7-7

 普段ならとっくに就寝している時間だが、その日のアデリナはなかなか寝付けず、ふらふらとバルコニーに出て、夜風に当たっていた。


(不覚にも楽しんでしまったわ!)


 時々雲に隠れる月を眺めながら、考えていたのはヴァルターのことばかりだ。

 闇属性を隠し持っていると知りながらヴァルターを恐れないアデリナに対し、彼は早くも執着している気配がある。


 アデリナのほうも、回帰前の望みが今ならばなんでも叶う気がして、だんだんとヴァルターを嫌いにならなければいけない理由が失われていることを強く感じていた。


「今度こそ……平凡で、穏やかで幸せな恋がしたかったのになぁ」


 ヴァルターはいつでもアデリナの心をかき乱す。

 内戦が起こらなくても、きっと彼と歩む道は波瀾万丈だ。やめておいたほうがいいと、常識人の心が警告しているのに、拒絶ができない。


 夏が近づいているとはいえ、夜は冷える。

 少し寒さを感じたアデリナは、部屋に戻ろうとしたのだが……。


「蝶? どうして光って……」


 光をまとう蝶がヒラヒラと舞い、バルコニーの手摺りに止まる。明らかに普通の蝶ではない。おそらく魔法でできているのだろう。


『アデリナ』


 気配から察しはついていたが、ヴァルターの声が聞こえた。

 あたりを確認すると、建物の東側で手を振っている人影が見えた。暗闇で、しかもかなりの距離があるために顔はまったく見えないが、ヴァルターなのだろう。


「こんな魔法は初めて見ました。綺麗……」


 蝶に向かって話しかける。


『風邪を引くし、身体のラインがわかる寝間着のまま外に出るのはダメだ。夜間も時々、私の配下の者が巡回しているのだから』


 彼はどれほど目がいいのだろうか。

 こちらからは人がいるのがようやくわかる程度だが、あちらからは丸見えという状況には抵抗を感じる。

 アデリナは寝間着をギュッと掴んで、ヴァルターがいる方向に背を向けた。


「わかりました! 部屋に戻ります」


『いや、そちらに行ってもいいか? 話がある』


「……今日、たくさんお話しましたよね? 婚約者でも夜中の密会はいけません」


『……』


 蝶からの返事はない。

 断りの言葉が聞こえているのに無視したのか、それとも魔力が途切れたのかはわからない。

 光の蝶はパンッと弾けて、花火みたいに消えてしまった。


 しばらくすると、部屋の扉が開く音がして、ヴァルターが姿を見せた。

 彼は一切ためらうことなくバルコニーに近づいて、アデリナの肩に上着をかけた。


「ダメって言いました!」


「すまない、聞こえなかった」


 かなり白々しい言い方だった。彼は最初からアデリナの許可など取る気がなかったのだとわかる。

 どうせ居座るつもりなら、アデリナには止める方法などないのだ。無駄な体力を使わず、彼に合わせたほうがいい。


「それで、話とは?」


「時戻しの魔法について聞いてから、ずっと考えていたんだ」


「なにをですか?」


「アデリナが私に復讐する方法」


「……はい?」


 復讐という発想は、アデリナにはなかった。

 ぶん殴ってやろうとか、今度こそ好きになんてなるものかとか、その程度の思いしか持ち合わせていない。


「私にその記憶はないが、君には復讐する権利がある」


「言われてみれば、そうかもしれませんが」


 そうは言ったものの、アデリナは彼を憎んではいない。

 だからこそ自分ではまったく思いつかない復讐の方法に興味が湧く。


「私はこれから益々君を好きになるだろう。引き返せないくらい……好きになる。それから、アデリナの理想の王子様になるべく、生まれ変わろう」


「王子様が好きなわけじゃ……」


 心が二十八歳のアデリナは、自分が無意識に口にしてしまった「王子様」という言葉を、今、とても後悔していた。

 ヴァルターはそんなアデリナにかまわず話を続ける。


「……アデリナのために改心して、カールとの戦いが終わったら今以上に君のために尽くす理想の婚約者になる」


「困りますよ! 第一、ヴァルター様は伯爵家の婿になるつもりがないですよね? すべてが終わったら婚約解消ですっ! もう、絶対、絶対に意地でもしてやります」


 伯爵家を共に支えてくれる者を伴侶とすべきアデリナは、臣に下る選択をしないヴァルターとは結ばれない。

 それに復讐の話はどうしたのだろうか?

