2 大人への階段

 まーくんが作文の宿題を出してから数日の後。

 ぎっちぎちのランドセルに新幹線柄の手さげカバンを引きずりながら、まーくんは家の門を開けました。

 今日から夏休み。

 ったばかりの夏草のにおいが、まーくんをむかえ入れます。


「どうしてこんなに遅くなったの。お兄ちゃんはずいぶん前に帰って来たのに」  

 玄関を開けたお母さんは、あきれたように声をけました。

「ひーくんの弟がアサガオを落っことしたの。それで落っことしたアサガオをバイクがひいてぐちゃぐちゃになったの。あーちゃんがすごく泣いて、みんなで職員室に行って。四年の女子がカバンを持てって言って来たから。えっと、ひーくんの弟があーちゃん。一年生で」

「お友達の手助けをしたのね、分かったわ」

 起こったことをくわしく話そうとするまーくんを、お母さんは止めました。

 お母さんは、まーくんがだらだらと話すのが好きではないのです。


「今日から子供部屋はまーくんが一人で使えるわよ。二階のおばあちゃんのお部屋を、お兄ちゃんのお部屋にしたの」

 まーくんのカバンを代わりに持ったお母さんの一言に、まーくんの息がまります。

「寝る時はどうするの」

「もちろんお兄ちゃんは二階で、まーくんは一階の子供部屋よ」

「いやだ。ぼくも二階に行く。お兄ちゃんといっしょ!」

「二階のお部屋はお兄ちゃんの。子供部屋はまーくんの。分かったわね」

「どうして。ぼくも二階に行く!」

「お兄ちゃん、ごはんが出来たわよ。降りて来なさい」

 お母さんはまーくんの声が聞こえないかのように、お兄ちゃんを呼びました。


「新しい部屋はどう。不便な所があったら言いなさいよ」

「別に」

 お兄ちゃんはそうめんにちらりと目をやると、大人のようにつぶやきます。

「お兄ちゃん。ぼくもお兄ちゃんのお部屋に行きたいの」

「だめ」

 三人分のはしをならべながら、お兄ちゃんは一言で断りました。


「お父さんは往診おうしんの日だから、ちゃっちゃと食べてね。お母さんはいそがしいの」

 まーくんのお父さんとお母さんは、おじいちゃんの診療所しんりょうじょを継いでいます。

 お父さんは週に二回、診療所しんりょうじょに来られない患者かんじゃさんの家に出向いて診察しんさつをしています。ですから、お父さんが往診おうしんの日のお母さんは、いつも以上にいそがしいのです。


「お兄ちゃん、あのね」

 お兄ちゃんはまるでまーくんがいないかのように無言で立ち上がると、そのまま二階の部屋へと去っていきました。

 まーくんに背中を向けたお兄ちゃんは、まるで中学生のようでした。



「ごちそうさまでした」

 お兄ちゃんよりかなり遅れてそうめんを食べ終えたまーくんは、お母さんに空いたお皿を渡します。

「宿題は夕ごはんの前までに一人で済ませて、お母さんに見せなさい。お返事は」

「お兄ちゃんに聞いちゃだめなの」

「だめよ。お兄ちゃんは中学受験で大変なの。分かったわね。お返事は」

「はい」

 耳の後ろをぽりぽりとかきながら、まーくんは子供部屋に向かいました。



 お兄ちゃんがいなくなった子供部屋は、まるで月夜の砂漠さばくのよう。

 あるじを失った宮沢賢治みやざわけんじの童話集も、お兄ちゃんがまーくんのために作ったおもちゃも置きっぱなし。

 まーくんは、お兄ちゃんからもらったペットボトルの貯金箱ちょきんばこを手に取りました。

 ペットボトルの胴体どうたい車輪しゃりんを、キャップの部分に太陽電池たいようでんちをつけたヘンテコ貯金箱。真ん中にはまーくんが描いたネコの顔がってあります。


「うんこなぞなぞパズルだって置きっぱなし。あれ、お兄ちゃんが作った変身ベルト。こんな所にあった」

 まーくんはだだっ広く感じる部屋を埋めるように、お兄ちゃんの宝物を引っ張り出しました。ですがいくらお兄ちゃんの宝物を広げても、部屋はだだっ広いままでした。


「お兄ちゃん……」

 お部屋ごと砂に飲み込まれるような心持ちになったまーくんは、宮沢賢治みやざわけんじの童話集を抱えて階段を登ります。

 こげ茶色の引き戸の先で、お兄ちゃんはまーくんに背を向けたまま机に向かっていました。


「お兄ちゃん。これいらないの」

 お兄ちゃんは算数の問題集を解く手を止めて、宮沢賢治みやざわけんじの童話集を見ました。

「童話集も本も全部やるからこの部屋には来るな」

「うんこなぞなぞパズルは。モンスター図鑑ずかんに乗り物図鑑だって置きっぱなしだよ。お兄ちゃんの変身ベルトも見つけたよ。だから」

「あんなゴミてろ」

 お兄ちゃんはまーくんの発言をさえぎるように、短く言いてました。


 おとなりのパンダくんと三人で作ったうんこなぞなぞパズル。宮沢賢治みやざわけんじの童話集と図鑑。それに変身ベルト――。

 まーくんは幼稚園の年長組の時から、お兄ちゃんといっしょに子供部屋にいるのです。だから、お兄ちゃんの宝物とゴミを間違えるわけがありません。

 まーくんは困ってしまって、耳の後ろをぽりぽりとかきました。


「あのね、お兄ちゃん。やっぱり」

 子供部屋にいてと言いかけたまーくんは、続く言葉を失いました。 

 『よだかの星』のたかのように冷たい目。まーくんを拒絶きょぜつする、大人びてきた手のひら。

 お兄ちゃんはまーくんの肩をつかんで、部屋の外に押し出します。

せろ」

 まーくんの目の前で、こげ茶色の引き戸が音を立てて閉まりました。


 そして、その夜――。

 ひとりぼっちの子供部屋で、まーくんはおねしょをしたのです。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る