8-6

 セラフィーナとリシャールによる一曲目のダンスが終わる。

 心からこのひとときを楽しんでいた二人の姿は、集まった紳士淑女を魅了した。

 曲が終わってもしばらくの沈黙が続く。皆、賞賛を送ることを忘れるくらい惚けていたのだ。


 アデリナが大きな音を立てて手を打ち鳴らすと、それに呼応してドッと拍手が巻き起こる。


 セラフィーナとリシャールがゆっくりと舞踏室の中央から離れていく。

 ここで本来なら、求婚者たちがセラフィーナのそばに集まり次のダンスを申し込むはずだが、それができない雰囲気があった。


 リシャールのリードが完璧だったからこそ、彼を超える自信がないと誘えないのだろう。

 結局誰からも声をかけられないまま、二人は舞踏室の壁際まで辿り着いた。

 このまま椅子に座り、しばらくの歓談となりそうだ。


「さあ、私たちも」


 今度はアデリナたちが踊る番だ。

 ヴァルターに手を引かれ、歩き出す。二曲目からは未婚の男女が中心となって大人数でのダンスとなる。

 二人もその輪の中に加わるのだった。


 曲の始まりと同時に、ヴァルターのリードでステップを刻む。

 いつ練習しているのかはまったくわからないが、ヴァルターもダンスがうまい。

 そして昔よりも、アデリナに対する気遣いを強く感じた。


 純粋にこの時間を楽しみたいアデリナだったが、妙な視線のせいでいまいち集中できずにいた。


(王太子殿下から殺気みたいなものが放たれているんですけれど)


 ターンをするたびに、憎しみのまなざしが向けられているのがわかった。

 頬杖をついて、脚を小刻みに揺らし、不機嫌であることを隠そうともしない。

 セラフィーナがリシャールと親しくなると、カールにとって都合が悪い。そしてヴァルターまでもが婚約者にほほえみかけ、仲むつまじくしている。

 そんな状況に苛立っているのだ。


「なんだか視線を感じますね」


「豊穣を祈る聖雨祭の夜にふさわしくない者の視線なんか放っておけばいい。ほら、アデリナ……私だけを見ていろ」


 ヴァルターの一歩がわずかに大きくなる。動きのあるステップに変わると、アデリナはついていくのに必死になった。

 ちゃんと腕前を見せろ、と言われている気がした。


(そういえば、これまで王太子殿下の前では私たちの関係を『政略による婚約』だとアピールしてきたけれど、もうやめたのね……)


 決戦の日は明日だから、演技の必要はないと考えているのだろう。

 急に肩の力が抜けた気がした。

 明日の保障がないからこそ、この舞踏会を楽しまなければならない。


 だんだんとヴァルターに合わせ、踊ることだけに集中するようになる。


(ヴァルター様……本当に楽しそう……)


 十二年一緒にいたのに、回帰してから初めて知った事実が多すぎる。

 以前のアデリナは、ヴァルターがこんなにも優しい表情ができる人だなんて、少しも知らなかった。

 先ほどはセラフィーナに、そして今はアデリナにその視線が向けられている。


 気づけばアデリナは、心から彼と一緒のダンスを楽しんでいた。

 こんな経験は初めてで、ずっとこの時間が続けばいいと感じている。


「ヴァルター様……」


 楽しい、嬉しい――そういう気持ちで満たされれば、負の感情が入り込む隙なんて少しもないはず。

 それなのに、胸のあたりがズンと重くなる瞬間がある。

 今のヴァルターが笑うたび、過去の寂しそうな彼の表情が浮かぶ。


 この感情は後悔だ。


 セラフィーナが亡くなるまでの半年のあいだ、アデリナがもっと婚約者に寄り添っていたら、回帰前の彼があそこまで追い詰められることはなかったのではないか。


 転化してからの彼は、アデリナがいつもそばにいたのに、孤独だった。

 そうなる前に、もっとなにかができたのではないか――つい、そんな考えが浮かぶ。


 やり直しを選んだのはヴァルター自身だ。

 アデリナが責任を感じる必要などないとわかっている。それでも、記憶を持っているからこそ同じ後悔はしたくないのだった。


 やがて曲が終わった。


「アデリナ?」


 気がつけば、涙で視界がにじんでいる。人前で感情が昂って抑えられなくなったのはいつぶりだろうか。俯くと目から水滴がポツリポツリとこぼれ落ち、青いドレスに吸い込まれていった。


