その衝動は
闇に沈んでいた詩乃の意識が、急速に浮上する。
ゆっくりと瞼を開くと、見慣れた自分の部屋の天井が見えた。
のそりと起き上がり、いつの間に自分の部屋のベッドの上にいるのだろうかと首をかしげて、のえるがここまで運んでくれたのだろうと結論に至る。
「あ、詩乃ちゃん、目覚ました?」
「のえ……っ!?」
そののえるはどこにいるのだろうと視線を彷徨わせると、丁度扉を開けて入ってくる。
ベッドから離れた場所にいるのに、部屋に入ってきてくれただけで彼女からする甘い香りがほのかにしてきて、歓喜に満ちた表情をして視線を向けて、すぐに恐怖に歪む。
のえるは最近よく着ているのを見るもこもこのパジャマを着ている。可愛らしくてとてもよく似合っているものなのに、ただ一つ普段とは違うものがある。
それは首から下げている十字架だ。ただそれが視界に映り込んだだけで、体の芯から全身を恐怖が埋め尽くして硬直する。
ホラーものが苦手で今でもあんなのを見た日には絶叫するが、それの比ではない。
ああいう、人の作った怖いものに怖がっているとかではなく、自分という存在そのものがノエルが首からかけている十字架を強烈に否定して恐怖している感じだ。
「……やっぱり、遂に発露してしまったのね」
なんでのえるがそんなものを、と思っていると開けっ放しの扉から母の詩音が入ってくる。
彼女の表情は、意識を失っていた詩乃が起きたことに安堵するでもなく、何かを堪えるような非常に辛そうなものだった。
「詩乃、あなたに話すことがあります」
どうしてそんな顔をしているのだろうかと首をかしげると、改まった様子で真剣な声音で言う。
話すこととは何だろうか。それを口にするのを酷く躊躇っている様子の詩音のことを見つめながら、彼女の言葉を待つ。
「……その、とても、とても言いづらいことだけど……端的に言えば、詩乃、あなたはもう人間じゃない」
「……………………は?」
言っている意味が分からなかった。
人間ではない、と言われて思考が停止する。世の大半の人間は、いきなり自分の親にそんなこと言われたら同じような反応をするだろう。
数秒かけて詩音の言葉を頭の中で反芻して噛み砕き、少しぐらぐらと揺れる視界で母を見上げる。
「前に、何かを強烈に欲しくなる時はないかって聞いたのを覚えてるかしら」
「うん、覚えてる。禁断症状でもあるまいしって笑ったあれだよね」
自分で言って気付いた。強烈に欲したものが何なのかを思い出し、三文字が頭に浮かんでくるがいやいやあり得ないと否定するように頭を振る。
「今、あなたの頭の中に浮かんだものが、あなたの正体よ」
「い、いやいやいや……。あり得ないでしょ? だって……だって、あんなのは所詮はおとぎ話の創作物で、そんなものがこの世にあるはずが、ないのに……」
冗談は止してほしいと引き攣った笑みを作りながら言うが、詩音の顔は真剣そのもの。嘘をついている顔ではなかった。
「……マジ?」
「本当よ。……詩乃。あなたは、吸血鬼よ」
まるで何かに頭を殴られたような衝撃を感じる。が、同時に腑に落ちるものもある。
ここ数日の間に、小さな牙のように発達した犬歯。肌が雪のように白くなり、髪の毛も色素がものすごく薄いシルバーブロンド。
何より、のえると初めて女の子として外出した時に、彼女の首筋を見た時に目がそこから離れずにいたことと、先ほどの強烈な渇き。人間ではありえない欲求。
あの時確かに、詩乃はこう思っていた。
───のえるの血が欲しい。
こんな人間にあるまじき欲求を持って、嗜血症でも発症したのかと強烈な自己嫌悪に陥りかけていたが、そもそもが人じゃないと知ってそれどころではなくなった。
とりあえず事情を知っていそうな詩音から続きを話されるのを待つ。
「この世界にはね、隠されているだけで妖怪とかそういう類の人ならざる存在、怪異って呼ばれるものがいるの。彼らは普段は、いわゆる霊感が強い人にしか見えないけど、特定の状態や状況になると見えたりするわ。肝試しとかがいい例ね。あれはそこに住まう怪異が作った自分の領域の中に、人が入って来たから見えるようになったものだから」
母の口から、この世界には本当にお化けの類がいると言うことを聞かされる。
いないと思っていた方が気が楽なのに、見えていないだけでそこにいる。しかも場合によっては見えることもある。できればそれは知りたくはなかったが、わざわざその話をするということは必要なことなのだろう。