 復讐どころか、二度目のこの世界でも夫婦に――今度は真の夫婦になってしまいそうだ。


「伯爵は善良な人みたいだから、君が望めばいくらだって方法はあるはずでは?」


「それは……まぁ……」


「親戚から跡取りとなる養子を迎え入れることくらいはするだろう」


「そうですね、私が望めば……」


 それは社交界デビュー前に父から聞かされていた。

 もし好きになった殿方が、貴族の跡取り息子であったら、その人を選んでかまわない、と……。そうなったとしても、他家との人脈ができて、クラルヴァイン伯爵家の利益になるはずだと言っていた。

 両親は将来アデリナとその婿がクラルヴァイン伯爵家を守っていく未来を望んでいたが、娘に選択の余地も与えていたのだ。


「……結局、ヴァルター様が私に優しくなんてしたら、私はどうやって復讐をすればいいんですか? 全然わかりません」


「だから、君に尽くし、君のために変わる努力をした私を……捨てるんだ」


「はぁ?」


 思わずまぬけな声が飛び出した。


「私が君を想い、政略的な障害もない。……結ばれない理由は、君の気持ちが私にないから……という状況を作りだす」


「なに、言って……」


「そのほうがより完璧な復讐になるだろう。もし、君が本気・・で私を嫌いだと言ったら、身を退く覚悟はある……たぶん……」


 回帰前の人生でも、今の人生でも、アデリナの苦労はすべてヴァルターが元凶だ。

 それでも隣にいることをやめられなかった。そんな相手が、これからは本気を出してくるという。

 そして、本気をはね除けてみろと言っているのだ。いくらなんでも無茶苦茶だ。


「私は何度もあなたのことが……嫌い……だと、言いました! ダメ夫だって言いましたよ」


「嫌いだなんて本気で言っていないはずだ。嫌いになりたい、だろう? 大きな差異がある」


 ヴァルターが急にアデリナの手を取った。


「逃げてごらん」


 その場でひざまずいた彼は、ゆっくりとアデリナの手を自分の近くに引き寄せる。


(この人、私が逃げ切れるなんて、まったく思っていないじゃない!)


 手に力を込めて抵抗するが、叶わない。

 けれどそれは、圧倒的に力の差があるからではなく、アデリナが全力を出していないからだ。


 ヴァルターの唇がゆっくりと手の甲へ近づいていく。

 結局アデリナは彼の体温を直接感じても、なんの行動も起こせなかった。


「そんなんじゃ、すぐに捕まりそうだな」


 短いキスのあと、ヴァルターが顔を上げる。月明かりしかない場所でも悪い笑みを浮かべているのがわかった。


(ま、負ける……。今、この瞬間に……もう敗北が確定しているじゃない!)


 彼はいったいどれだけアデリナを翻弄するつもりなのだろうか。

 やっぱり腹は立つものだから、アデリナは挽回する方法をどうにか考えた。


「……だったら、私がほかの誰かを好きになるための行動を、邪魔しないでくださいますか?」


 アデリナが彼を唯一だと思っているのも、恋愛経験が乏しいゆえの思い込みかもしれない。それは彼も同じで、彼を取り巻く環境が平穏になれば、もっと周りに目を向けるようになる可能性は大いにあった。


