第4章 大暑
第16話 草刈り
本格的に夏が来た。一雨毎に雑草が増え、ここ数日は見ている間にも草が伸びる勢いだ。僕はどうしたものかと、家賃支払いの際に大家さんに相談した。
「他の借主さんからもね、この時期そういうお話をいただくんですよ。良かったら、うちの草刈機をお貸ししますよ。河西さん使ったことある?」
家賃手渡しの月一訪問は、大家さんの借家管理術に違いない。情報把握だけでなく、実は人物査定もしているのではないか。
大家さんは、エンジン草刈機を持ってうちにやって来た。誠も一緒について来た。
「ゴーグル着けましたかね? 動かす時は体の右側に持つ感じで。じゃあ、まずはこの紐を引っ張るんですが……」
「おおっ!」
勢いよくスターターの紐を引くと、エンジン音が響いた。
これは楽しい。
僕は大家さんに草刈機の使い方を教わりながら、雑草を次々と刈っていった。玄関や勝手口前のひび割れたコンクリートからはみ出す草が一気に散ると、気分がすっきりした。
花や草の精が見えなくて良かったとつくづく思う。
誠は、縁側に座って僕と大家さんのやりとりを眺めていた。
「ありがとうございました。助かりました。なんか楽しかったです」
「こちらこそ、きれいにしておいてもらえると助かりますよ。いつでもお貸ししますから」
草刈機を大家さん宅の前まで運んでお辞儀をすると、頭を上げる前にポンポンと肩を叩かれた。
「河西さん、マコと仲良くしてくれてありがとう。これからもどうか頼みます」
はい、と返事をした。けれども僕はすぐに頭を上げられなかった。
誠の婆ちゃんにも同じようなことを言われた。その時はわからなかったけれど、今なら大家さんたちの言葉がただの挨拶ではないことがわかる。
僕は、言葉に込められた思いを勝手に想像して辛くなって、大家さんの顔が見られなかった。
家に戻ると、縁側に座る誠とその横に立つキクが楽しそうに何か話していた。そこだけキラキラしていて、ボロ借家に似つかわしくない、映画のような光景だ。
僕は疲れてクタクタなのに……。そんな感想しか出ない僕は、非現実的な日常にすっかり慣れてしまっているのだろう。
よく見ると楽しそうなのはキクだけで、誠の方は無表情だ。それどころかキクを見向きもせず淡々と話している。
それがなぜか腹立たしかった。
そういえば、誠はキクにいつも素っ気ない。むしろ冷たい。ひどいではないか。
「一郎、お疲れ。冷たい飲み物あるぞ」
「ありがとう。僕が頑張っている時に、なにイチャイチャしているんだよ」
「あ? なに怒っているんだよ。お前もキクとイチャイチャすれば?」
誠は僕が疲れて不機嫌になっていると思ったのか、全く相手にしない。
「……違うよ。嫌味で言ったの!」
「仲間外れで寂しかったのか? お前の話しかしていないぞ。そのうち爺ちゃんから自治会の除草活動に誘われるだろうなって」
「僕は、マコちゃんがイチャイチャしないから怒っているの。もっとキクちゃんに優しくしてあげればいいのに。マコちゃんがキクちゃんに笑いかけているの、見たことがない」
「は? お前が笑えば?」
「……」
キクは僕たちの会話を聞いているのかいないのか、草刈りの終わった庭にふわりと出て行ってしまった。キクが誠の塩対応を気にしていないのなら、僕が口出しするのも変だろう。
はあっと気の抜けたため息が出た。
誠から冷えたペットボトルを奪い取って、隣に座る。誠は笑いをこらえながら僕を見ていた。
「そういえば、来週大学の宿泊合宿があるんだ。二泊三日なんだけど」
「必要だったら庭の水やりくらいしておいてやるよ」
「ありがとう。お土産ないけど」
「どうせ大学付属の農場だろ」
「よく知っているね。そうなんだよ。朝六時から除草とか堆肥作りとか、もう休みなしの実習。夏休みになるからバイトも増やしちゃったし、月末は超ハードだ」
「お前って大学のサークルとかに入っていないの?」
「入っていないよ。入学式直後に二度目の引っ越しでバタバタしていて、見学も入部の機会も逃したというか、余裕がなかったというか」
「それじゃあつまらないだろう」
「別に、一応学科内の知り合いはいるし、つきあいもあるから。それに、暇だったらマコちゃんと遊べばいいやって」
「俺? ひきこもりだから出かけないぞ」
「えー? 前に訊いた時、ひきこもりって言わなかったじゃん。ニートじゃなかったの? 家事手伝いとか、暇でしょう?」
「忙しいんだよ。大家見習いだから」
「うわっ、ホントにそれ言った」
翌週、僕は大学の宿泊合宿に参加した。借家に入居してから、家を空けるのは初めてだった。
誠が庭の水やりをしてくれると言っていたけれど、体調は大丈夫なのかな。
キクは元気だと思うけれど元気かな。
気づくと家のことばかり考えていた。
たった二日でホームシックかと誠にばかにされそうなので、何食わぬ顔で帰ることを決意して、僕はひたすら実習をこなしていった。
「イチロウさん、イチロウさん」
宿泊合宿から戻った翌朝、キクが窓から僕を呼んだ。キクが家の中の僕を呼ぶなんて初めてだった。
「おはよう。どうしたの? 珍しいね」
「マコトさんが倒れました」
「え?」
キクはいつもと変わらない、事務的な口調で言った。
「昨日の夜遅く、救急車で病院に行きました」
「大家さんとか婆ちゃんは? 今どうなっているの?」
「マコトさんと一緒に行って、先ほど二人で戻って来て、また病院に行くようです」
僕の合宿出発前、誠は元気そうだった。それなのに、こんな風に急に入院してしまうものなのか……。
「キクちゃんは向こうの、マコちゃんの家の庭で見ていたんだね? マコちゃん、どんな様子だった?」
「静かでした。ただ運ばれて行きました。救急車が来て、ストレッチャーに乗せられて門を出る前に私を呼びました。目を開けて、私を見て、笑って言いました」
『キク、一郎には言うなよ』
「なんで……なんでだよ? マコちゃん、違うだろ。笑いかけるとこ、そこじゃないだろ!」
僕はキクに向かって叫んでいた。
なんで僕に隠すんだよ? 僕が過去を知らないことになっているからか? 知られたくないからか?
僕はもっと近い関係になれていたと思ったのに。
あまりにも突然で気が動転しているせいか、心配よりも怒りに近い文句ばかりが湧き上がる。
黙って僕を見ていた無表情のキクと目が合って、はっと我に返った。
「……ごめん、キクちゃん」
「いえ」
キクはまた事務的に答えた。おかげで僕は少し冷静になれた。
「でも、僕には言うなとマコちゃんから言われたのに、何で教えてくれたの?」
「イチロウさんにお願いがあるからです」
「お願い?」
「私をマコトさんのところに連れて行って下さい」
キクは僕を見てはっきりとそう言った。
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