「怪異の発生条件は、大勢の人がそれを信じること。そして、信じているそれに対して信仰心とかの正の感情が集まれば、その土地の土地神様とか座敷童とか、そういう人にいい影響を与えるのが。逆に恐怖や嫉妬など様々な負の感情が集まった場合、人から恐怖される鬼や化け物、海外ではフランケンシュタインの怪物や……吸血鬼みたいなものが生まれる」
「……つまり、ボクは人から恐怖されて生まれて来たってこと?」
「いいえ、違うわ。あなたは私たちが本気で望んで授かった大切な宝物。れっきとした人間なの。だから本来であれば、詩乃はこうなることもなかったはずなのよ」
ではなぜ女の子になったことはともかく、吸血鬼になっているのか。
聞けば、詩音のご先祖はルーマニアの方にルーツを持っているらしい。もうそれだけで確実に伯爵が関わっているなと思っていたが、あちらは直系の子孫が途絶えているので違うと否定された。
だがご先祖様がルーマニアで、『ヴラド伯爵という名の吸血鬼と恐れられた男に恐怖した結果生まれた怪異としての吸血鬼』との間に子を成してしまい、それが現代まで続いて詩乃と詩月がその末裔であるのは間違いないらしい。
そんなことがあるのかと反論したが、実際日本にも八瀬童子という鬼と人間の混血の子孫がいるのだそうだ。
ヴラドを恐怖することで生まれた吸血鬼は、すさまじい恐怖と同時にルーマニアの英雄とも称えられていたため通常の吸血鬼とは異なる進化を遂げ、その吸血鬼は真祖となっていた。
そこから長い年月を経て、吸血鬼の血というのは薄まっていったが時折先祖返りが起こって、すさまじい怪力を獲得する者、太陽の下を歩けなくなる者、魔術が使えるようになる者など様々な影響と共に、一様に血を欲するようになった。
詩音がにんにくが苦手なのも先祖返りかと思ったが、これは一族総じて苦手な人が多いから先祖返りとは関係ないらしい。
自分の母親まで吸血衝動を抱えた吸血鬼ではないと知って、そこは安心する。
「詩乃がどうして女の子になったのかは分からないわ。先祖返りはあくまで吸血鬼の力の一部の発現。あなたみたいに性別ごと変わるのなんて聞いたこともないし、そこまで強力な衝動を持つことも聞いたことがない」
「もしかして、ボクってほぼ完璧に吸血鬼?」
「多分、だけど。でも詩乃は何度も病院に行って検査してて、何も言われてないんでしょ? だから体は人間のままで、それでいて吸血鬼の能力と欠点を発露させている。正直な話、私もよく分からないのよ。ただ言えるのは、人より少し寿命が長いかもしれないけど、体が人間のままの先祖返りした真祖吸血鬼だってこと」
そう詩音は話を締めくくる。
色々と突っ込みたいところ、特に魔術が使えるようになっていることとかは詳しく聞きたいが、もう頭と理性が限界だ。
すぐそこに甘くて美味しそうな匂いを発しているのえるがおり、話を聞いて理解したこの欲求、吸血衝動をどうにかしたい。
「あ、先に言うと、おとぎ話の吸血鬼みたいに血を吸ったら同族になる、っていうことはないから安心しなさい。あと、初めての吸血は私がそばにいるから。じゃないと、多分詩乃は歯止めが効かない」
「そ、そんなに?」
「えぇ。……超失礼なことを聞くけど、のえるちゃんは純潔よね?」
「ふぇ!?」
唐突のその質問に、のえるが顔を真っ赤に染める。
本当になんて失礼なことを聞いているんだと少し怒りが湧いてくるが、吸血鬼の特徴を考えると確かに大切な問いだ。
「その…………はぃ……」
顔を真っ赤にして俯きながら、消え入りそうな小さな声で言うのえる。それがいじらしくて可愛くて、衝動が強くなる。
何より、のえるが身綺麗なままであることが嬉しくて仕方がない。そう考えてしまった自分に自己嫌悪して頭を抱える。
「そう、なら安心ね。吸血鬼にとって、純潔の人の血って言うのは極上なもの。ただ衝動を抑えるだけならそこまでこだわりを持たなくてもいいけど、このことを知っているのは現状でのえるちゃんだけ。今後このことを誰かに明かすにしても、それはせいぜい空くんくらいね。だから今後はずっと、詩乃はのえるちゃんか場合によっては空くんからしか血液を接種できない。血の味というのは、一度知ってしまうと決して忘れられるようなものじゃないから」
