4 おねしょマン

「まーくん」

 おねしょの証拠しょうこを消したまーくんは、すっかり安心して眠っていました。

「まーくん、起きて」

 まーくんを起こしたお父さんは、泣き出しそうな顔でまーくんを見下ろしています。

「おねしょをするのは仕方がない。でも、うそやごまかしはいけないよ」

 お父さんは、まーくんが捨てたゴミ袋を持っていました。

「お母さんに怒られるのがこわかったのかい」

 まーくんはうなずきましたが、本当はそれだけではありません。

 怒られるのと同じぐらい、お母さんにがっかりされるのがつらかったのです。

 だって、お母さんは何でもできるお兄ちゃんが大好きだから。

 まーくんは『ダメな子』だから。


「まーくん。おねしょはかならず治るからね。大丈夫だよ」

 お父さんはまーくんの頭をマシュマロのような手でゆっくりとでると、ゴミ袋を持って二階に上がっていきました。

 まーくんが鼻をすする音が、ひとりぼっちの子供部屋にひびきました。



 おねしょをするようになったのは、ひとりぼっちで寝るようになってから。だから、寝る前にお兄ちゃんに本を読んでもらえば、おねしょが止まる――。

 そう考えたまーくんは、階段を登って、お兄ちゃんの部屋へと向かいます。

『おねしょマン立入禁止』

 まーくんは引き戸に貼られた紙にかまわず、引き戸を開けました。


「『おねしょマン立入禁止』って書いてあるだろ。来るな。俺は受験勉強中なの」

 目も合わせずにぴしゃりと引き戸を閉めようとしたお兄ちゃんでしたが、まーくんはするりと部屋の中に入りました。

 横に長い机の上には、銀色のノートパソコン。背の高い本棚ほんだなには、問題集とまったく面白くなさそうな本が少し。それから、ゲーム機が置かれています。

 子供部屋には持ち込めないゲーム機が置かれているのを見て、まーくんはほっぺをふくらませます。お兄ちゃんばかりずるいと思ったのです。


宮沢賢治みやざわけんじの童話集は本当の本当にいらないの。モンスター図鑑に乗り物図鑑も置いたままだよ」

「あんなゴミ知るか」

「だってどれもお兄ちゃんの宝物でしょ。ゴミじゃないよ。ぼく知ってるもん」

「俺はもう子供じゃない。全部やるから失せろ。おねしょマン」

 たったの二週間で、まーくんが知るお兄ちゃんとは別人になってしまったよう。

 まるで『よだかの星』のたかのように、今のお兄ちゃんはいじわるで怒りんぼです。


「ぼくはおねしょマンじゃない。ぼくは、お兄ちゃんのせいでおねしょをするようになったんだ。お兄ちゃんが悪いんだ」

 ふだんは怒ったりしない、おっとりしたまーくん。

「お兄ちゃんのせいだ。お兄ちゃんが約束を破ったのが悪いんだ。お兄ちゃんが絵本を読んでくれないから」

 本当はお兄ちゃんといっしょにいたいだけなのに、まーくんは泣きながら暴れることしかできません。


「いい加減にしなさい!」

 まーくんが顔を真っ赤にして暴れていると、お母さんの足音が聞こえてきました。

「お兄ちゃんだって受験勉強があるのに、まーくんのためを思って子供部屋にいてくれたのよ」 

 お兄ちゃんの部屋にやって来たお母さんは仕事用の白衣はくい姿です。お父さんは先に診療所しんりょうじょに行ったので、この部屋にはまーくんをかばってくれる人はいません。

「わがままばかり言わないで。まーくんはもう小三なのよ。しっかりしなさい。お兄ちゃんに甘えないで」

 お母さんはそれだけ言うと、白衣をひるがえして階段を降りていきました。


「そう言う事だ、おねしょマン。今年からは、宿題も絵日記も全部自分でやれ」

「ぼくはおねしょマンじゃない。ぼくはまーくん。お兄ちゃんのたった一人の弟だよ」

 まーくんは丸い目を三角にして、お兄ちゃんをにらみつけます。


「俺の弟のまーくんはおねしょもしないし、おねしょをかくすためにこずるい工作もしない。うそもつかない。だからお前はまーくんじゃない。おねしょマンだ。お前なんか弟じゃない。うそつきは出ていけ」

「ぼくはおねしょマンじゃない。まーくんだ。お兄ちゃんのたった一人の弟だ!」

 お兄ちゃんはまーくんの首根っこを強くつかみます。その乱暴らんぼうさと来たら、本当に『よだかの星』の鷹そのものでした。

「出ていけ! おねしょマン」

  お兄ちゃんはまーくんを今度こそ部屋の外へと追い出すと、ぴしゃりと引き戸を閉めました。引き戸に鍵を掛ける音が、いやに大きく響きます。

「ぼくはまーくんだ。お兄ちゃんのたった一人の弟だ!」

 引き戸の向こうのお兄ちゃんからは、何の反応もありませんでした。



 力ない足取りでまーくんが階段を降りると、台所には朝ごはん用のパンとサラダが置いてありました。お父さんとお母さんは診療所しんりょうじょでお仕事中です。

 パンを食べる気がすっかり失せたまーくん。

 子供部屋に戻って算数ドリルを開きますが、手が止まってしまいました。

『お前なんか弟じゃない』

 お兄ちゃんに教えてもらおうと階段の中ほどまで上がった所で、まーくんの足が急に止まります。


 まーくんを部屋から追い出したお兄ちゃんの言葉。

 肩や首根っこにつかみかかったお兄ちゃんのするどい指。

 お兄ちゃんは本当に、『よだかの星』のたかになったみたいだ――。


 胸の中心にふっくらした手を当てて、まーくんは大きく息を吸い込みます。

 そして子供部屋へと引き返すと、算数ドリルをかかえておとなりさんに向かいました。



「まーくんどうしたの」

 まーくんがおとなりさんのドアホンを押すと、パンダくんが顔を出しました。

 小学四年生なのにまーくんよりも小さな体のパンダくんは、パンダグッズが大好き。今日はパンダのフード付きシャツを着ています。

「あのね。文章題ぶんしょうだいが分からないの。お兄ちゃんには聞けないから教えて」

「お兄ちゃんはどこかに行ったの」

 うつむいたまま答えないまーくんは、いつもよりずっと顔色もどんよりしています。


「後でも良いかな。ぼくはこれから、あおぞらレストランに行かなくちゃ。そうだ、まーくんもおいでよ。自転車で行くから、自転車を取って来て」

 まーくんは大急ぎで十八インチの自転車を取りに戻ると、パンダくんの後に続いて自転車をこぎ始めました。

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