8-9
「これまで、どれほどあの男を観察してきたと思う? 必死に隠して……じつにわかりやすい」
カールは乱暴にアデリナを放り投げた。
背中を強く打ち、一瞬息が詰まる。
懸命に顔を上げると、醜悪な笑みを浮かべる男の表情がはっきりと見えた。
「ヴァルター様のお気持ちなんて私にはわかりません。……仮に最愛だったらどうなるのですか?」
恐怖で全身が震えた。
けれど、どうにか逃げる方法を考える。
血染めの薔薇による効果の大半は、すでに失われている。あの凶悪な魔法なしでは複数人を相手にできないからこそ、カールはアデリナを誘拐したのだ。
「敗残の身である私にできるのは、あの男の大事なものを奪ってやることくらいじゃないか……むごたらしく、辱めて……そして身体を切り刻んだら……ククッ、ハハハッ!」
「笑うな!」
アデリナは声を荒らげ強がるが、身体の震えが収まらない。
カールはその様子を見て、益々嬉しそうにするのだった。
「ハハハッ、これが笑わずにいられるものか! ……これから輝かしい王の道を歩むヴァルターに、真っ黒なしみの一つくらいは作ってやらねば死んでも死にきれぬわ」
すでに破滅を受け入れて、異母弟に苦しみを与えることのみを考えている男に勝てる方法が思いつかない。
それでも今は、とにかく逃げるしかなかった。
勢いよく起き上がり、一気に走り出す。
カールはすぐには追ってこない。血染めの薔薇の効力がほぼ失われていても、魔力切れ状態のアデリナを殺すことなど造作もないのだろう。
カールから複数の火球が放たれた。
一つは咄嗟に作った障壁が弾く。けれどもう薄氷程度の役に立たない強度になっている。
かわせなかった火球がドレスをかすめ、布を燃やす。
アデリナは地面に転がり消火を試みた。
炎の広がりが早く、なかなか消えてくれない。仕方なく枯渇寸前の魔力で燃えている付近の時間を止めた。
(もう……もうダメ……)
消火はできたが、ドレスの一部が焼け焦げて、太ももまで露わになった。
剣を振り回しながら、カールがゆっくりと近づいてくるのがわかったが、アデリナには逃げる力も小さな魔法を使う力もなかった。
「追いかけっこは終わりか? いい顔になったじゃないか」
心の中でヴァルターの名を何度も呼んだ。
けれど、声に出したらカールを喜ばせるだけだとわかっていたから歯を食いしばる。
この男はアデリナの顔を恐怖と苦痛で歪ませることを、破滅間際の目標にしているのだ。
「さて、仕上げとするか」
剣が振り下ろされる。
身を焼かれるような激痛が走ったのは、肩だった。
「あぁぁっ、くぅ……」
右腕が、じわじわと赤く染まっていく。
起き上がれずにいるアデリナの急所を突くくらい、カールには簡単だったはず。
わざと致命傷にならないように切られたのだとわかる。
「ひひっ、ひっ」
不気味に笑いながら、カールがまた剣を振り下ろす。
次に狙われたのは、太ももだ。
なにかで身体を貫かれる経験は、初めてではない。回帰前は確実に死に至る傷を負った。
けれどそれより浅い傷だからといって、到底耐えられるものではなかった。
敵を喜ばせるだけだとわかっていても、己を律することなどもうできない。アデリナは涙で顔を濡らしながら、のたうち回った。
「いいぞ、最高だ……! これでお揃いになったじゃないか」
誰と誰がお揃いなのか――痛みで朦朧としていた頭で考える。
カールが自分の肩の服が破れている場所に触れながら悦に入る様子で、ようやく理解した。
肩と太もも――それはこの男がヴァルターから攻撃を受けた場所だった。
「次はそうだな……そのドレスを切り刻んで……指を一本一本……」
剣を捨てたカールの手が伸びてくる。考えても、考えても、抵抗する方法が見つからない。
いっそ、気を失ってしまいたかった。
「ヴァルター様……たすけ、て……ヴァルター様……っ!」
カールが覆い被さってくる。
これからなにをされるのか考えたくもなかった。視界が絶望で真っ黒に染まった気がした。
「アデリナ……」
よく知った声が聞こえた次の瞬間、アデリナは重みから解放された。
(あぁ……ヴァルター様……)
しばらくのあいだカールの絶叫が響く。
よく知っている力強いヴァルターの魔力が感じられる。それは圧倒的な存在感があって、他者を威圧する。そして夜の闇みたいな冷たさと寂しさも感じられるものだった。
「……闇の……魔力……?」
ヴァルターが闇属性に転化しかけている。
その事実に気がついたアデリナの意識は急激に覚醒した。
すでにカールは気絶していて戦闘不能だ。
それでもヴァルターは攻撃を続けている。
彼の右手の付近に真っ黒な魔力の塊が出現していた。それを打ち込まれたら、カールに命はない。
「待って! ヴァルター様……待ってください!」
いまだ起き上がれないアデリナは全力で声を振り絞る。
幸いにしてアデリナの叫びは届き、ヴァルターが振り返った。
「……一瞬で終わらせる。少しだけそのままで……」
すでに髪も瞳も、闇色に変化していた。