詩音はそう言いながら、のえるに向かってぱちりとウィンクをして、のえるはますます顔を赤くして瞳を潤ませ、熱っぽい視線を詩乃に向けてくる。
なんでそんな視線を向けてくるんだと思うが、意識を失っている間に色々と話したのだろう。教えてくれるとは思わないが、その内どんな会話をしたのかを聞いてみる。
もじもじと下腹部辺りで手を組んでいたのえるが、意を決したようにベッドに近付いてくる。
お風呂上がりのいい匂いとのえる本人の甘くて芳醇な香りが強烈に殴り付けてきて、頭がくらくらする。
ベッドの上に座ったのえるは、真っ赤になりながらパジャマのジッパーを少しだけ下ろして、胸元と首筋を晒す。
その瞬間、視野が急速に狭くなって衝動が抑えきれなくなる。
「きゃっ」
のえるに抱き着き、ぎゅうっと力を込める。逃がさないように、逃げられないように。離れないように、放さないように。
「う、詩乃ちゃん、ちょっと苦しい……ひゃ!?」
のえるが何かを言っているが、届かない。詩乃は細いのえるの首筋に舌を這わせて、彼女の肌にじんわりと滲んでいる汗の味を舌で感じる。
まだ血を飲んですらいないのに、頭が痺れるような甘さがする。汗なのに甘く感じるとはどういうことなのかと、今の詩乃に考える余裕はない。
「ぁ、ゃぁ……。詩乃ちゃん、舐めちゃダメぇ……」
ちろちろと舌を這わせて舐めている詩乃を剥がそうとするが、強く抱き着いているため剥がすことができない。
繰り返し舐めて、その都度のえるの体がぞくりと震えるのが分かる。衝動に飲まれている今の状態でも、彼女は首が弱いのを覚えている。
次第にのえるの息が乱れていき、触れあっているから体温が上がっていくのが分かる。そういう変化すら、詩乃の衝動を高めていく。
耐えられなくなってきたのか、のえるが詩乃に抱き着く。詩乃がしているように、肩口に顔を埋めて漏れ出る声と熱い吐息を隠そうとしている。
「ぅ、ふぅ……!」
耳元で聞こえる、必死に殺そうとしている声。それが堰き止めていた欲を決壊させて、詩乃は完全に衝動に飲まれる。
「あっ……!?」
口を大きく開けて、発達している小さな牙を柔肌に突き立てて噛み破る。
びくんっ、と強く抱いているのえるの体が跳ねて、感じたであろう痛みから逃れようと体をよじらせたが、一層抱く力を強くして身動きを取れなくする。
皮膚を噛み破ったところから血が溢れてきて、口の中に流れてくる。それが舌に触れた瞬間、びりびりと体中に痺れるような快楽が走る。
───なんだこれは。こんなもの、知らない。こんなに美味しいもの、知らない。
記憶に残る、FDOの中で味わったアルマの血も絶品で、あの血を味わってからは他のものがなんだか味気なく感じていた。
きっとあれを超えるものなんてないだろうと思っていたのに、あっさりと遥か上を行くものを現実で味わってしまった。
衝動に飲まれている上にこんなもの、それこそ天上の蜜とも言えるほど甘くまろやかで、脳が蕩けそうで舌に触れるだけで、嚥下した喉を潤すだけで、体が痺れるような快楽を感じるものを知ってしまえば、自制なんてできない。
「はぅ……! 詩乃ちゃ……、噛む力、強いよぉ……」
血を啜る。
「な、んでぇ……。痛いのに、なんで溶けそうなのぉ……」
一心不乱に、血を啜る。
「も、う、無理……、かも……」
タガが外れて歯止めが利かなくなり、ただ己を満たすためだけに血を啜る。
「うた、の、ちゃん……」
ふっと、のえるの手が詩乃の頭を撫でる。
気が狂いそうなほどの飢餓感と渇きはいつの間にかなくなり、ほんの些細なきっかけ一つで正気に戻る。
自分が何をしているのかを一秒かけて思い出し、口の中に残る甘美な液体を飲み込んでから、噛み付いていた首筋から口を離す。
どれくらい血を吸っていたのか、のえるは顔色を悪くして呼吸を乱し、ぐったりとしている。
「のえる……のえる……!」
やってしまった。衝動に飲まれて、彼女にすさまじい負担をかけてしまった。
血を吸いすぎたのだろう。顔色はかなり悪く、焦点が定まっていない。
どうしよう、どうすればいいんだろうと混乱し、とりあえずベッドの上に横たわらせる。
「少し吸いすぎたみたいね。ちょっとひどめの貧血ね」
「ど、どうすれば……」
「落ち着きなさい。私がどうにかする。……鐘を打つ要、流れる赤き鉄。失われれば落とし、満たされれば残る。流れ出た赤き鉄を、その器に注ぎ満たす」