「どうした? なにが嫌だった!?」


 ヴァルターはかつてないほど焦っている。

 そんな彼の姿を見ていると、また胸が苦しくなって自分でもどうしていいのかわからなかった。


「なにも、ない……です。嬉しくて……。ダンスが、楽しかったから」


 声が震えるせいで、強がりが伝わってしまう。

 ヴァルターはアデリナの腰を支えるようにして、ダンスの輪から抜け出した。


「こちらへ」


 舞踏室を出て、しばらく回廊を歩いて向かったのは、ひとけのないバルコニーだった。

 庭園のあたりに多少の明かりが灯されているだけで、周囲は真っ暗だ。

 ここでならいくら泣いても誰にも見られなくて済む。


 ヴァルターはハンカチを取り出して、アデリナの涙を必死に拭っている。

 表情すら確認できない暗闇でも、彼が混乱しているのが伝わってきた。


「まさか、足を踏んだか?」


「いいえ……」


「明日が、怖いか?」


「それは……少し、でも違います」


「だったら、なぜ泣いているんだ? ……大丈夫だ。アデリナを苦しめるものは……すべて私が……」


 壊す、と言いたいのかもしれない。それはとても危険な、かつてのヴァルターと同じ発想だった。


「違いますっ、それじゃダメなんです」


「アデリナ……?」


 アデリナは必死に考えた。

 後悔しないための道へ進むためには、どうしたらいいのだろうか。


「酷なことを言ってしまうかもしれません。……あなたの一部を否定しているのかもしれません……でも……」


「私を否定?」


 アデリナは頷いた。これはかつて好きだった人を貶める言葉だ。


「どうか、闇に囚われないでください!」


 闇属性もヴァルターの一部である。

 アデリナが好きになったのは、完全なる転化をしてからの彼だ。

 闇を抱えながらも、近しい者には優しさも見せていたあの人を否定しているみたいで心が痛む。

 それでも、アデリナは今のヴァルターがどうすれば幸せになれるのかを一番に考えたかった。


「アデリナ、それは……」


「私とヴァルター様……二人だけの世界があったらよかったのに。穏やかで、ヴァルター様を憎む者が誰もいない……そんな世界があれば、よかったのに」


 それなら、愛した人を否定せずにいられた。

 けれどあの力は、ヴァルター本人にも自覚があったように心を蝕み変えてしまう。

 たとえ聖トリュエステ王国に異端であると認定されなかったとしても、宿した者を生きづらくさせるのだ。


 圧倒的な破壊の力は、ヴァルターから確実に感情を奪う。


 アデリナは確かに彼に愛されていた。

 それなのに彼は、手遅れになるまで伝わらない愛し方しかできなかった。

 回帰して初めて、アデリナは本来の彼がそんな人ではなかったと知ったのだ。


「でもそんなのは不可能だから……お願いです……。私は、どうしても、ヴァルター様を守りたいんです」


 アデリナが守りたいものはたくさんある。

 両親や親しくしていたメイド、それから自分自身。回帰後はセラフィーナもその対象になっている。

 そしてヴァルターも間違いなく守りたいものである。


 意地を張って認めてこなかったが、本当は誰よりも優先して救いたい相手だった。


 アデリナは、自ら進んでヴァルターに抱きついた。

 胸に顔を埋めて、彼の鼓動を聞く。

 守りたい人が誰なのかをそうしていれば忘れない気がした。


「そうか……君を泣かせたのは……私なんだな……」


「違います、そうではなく……」


「いいや、私だ。前からわかっていた。苦しませているのも、悲しませているのも……全部、私で……それでも見放さずにいてくれるのが君だろう? 傷つけているのに、嫌いにならずにいてくれるのが君だ……」


 ヴァルターがアデリナの身体を包み込む。

 額のあたりに唇が落とされた。


「すべて……君の願うままに。アデリナがかつての私ではなく……今の私のそばにいることを選んでくれるのなら絶対に裏切らない。……必ず己を律してみせる」


「……はい」


「きっと大丈夫だ。君がいる限り、真の闇に呑み込まれはしない。……こんなにも温かいんだから」


 互いに離れがたくなり、抱き合ったままじっとしていた。


 アデリナはヴァルターの心が黒く染まらないようにするための灯火ともしびになれているのだろうか。

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