12 さよなら まーくん 

『お前なんか弟じゃない』

 まーくんに投げつけたはずの言葉は、お兄ちゃんの胸をとがったつららのように突き刺しました。

 お兄ちゃんが作ったそばは、キッチンバサミで切ったねぎがやたらと大きくて、そばのゆで汁にそばつゆを入れたからどろどろ。みっちゃんそばのかけそばとは比べ物になりません。

 だから、自分で食べてもまずいそばをまーくんが食べてくれなかった事に怒ったわけではありませんでした。

 どうしてあんなに怒ってしまったのか、お兄ちゃん自身にもうまく説明が付きません。


 最近のお兄ちゃんからは、まーくんを傷つける言葉ばかりが出てきます。まーくんに謝ったり、優しい言葉をかけることが出来ません。どうしてなのかはお兄ちゃんにも分かりませんが、とにかくむしゃくしゃするのです。

 だから、大きく目を見開き涙をうかべたまーくんに気づかぬふりで、まーくんを無視するように、まーくんの分までまずいおそばを食べたのでした。


『お兄ちゃんのせいだ。お兄ちゃんのせいで、ぼくはおねしょをするようになったんだよ。お兄ちゃんが悪いんだ』

『お兄ちゃんのせいだ。お兄ちゃんが約束を破ったのが悪いんだ』

 まーくんの言う通りだと、お兄ちゃんには分かっていました。

 まーくんはハイハイが出来るようになってから、ずっとお兄ちゃんの後ろをくっ付いて回っていたから。

 幼稚園の年長組になったまーくんは、寝る前にお兄ちゃんに本を読んでもらう条件で子供部屋に来ることになったから。

 まーくんにとってお兄ちゃんは、まーくんそのものだったから。


「でも俺はもう、あのころの『お兄ちゃん』じゃない」

 お兄ちゃんは、お母さんとわした会話を思い起こしました。

 それは夏休みが始まる少し前。

 ホテイアオイの水鉢みずばちを雨がたたきつける中、歯医者へと向かったお父さんとまーくんを見送った夕刻ゆうこくのことでした。


※※※


『まーくんには子供部屋を出るのは黙っておきなさい。そうしないと、またわがままを言ってお兄ちゃんを困らせるから』

『俺はこのまま子供部屋にいてもいい』

『バカなことを言わないで』

 お母さんはカラスが鳴くような声でお兄ちゃんをたしなめます。お兄ちゃんは、口をはさまずにお母さんの言葉を待ちました。

『中学受験をするのにいつまでも子供気分じゃ困るのよ。それに、おばあちゃんだってやっと施設しせつに入ることが出来たから。お兄ちゃん用に大人用の机や本棚ほんだなも注文したのよ。パソコンだって』

 お兄ちゃんが二階の部屋に移るのは、お母さんの中では決定事項じこうのようでした。


『でもまーくんとの約束だってある。それにまーくんはまだ小三だから、一人で寝るのは不安だろうし』

『まーくんを言い訳に使うのはやめなさい。お兄ちゃんはもう子供じゃないの』

 続くお母さんの一言は、お兄ちゃんの思いもよらないものでした。

 まーくんを言い訳にしている? 一体何の?

 お兄ちゃんは、お母さんの顔を思わず見上げます。


『他の子より受験勉強のスタートが遅い分、何倍も勉強して追いさなきゃ。それにお父さんの中学に入って、お父さんの進路を歩んて後をぐと決めたのは誰なの』

『俺』

 お兄ちゃんの返事に、お母さんは満足げにうなずきました。

『そうね、決めたのよ。自分の言葉に責任を持ちなさい。人の命をあずかる仕事につくのに、気分屋やき性、それにさぼりぐせがあってはつとまらない。これから先も子供部屋でぬくぬくしたいなら、医者には向かない』

 お母さんは細いまゆ毛をきっと上げて、鋭い目でお兄ちゃんを見据みすえます。

『でもね、お兄ちゃんは強い子。だから、自分で決めた事から逃げたりしない。だってお兄ちゃんは、お父さんとお母さんの子供だもの』

 お母さんの言葉に小さくうなずいたお兄ちゃんは、まーくんのいない子供部屋に戻りました。


『俺はもう、子供じゃない』

 胸の真ん中に、するどくとがったつららが突きさったような痛みが走ります。

『俺が、自分で決めた事』

 お兄ちゃんは、宮沢賢治みやざわけんじの童話集を手にします。

『俺は、自分で決めた事から逃げたりしない』

 そして、目に見えない血をどくどくと流す胸の真ん中に、『よだかの星』のページを押し当てました。

『俺はもう、『お兄ちゃん』じゃないから。だから。さよなら、まーくん』

 そっと机の上に置いた宮沢賢治みやざわけんじの童話集。

 開き癖がついた『よだかの星』のページが、まるで子供時代に無理やり別れを告げたお兄ちゃんに手を振るようにれました。

 そしてお兄ちゃんは、心の一番やわらかい所にコンクリートを流し込んで、子供部屋を後にすることを決めたのです。 

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