急にどうしたのだと言う視線を向けると、のえるの胸に触れさせていた詩音の左手から複雑怪奇な魔法陣が現れる。
ゲームの中ならともかくリアルでこんなファンタジーな光景を見るとは思っておらずに固まっていると、どんどんのえるの顔色がよくなっていく。
一体どうなっているのだと目を白黒させていると、ぱちりと目を覚まして起き上がるのえる。
「お、起きて大丈夫なの?」
「……うん、平気みたい。貧血も治ってる」
本人も驚いているようで、目を丸くしている。
「増血魔術よ。うちに伝わる、秘術ね」
「そんなのあるなんて初耳」
「そりゃ教えてないもの。教えるつもりもなかったし」
だが今後確実に必要になりそうなので、時間がある時に教えてもらうことにした。
「今ので分かったと思うけど、詩乃はもうこれから一生吸血衝動と共生しないといけない。そしてその衝動は発生してから日が過ぎるごとに酷くなるから、できるなら衝動を感じる前に血をもらいなさい」
「具体的には、どれくらいに一回?」
「ご先祖様の手記によると、衝動を我慢できなくなるのは一か月かそこらへん。ちょっと血が欲しいな、程度のものだと二週間前後。だから、詩乃もできるならどんなに遅くでも二週間に一回は血を吸うこと。可能なら週一」
「週一かあ……」
先ほどのことを思い出す。
衝動に飲まれているので記憶は飛び飛びだが、それでも明確に思い出せる、のえるの声と吐息の熱さと体温。
耳元でずっと、囁くようにこぼれていた言葉と吐息。思い出すだけでぞくりと体が震える。その震えが、強い嗜虐心からくるものだと気付いて、頭を抱えそうになる。
「血は今度教える増血魔術でどうにかできるから、今後は吸い終わったら傷をちゃんと舐めなさい」
「ふぇ!?」
「なんで!?」
首を舐めている時の反応もなんでか強烈に記憶に焼き付いており、のえるは真っ赤になって舐められていた右の首筋を手で押さえ、詩乃は真っ赤になって詩音に噛み付く。
「そりゃ、今の詩乃の唾液には傷の再生作用があるから」
「あ、あぁ、そういう……」
「ちなみに……いや、これはまだ早いか」
「その切り方は気になるってぇ!?」
「……のえるちゃんに、唾液は飲ませないように」
「しないから!? どんな状況を考えてんのさ!?」
唾液を飲ませるとはつまり、そういうことだろう。
そんな進んだ関係じゃないのだからするわけないしできるわけないだろうと、恥ずかしいやら怒っているやらで感情がぐちゃぐちゃになり、頭がぐわんぐわんと揺れて涙目になる。
「そういうわけだから、今後はきちんと週に一回のえるちゃんから血をもらうこと。絶対に負担を賭けたくないからって先延ばしにしちゃダメ。下手すれば、のえるちゃんの命を奪いかねないから」
先ほどのことを思い出して、ゾッと背筋を震わせる。
さっきのだって、飢えと渇きが満たされてのえるに頭に手を置いてもらっていなければ、あのまま続けていたかもしれない。
詩音がいたので万が一、ということはなかったかもしれないが、この一回だけで楔のように詩乃の心に打ち込まれた。
説明を終えた詩音はお休みと言ってさっさと部屋から出ていき、詩乃とのえるだけになった。
「……寝る?」
「そう、だね」
「あ、でもまだ傷残ってる」
「へっ!? ……~~~!」
まだ牙を突き立てて噛み破った場所に穴が開いており、そこに指をそっと這わせる。
詩音が言っていた、今の詩乃の唾液には傷の再生作用があると。
完全に素面の状態でやるのはすさまじい恥ずかしさがあるが、やらないと傷が残ってしまうかもしれない。
そう思ってかちんと固まっているのえるの腰に手を回して、自分から近寄りつつ抱き着く。
「ま、待って待って待って!? いいから、そこまでしなくて大丈夫だから!?」
「ダメ。せっかくこんなに綺麗なのに、傷が残ったら大変だし」
「だ、だからって、こんな……こんな……!」
ぷるぷると体が震えている。それが自分のなのかのえるのなのかは分からない。多分どっちもだろう。
衝動に飲み込まれていたとはいえ、よくもまあのえるほどの美少女の首筋を舐めたなと暴走していた自分に叱責し、そっと傷に舌を這わせた。
体温が上がってじわりと汗が浮かんだのえるの肌は、やっぱりとても甘くて、ほんのりとしょっぱかった。
===
Q.これは百合ですか?
A.百合です
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