「心は自由だ、心は」


「身体は自由じゃないと?」


「身体も自由だろう。品行方正なアデリナが、婚約者がいるのにほかの男と親しくできるのなら……自由だ」


「卑怯です!」


「そう、卑怯なんだ。……アデリナ、私を嫌いになれ」


 こんなふうに笑う彼をアデリナは知らない。

 嫌いになれという言葉の裏に、離さないという意思を感じた。


「とりあえず、ものすごく! ものすごく! 嫌いになりたいです。そろそろ帰ってください」


 これは勝負だ。持ちかけられた初日からの完全敗北を恐れ、アデリナはとにかく彼を追い出すことにした。


「最後にもう一つだけ」


「まだなにかあるんですか?」


 ヴァルターはようやく立ち上がるが、手はずっと握ったままだった。


「白い結婚について、あの夜から、私なりに調べていたんだが……」


 あの夜というのは毒蛇事件のあとに、アデリナが回帰を告げたときを指すのだろう。


「未来の話をどうやって?」


「そうではなく、過去の闇属性の者についてだ」


「そ、そうでしたか」


「闇属性は遺伝しない……というか、子孫を残した記録がない」


 闇属性は有史以来、ずっと禁忌とされてきたわけではない。むしろ戦乱の世に実在した英雄の何人かがその状態だった可能性が高い。

 もちろん忌み嫌われるに至った理由もちゃんとある。

 過去、一国が滅びるほどの厄災をたった一人で引き起こした者がいたのだ。


「私の勝手な考えだが、闇属性というのは属性の一つではあるのだが、感情の爆発がきっかけになって、人の器からあふれ出てしまうくらいの魔力を宿すに至った状態でもあると思っている」


「……確かに回帰前のヴァルター様もそれに近いことをおっしゃっていました」


「白い結婚となったのは、間違いなくその影響だ。……少なくとも今の私は確実に違うと言い切れる」


 それは、二十歳の青少年らしい欲望を抱いているという意味だった。


 彼の主張はおそらく間違っていない。

 結婚当初から、後継者は不要だと言い切っていたし、真の愛情を心に宿せない人だということはアデリナもわかっていた。


 彼はアデリナに対してだけではなく、家臣にも同じ宣言をしていた。

 けれど心ない者がいて、ヴァルターが愛情を持てないのは、アデリナの魅力が足りないせいだと言って責めた。


 アデリナは、ほかの女性を妃に迎えても状況が好転しないという確証を持てなかった。

 そしてヴァルター自身にも、証拠を示せるものではなかったはずだ。


 アデリナが知らなかったのは、闇属性に囚われる前のヴァルターのほうだ。自信を持って「確実に違う」と言い切れるのは、実際に邪な感情を抱いているからだ。


「……だったら、余計に……今すぐここから出ていってください!」


 身の危険を感じたアデリナは、本気でヴァルターを強く押し、距離を取った。

 ヴァルターは名残惜しそうにしながらも、今度は大人しく出ていった。


「上着……借りたままだったわ」


 彼ももう眠るだけだろうし、明日にでも返せばいいだろう。

 アデリナは窓を閉めてから、ヴァルターの上着を抱えたままベッドに倒れ込んだ。


(あぁ……ついに理由が全部なくなっちゃった……)


 数々の誤解が解けて、ヴァルターが努力をしてくれるのなら、もう別の恋を探す理由は失われている。


(だったら、この先も……ヴァルター様には光属性のままでいてもらわなきゃ……)


 アデリナは闇属性が悪だとは今でも思っていない。

 ヴァルターが言ったように人の器で受け入れられないほどの魔力を身に宿した状態が闇属性ならば、人が到達してはならない領域だ。

 彼の身体を蝕み、心さえも変えてしまうのなら、完全なる転化は避けるべきだと強く思う。


 結局アデリナの幸福はヴァルターの平穏なくしては成り立たない。

 きっと回帰したあのとき、二人の魂は溶け合って、もうどう足掻いてもその繋がりは消えない状態になってしまったのだ。

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