が、誠の入院を知るはずがない。キクから聞いたとはもちろん言えない。
大家さんたちには申し訳ないが、何も知らないふりをしてインターホンを鳴らした。
「一郎君?」
インターホンではなく、敷地の奥から婆ちゃんの声がした。
丁度家を出るところだったらしい。婆ちゃんと一緒に来た大家さんは、僕が会釈するとにっこり笑ってそのまま門扉近くに停めてある車に向かった。
「一郎君、合宿だったんですって? いつもの曜日にレジにいないから、みんながっかりしていたわよ」
婆ちゃんはいつもと変わらない様子で話しかけてきた。
「昨日帰って来たんです。あの、マコちゃんは……」
「ごめんなさいね。ちょっと入院しちゃって、しばらく会えそうにないの」
「あ……え、と……」
婆ちゃんに何と言えばいいのかわからなかった。大家さんも婆ちゃんも全く動揺したところがない。むしろ淡々とし過ぎているのだ。かえって深刻な事態なのかと邪推してしまう。
「大丈夫よ。マコは持病があって前にも入院しているの。私から一郎君に詳しいことを話すのは、その、マコが……」
「あ、いいんです。マコちゃんが退院してから、マコちゃんが話してくれそうだったら直接訊きます。ただ、前に入院したことがあるとは聞いています。中高生くらいの頃だとか」
少し嘘だ。誠は入院したのが自分だとは言っていない。
「そうなのね。でも、最初に入院したのは大学入学直前だったはずよ」
「え?」
「あ、これは言ったらダメだったのかしら……結局大学に行けなくて、すごく残念そうだったのよ。マコには内緒ね」
キクが婆ちゃんの後ろにスッと立って僕の視界に入った。じっとこちらを伺っている。
「あの、大変な時にお邪魔しました。これからマコちゃんのところへ行かれるんですよね。だったら、これを……」
「あら、御守り?」
「母からもらって、いつも身につけているんです。僕はものすごく元気なんで、今だけマコちゃんに貸します。マコちゃんが大変なのに僕は何もしてあげられないから……。でも、こんなの渡すのは恥ずかしいので、マコちゃんにバレないように荷物のカバンのポケットとかにこっそり入れていただけたら嬉しいんですが……。いきなりですみません」
「ふふふ。わかったわ。お預かりします」
婆ちゃんは僕が差し出した御守りをそっと受け取った。軽く触れた指先が、驚くほど冷たかった。
「あのっ、婆ちゃんは? 婆ちゃん大丈夫なんですか? 昨日からずっとで……」
婆ちゃんは、またふふっと笑って僕を見た。
「大丈夫よ。これくらいじゃあ老けないから。私はこれから千年生きるのよ。ありがとう、一郎君。あなた三十年くらいしたら、びっくりするくらいイイ男になるわね」
「三十年……」
僕は大家さんたちが出発するのを見送って、家に戻った。
「これでたぶんキクちゃんは、マコちゃんに会えると思うよ」
「ありがとうございます」
僕は菊の葉を詰めた御守り袋を婆ちゃんに渡した。葉が枯れる前に誠の病室に届くはずだ。
「菊の花が咲く前に、マコちゃん帰ってくるかなあ」
庭の菊を見ながら、隣にいるキクに言うでもなくつぶやいた。茎の先端には花の蕾が小さくつき始めている。
当分面会はできないだろう。倒れたことを僕に知られたくないようだから、面会自体拒否されそうだ。
はあっとため息をつくと、キクが静かに微笑んだ。
「イチロウさんは、菊の花が見たいのですか?」
「もちろん。あ、ここにあるキクちゃんの菊の花だよ。僕が一番上の芽をせっせと摘んだから、花がいっぱいになるんでしょう? マコちゃんと一緒に見たいんだよね。利用されたって言って僕のことを笑ったからさ。満開になったら、ほらどうだ結果が全てだーって言ってやりたい」
「見ることはできません」
「え……。やっぱり無理?」
「はい」
「そうかあ。キクちゃんが言うなら、きっとそうなんだろうね。マコちゃん、いつ退院できるかな……」
はあ。僕はもう一度ため息をついた。
三十年。ふと婆ちゃんの言葉を思い出した。三十年後か。明日も三十年後も、何が起こるかわからないことには変わりないな。
「キクちゃんは、永遠に存在するのかな」
「イチロウさんは、自分がいつまで存在するかご存知ですか?」
「知らない。……キクちゃんも同じか。ごめん。とにかく僕は、マコちゃんやキクちゃんに出会えてよかったよ。もう、いるのが日常なんだよね」
「そうですか」
キクは素っ気なく言った。いつものことだ。
いつものことだった。
その日以降、キクは姿を現さなくなった。
そして、庭の菊が枯れた。
キクの言ったとおり、花を見ることはできなかった。
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