焦りは痛みを緩和してくれる。先ほどまで起き上がれなかったのが嘘みたいだった。
どうにか立ち上がり、一歩、二歩、とヴァルターに近づいた。
「違います! そうじゃない……。王太子――カールには、きちんと刑を受けさせてください。ヴァルター様が手を下す必要はありません」
カールの罪は重く、死罪を免れるはずはない。
そうだとしても、罪が確定する前の気絶している人間の命を刈り取る行為は許されない。
ヴァルターはまもなく国王となるべき人だ。彼が法を遵守しなければ、いったい誰に守らせるというのだろうか。闇に落ちる可能性を常にはらんでいるからこそ、彼には正しい道を歩んでもらわないといけない。
「なにを言っているんだ……? アデリナ……。この男を庇うのか? 母の敵。何度も暗殺者を送ってきて……アデリナまで奪おうとした。情状酌量の余地などない……死ぬべき人間だ」
完全に我を忘れているみたいだ。
アデリナを救いに来たはずだが、守りたかったアデリナにまで殺意に似た殺気を向けはじめる。
「私怨で、その手を汚してはなりません……! この男のためではなく、ヴァルター様のために言っているんです」
近づくだけで押し返されそうな圧を感じた。
実際以前のアデリナは、不用意に彼に触れて傷を負ったことがある。
そのせいでヴァルターは、益々人に触れるのをためらい、心の距離まで作っていった。
闇色に染まった彼の行動を肯定したら、同じ未来しか得られない気がした。
そのままにしておけば昨日までのヴァルターが、少しずつ消えてしまう。
「……を、傷つける者はすべて排除しなければ……そうだろう?」
「誰を、傷つける者ですか?」
「アデリナを……守らなければ……」
名を呼びながらも、まるで別の場所にいるアデリナを思っているみたいだ。
彼に現実のアデリナがなにを思い、なにを望んでいるのかわからせる必要があった。
(……ヴァルター様のダメ夫! 歩くだけで血がにじみ出てくるんですけど……)
わざと致命傷にならないように傷つけられたとはいえ、手当てをせずに放置していたらそのうち死に至る重傷だ。
気を失いそうなくらいの痛みをこらえながら、アデリナはヴァルターに触れられる距離まで近づき、そしてグッと引き寄せてキスをした。
回帰してから初めてのキスだった。
それ以前も、結婚式のときわずかに重ねただけだ。
記念すべきファーストキスを、気絶した宿敵が足下に転がっている場所で捧げなければならないアデリナは、やはり不幸な娘だった。
どうせなら綺麗な花畑とか満天の星の下とか――そういう場所がよかったのだ。
「ア……アデリナ……」
ヴァルターが目を見開く。
「私を見て! 私の願いを叶えるのでしょう? 言うことを聞いてくれないと怒ります。今度こそ、今度こそ本当に……嫌いになりたいです」
「……嫌いに……?」
わずかに彼の感情が戻ってくる気配があった。嫌いになりたい――これまで幾度となく口にしてきたその言葉で、アデリナとの約束を思い出してくれたらいい。
「そうです。……闇に囚われそうになった場合、どうしろと教えましたか?」
「好きなもの……アデリナを想えば……」
「私は無事です。……私を心配するあまりにカールへの憎しみを増幅させては元も子もないでしょう。ちゃんと約束を守ってください」
ヴァルターに復調の兆しが見えはじめた途端、アデリナの身体から力が抜ける。背後にあった幹に寄りかかり、ずるずると地面にしゃがみ込んだ。
いつの間にか呼吸も荒くなっている。
もう限界が近いが、ヴァルターの髪と目の色が元に戻るのを見届けなければ、怖くて気絶することすらできなかった。
「こちらへ……私の近くに……来てください」
ようやく従順になったヴァルターがアデリナの目の前にひざまずく。
アデリナは怪我をしていないほうの手を伸ばして、彼の頭を撫でてあげた。
「楽しいことを考えましょうか? 怪我が治ったら……次のデートは……どこ、とか?」
「わかった……そうしよう。すまない……すまない、アデリナ」
わずかにヴァルターの髪の色が薄くなる。完全なる転化は防げたのだ。
「ヴァルター様は、謝ってばかり。……私がほしい言葉は……別ですよ……」
これまで何度彼の「すまない」を聞いたかわからない。
ひとまずの敵がいなくなり、彼の心に平穏が訪れたら、今よりもっとアデリナが望む言葉が聞けるのだろうか。
意識を失う寸前に、ヴァルターの魔力を感じた。
先ほどまでとは違う、光属性の暖かな気配がアデリナを包み込む。腕と太もも――途中から痛覚が麻痺していた気もするが、怪我をしていた場所が癒やされていくのがわかった。
「愛している……絶対に、幸せにするから。消えた私よりも……アデリナが知っている未来の私よりも、ずっと君を大切にする……」
重要な言葉を、眠る寸前にささやかれては返事のしようがない。
今度は起きているときに言ってほしいと切に願いながら、アデリナは目を閉じた。
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