8-1 私が窮地に陥ると、彼が闇落ちするらしい

 二十六歳の王妃アデリナの杞憂は日に日に増すばかりだった。


 前の国王と異母兄カールを討った当初は認められていた闇属性が、急に異端だと認定されてからどれくらい経っただろうか。


 聖トリュエステ国の呼びかけで、周辺国は今、残酷な魔王ヴァルターを討伐するべきか否かを真剣に検討しているらしい。


 そんな中、マスカール王国のリシャール王太子の訪問があった。

 ほぼお忍びの非公式に近いかたちでここまで来たのは、正規の手順を踏んではいられないほど状況が切迫しているからだと推測できる。


「陛下、リシャール王太子殿下が訪ねてきてくださいましたよ」


「どうせ、説教でもしに来たのだろう。まぁ、いい……一応会うか」


 生真面目なヴァルターはこの日も執務室で国王の責務を果たしていた。

 最近、それまで順調だった内政にも問題が生じはじめていて、多忙なのだ。


 聖トリュエステ国の聖職者が急にヴァルターを異端認定した理由は、オストヴァルト王国の国力が増すことを警戒した周辺諸国からの要請があったからだ。

 この要請には多額のお布施――つまり、金が動いていると推測された。


 欲にまみれた聖職者たちの戯言をオストヴァルト王国が聞き入れる道理はないのだが、そうは思わない者も一定数いる。

 信心深い者の中に、異端の国王を暗殺しようとくわだてる者が出てきた。

 もちろん、ヴァルターはそんな輩に負けるはずもなく、敵は返り討ちとなる。


 国王暗殺は、未遂であっても重罪で、犯人が国の法によって裁かれるのは当然だ。

 けれどなぜかそのことが、ヴァルターが敬虔なトリュエステ教徒を虐げた魔王である証拠となるのだ。


 こちらは法を犯していないし、むしろ治安を乱しているのは敵側だ。

 けれどあちらは、聖職者の言葉に従い悪を討ち滅ぼそうとした者が哀れにも魔王に捕らえられたなどという主張をし、結果ヴァルターの罪が増えていく悪循環に陥っている。


 リシャールは、そんなヴァルターと聖トリュエステ国との妥協点を探るべく、交渉に来たのだ。

 彼との面会は、城内のサロンで行われた。


「ヴァルター陛下。お久しぶりですね。アデリナ妃も、お元気そうでなによりです」


 リシャールは茶色の髪にエメラルドみたいな瞳を持つ、物腰の柔らかい青年だ。

 ヴァルターよりは一つ年上なのだが、やや童顔であるため、いくつか年下に見える。

 いつも笑顔を絶やさない、明るい人柄で人望もあり、容姿も整っているという完璧な王子だった。


「ようこそ、リシャール王太子殿下。殿下もお元気そうでなによりです」


 アデリナは、差し出された手を取って握手を交わす。ヴァルターも無表情でそれに続いた。


「とりあえず、座って話そうか?」


 紅茶の用意が終わってから、すぐに本題に入った。


「ヴァルター陛下は、私の訪問理由を察しておられるのでしょうね」


「どうせあちらは、私が絶対に呑めない条件を提示してきているのだろう? わざわざ小間使いになるとはご苦労なことだ」


 リシャールが困った顔をして頷いた。


「私は、あちら側に与するつもりはありません。……ただ、争わずに済む道があるのならば示したいと思い、今回はお引き受けしたのです」


「で? 条件とは?」


「ヴァルター陛下がこれまで併合した地域を独立させることと、城内に捕らえられている敬虔なるトリュエステ教徒の解放……あとは、浄化の儀式を行うためのお布施……でした」


 ヴァルターは自ら進んで他国との戦に挑んだことはない。内戦で疲弊したオストヴァルト王国を侮り攻め入ってきたのは相手国で、それを許さなかっただけだ。

 そしておそらく、提示された和解案なるものの中で、ヴァルターが一番許せない条件は……。


「浄化……! 笑わせてくれる」


 一国の王を汚らわしい者だと認定して、浄化を行うという。

 ヴァルターが認められるはずのない条件だった。


 リシャールもヴァルターが屈するはずはないとわかっているのだ。敵側が示した条件を説明するだけで、説得するつもりはないみたいだ。


「陛下。……我がマスカール王国は貴国に協力することはいたしかねます」


「それは、賢明だと思うぞ」


 苦しげなリシャールに対して、ヴァルターはあっさりとしていた。

 ヴァルターとリシャールのあいだには、ほんのわずかかもしれないが友情がある。

 それでも友情のために自国の民を戦に巻き込むような真似はしない。リシャールは立派な次期国王だった。


「……ですが、あちら側にも正当性はないと我が国は考えております。中立という半端な対応しかできませんが、敵にはなりません」


 リシャールは正義の人だった。

 正しい発言をして、正しい評価が得られる彼に、このときのアデリナは嫉妬してしまった。もちろん、顔にも言葉にも出さない。

 ヴァルターも同じであったなら、どれだけ迷わずに自らが決めた道を堂々と歩んで行けたのだろうかと想像すると、少しだけうらやましくなったのだ。


「それで十分だ、リシャール殿」


 相変わらず無表情のヴァルターに対して、リシャールは最後までひかえめな笑みを浮かべていた。けれど来たときよりもどこか寂しげなのは、これが最後の語らいになる可能性を考えているからだ。


 紅茶を一杯飲むだけの短い時間の面会を終えて、リシャールは帰っていった。

 残ったヴァルターは、ソファに深く身を沈め、ぼんやりと天上を見つめていた。


「我が妃にたずねたいのだが、私の罪とはなんだ? 本当にわからないんだ」


「ございません、なにも……ございません」


 これは、アデリナの心からの言葉だ。

 かつて闇属性で大罪を犯した者がいたとしても、ヴァルターは罪を犯していない。

 ほかの属性の者であっても、罪人はいる。

 だったら、属性によって予防的に裁かれることなどあってはならないと本気で信じていた。


 アデリナはこれまで散々、敵を作るべきではないと彼を諫めてきたし、こうならない道もあったと信じている。

 どうして妥協ができないのかと、なんども彼を恨めしく思った。


 それでも、彼には罪がない。


「嘘だ、わかっている。闇属性に心を支配されていることだろう? 奴らの主張はまったくのでたらめではないのだろうな。強い力は心を蝕むものだ」


「陛下のお心のすべては……私にはわかりません。ですが、それでも言わせていただきます。どうか、和睦の道をお考えください。ご命令があれば、私があちらに出向きますから」


 ヴァルターが絶対に譲れない部分がなにか、わかっているつもりだった。

 すべてを受け入れるか、逆にすべてを突っぱねるかという選択をするのは外交ではない。

 交渉を拒絶するのは、あまりいい手には思えなかった。


 けれど、ヴァルターはただ首を横に振るだけだ。


「私が闇属性であり続けるのは死ぬまで変わらない。一度譲ってもその場しのぎで、何度も奪われ……国が弱体化するのが目に見えている。……次に起こるかもしれない戦は、間違いなくもっと厳しい条件になる」


「陛下……」


「王妃は、ここに。私のそばから離れることなど許さない」


 ヴァルターが立ち上がり、わずかに震えていたアデリナの手をそっと包み込んだ。

 いつからか触れることも触れられることもためらいがちになった彼が、そんなふうにするのはめずらしい。


 崩壊が始まっているのを知りながら、不思議と怖くはなかった。

 そして破滅に向かって歩んでいる予感がしつつも、彼から離れようとは思えないのだった。

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