21-2 夢と『現実』

「お父さんとお母さんは、小三の時から同じクラスだったんだ」

 いつも怒られてばかりでかわいそうと言われたお父さんは、マシュマロのような顔をさらにほわほわにして話し始めました。

「お母さんは生徒会長で、卒業式の総代そうだいも務めたよ。中高は違う学校に通ったけれど、大学でまた一緒になった。大学の成績せいせきもお母さんの方がうんと良かった。お母さんに出会わなければ、ぼくはお医者さんにはなれなかったよ」

「それ本当なの。だってお医者さんになるには、算数や理科が出来ないとだめってお母さんが」

 まーくんは芝生しばふだらけのお尻をぽんぽんと払うと、お父さんのおひざに乗りました。


「お父さんは算数や理科が大の苦手だったよ。でもお母さんがお医者さんになるって子供の頃から決めていたから、お母さんに引っ張られるように勉強した。それでお母さんは女子校、お父さんは男子校に行ったから、中学からはお母さんと別々になった。そこでも学年一位の子と仲良くなったら、その子に引っ張られてまた成績が上がって。それで、その子と一緒の学校を受けたらお母さんがいた」

「本当に、要領ようりょうが良いと言うか、人たらしと言うか。お母さんの気持ちが少しは分かった気がする」

「お兄ちゃんのその表情。どんどんお母さんに似てきたね」

 お兄ちゃんは、形の良いまゆ毛を上げてお父さんを見やります。

「人をたらしたつもりはないよ。ただ、お父さんは人から良い影響を受けて育っているのは間違いないね。周りの人に恵まれて、周りに育ててもらったと思っている」

 き火に照らされたお父さんの横顔は、やはりまーくんに似ています。


「お兄ちゃんは手先も器用だし真面目だから、お医者さん向きだろう。でも、お医者さんになったとて、うちの診療所しんりょうじょを無理してぐ必要もない。うちのような街のお医者さんの他にも、いろんな種類のお医者さんがいる。製薬会社で新薬の研究をしたり、医療行政いりょうぎょうせいに関わる人もいるね。一口にお医者さんと言っても、色々な働き方や職種しょくしゅがあるよ」

 お父さんは夏の大三角形を見上げました。そのかたわらでは、まーくんがマシュマロをフォークでつついています。


「お兄ちゃんは大きくなったら何になりたいの」

 お父さんは、車の中でしたのと同じ質問をお兄ちゃんにたずねました。

「お医者さん以外の大人が近くにいないから、分かるわけが無い。学校や塾の先生はピンとこないし、みっちゃんそばのおじさんみたいにお客さん相手の商売は向いていないし、パンダのお父さんの仕事は大変すぎるし」

「でも、パンダくんのお父さんのお仕事ってすごいよ」

 まーくんは、焼いたマシュマロをお兄ちゃんに差し出しながら言いました。


原油げんゆを運ぶために、ひたすら日本とペルシャわん往復おうふくする仕事だぞ。とっても体力も神経しんけいも使うし危険だ。一年の大半を海の上で過ごすなんて、まるで想像もできない。その上、家族と会えない時間の方がずっと長い。そんなの無理だ」

「だけど、パンダくんのお父さんが運んだ原油が無かったら、お野菜にお肉、それからお魚を食べるのも大変だってパンダくんが」

「確かにとても大切な仕事だけれど、何十年も続ける事が出来るのか」

 お兄ちゃんはうーんとうなると、夏の大三角形を見上げます。


「なりたいものは、仕事とは限らないよ。そうだな、まーくんは何になりたいのかな」

 難しい顔をし始めたお兄ちゃんに声を掛けたお父さんは、まーくんにたずねます。

「うーん、あっ。ピリピリをやぶる人。プチプチをつぶすのも良いな」

 まーくんはミシン目の入った紙をやぶるしぐさをしました。

「ピリピリって何だ。またわけの分からない事を」

「ピリピリはピリピリだよ」

 お兄ちゃんはまーくんに首をひねっています。

「ねえねえ、お父さんは」

 まーくんはお父さんにマシュマロを差し出しました。


「お医者さん以外だったら、詩人になりたかったなあ」

 お父さんはまーくんから差し出されたマシュマロをコーヒーカップに入れると、マシュマロのような笑みを顔いっぱいに広げます。

「山や海をめぐって、畑をたがやして、野菜をしながら詩を作る。畑の脇に野菜の直売所ちょくばいじょを作って、そこで写真付きの詩も出して、それから」

「野菜の直売所はともかく、詩を作るのは今からでも出来るって」

「もうおじさんだし……。ちょっと恥ずかしい」

 お兄ちゃんのはげましに、お父さんのマシュマロのような耳が、少しだけ赤くなっているようです。


「あのね、お兄ちゃん。お兄ちゃん自身が『現実』の船長さんだよ。『現実』がお兄ちゃんの船長さんではないからね。それで、目の前の『現実』以上に大切なのは夢だ。形の無い夢で良い。笑っちゃうほどどうでも良い夢で良い。誰にも言わなくても良いから、いつも夢を持っておくんだよ。それがお兄ちゃんのお守りになる」

「それって、中学受験をするなって事」

「そうじゃない。受験しようとしまいと、受かっても落ちても、医者になろうとなるまいと、お兄ちゃんはお兄ちゃんだ。お兄ちゃんの価値を決めるのはお兄ちゃんただ一人だ。入試結果にも、先生にも、僕たち家族にさえ、お兄ちゃんの価値は決められはしない。だから心に夢を持つのが大切なんだ」

「意味が分からない。『俺の価値』と『俺が夢を持つ事』のつながりは」

 お兄ちゃんは首をかすかに振って、お父さんを見つめます。


お兄ちゃんにこっそり聞いてごらん。忘れた頃にこっそり教えてくれるはずだよ。それからね、『将来の目標もくひょう』『希望の進路しんろ』は変わったってかまわない。いや、むしろそれが自然だ。人は成長して変化する生き物だからね。

 特に若いうちは、目標もくひょうがコロコロ変わったって、しんが無いなんて他人に怒られてもかまうものか。興味きょうみを持つたびに集めた知識や経験のすべてが大河たいがになって、お兄ちゃんを大海原おおうなばらへと運んで行く。だから、無駄や失敗、後悔こうかいするようなことですら、げきマズに見せかけた絶品料理ぜっぴんりょうりだよ。結局、どう転んだって上手く行く。知ってた?」

 難しい話に飽きたまーくんが芝生しばふに寝っ転がって星を見る中、お父さんは熱っぽくお兄ちゃんに語り掛けました。


「そんな夢物語みたいな都合のいい話があってたまるか。お父さんは大人のくせに、俺より現実が見えていない。だからお母さんに怒られるんだよ」

「そうは言ってもね。目の前の『現実』より大切なのは夢。お兄ちゃんが『現実』の船長さん。どう転んだって上手く行く。お父さんにはこれと言ったこだわりもないけれど、この信念だけは小さい時からずっと持ち続けているよ。これだけはお母さん相手にもゆずれない。何があってもここだけは変わらない」

 お父さんはそれだけ言うと、まーくんとお兄ちゃんを残してお手洗いに行きました。

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