5-5

「来るな!」


 ハァ、ハァ、と荒い息づかいが聞こえた。

 ヴァルターは木の幹に寄りかかり、ズルズルと座り込む。


「……闇に囚われそうなのですか?」


 ここで怯んでも事態は好転しない。


 セラフィーナみたいに憤りを表に出すことはなかったが、ヴァルターも毒蛇を放った者に憎しみを抱いていたのだ。

 心が闇の方向へ傾いている状態で、回帰前にはしなかったはずのアデリナへの治療のために光属性の魔力を消耗したら、本来とは別のタイミングで完全なる転化に至る可能性が排除できない。


 アデリナにはヴァルターの心を静める義務があるのだ。


「なぜ……それを……」


 問いに答える前に、アデリナは魔法を使った。


「音を遮断する魔法をかけました。セラフィーナお姉様と闘ったときみたいに完璧に空気を閉じ込めているわけではないので、窒息の心配はありません」


「なぜ……知っているのかと聞いている!」


 声色だけで、苛立っているのがよくわかる。


(いいえ……私を恐れているのかも……)


 これはいよいよ懐かない野良猫に対峙しているのと同じになってきた。

 彼は少なくとも、敵ではない者を故意に傷つけたいとは思っていないはずだ。アデリナはひたすらに自分が味方であることを説いていくしかないのだろう。


「その話をすると、とても長くなるんです。……とりあえず、今は……私の言うことを聞いてください!」


 アデリナは、闇属性の力そのものは恐れていない。

 ただし、制御不能の力はどんな属性であっても怖い。それでも守人は最善と思われる行動をするしかないのだった。


「闇属性は、発現のきっかけとなるのが負の感情ではないかという説があります」


「聞いたこともない……誰が言ったんだ、そんな説……」


 それは転化したあと、自身の経験に基づいたヴァルターの仮説だった。今の彼が知らないのは当然だ。


「誰でもいいじゃないですか。騙されたと思って、好きなものについて考えてみてください」


「好きな……」


「チョコレートでも、クッキーでも……ここにあるマフィンでもいいですよ」


 アデリナはバスケットに入っていたマフィンを一つ差し出してヴァルターに押しつけた。甘い香りが癒やしになってくれるだろうか。


「なんでマフィンなんて……今、持っているんだ……」


「とてもお腹が空いたので、厨房から拝借したんです。さあ、食べてください」


 これは青の館の料理人が作ったものだが、毒が入っていないことを示すために、まずはアデリナが手本を見せる。


「ほら、甘いものを食べると心に余裕が生まれますよ」


 訝しげな視線を向けながらも、ヴァルターはマフィンを口に運んでくれた。

 まだ呼吸は荒いままだが、眉間のしわが取れていくのがわかった。


「好きなものについて考える。……それは人でもいいのか?」


 マフィンを半分ほど食べたところで、ヴァルターがじっとアデリナを見つめてきた。


「もちろんです。あ……でも、好きな人の笑顔とか、いい思い出とかそういうものに限りますよ。好きな相手を守りたいという気持ちは……負の感情を抱くきっかけになりやすいので」


 例えばセラフィーナが大切で、彼女を守りたいと思うところまではよくても、だからカールを排除しようと画策し始めると、それはもう負の感情だった。


「セラフィーナお姉様が今日も麗しいとか、罵詈雑言すら可愛いとか……そういうことを想像してください」


「……なぜ、セラフィーナなんだ……?」


「例えば、の話です」


 これはアデリナが迂闊だった。

 ヴァルターは二十歳の青年だから、他人から妹至上主義について指摘されるのは恥ずかしいだろう。

 精神的に大人であるアデリナが察してあげるべきだった。


(でもヴァルター様の好きな方って一人しかいないんですけど……)


 アデリナは彼の横に座り、マフィンを食べることにした。

 妙に視線を感じるが、きっとまだ完全には警戒を解いていないのだと思い、気にするのをやめた。


 一つをヴァルターにあげてしまったので量が減ったが、ひとまず空腹でつらい状態からは脱する。隣で同じようにマフィンを口に運んでいたヴァルターも食べ終わったようだ。


 それからすぐにヴァルターはアデリナの肩に寄りかかった。


「あの……重いんですが!」


 不適切な距離に、アデリナは警戒した。

 いまだに彼を嫌いになれる気配はないが、完全に抵抗をあきらめているわけではない。

 これはアデリナ自身の葛藤であり、闘いだった。


 ヴァルターがかつての婚約したての頃と違う態度を見せたら、絆されてしまいそうで恐ろしい。

 未来を変えるために彼からの信頼を得ようと動いたのはアデリナだから、二人の距離が近づいたことを否定もできない。


 結局、すべての矛盾の根源は三十二歳のヴァルターで、憤りをぶつける相手がいないのだった。


「病人だから」


「はい?」


「アデリナが困るから……などという理由で行動を改める必要はない」


 数時間前の言葉を真似て、彼はアデリナの肩を枕にし続けるつもりだ。


(あぁ。本来の純粋だった頃の私がこんなことをされていたら……だいぶ危険だったわ。今は、なにかしら……? ちょっと腹が立つ……)


 けれど、アデリナの心の中を占める感情はそれだけではないのだった。

 セラフィーナの影響なのか、アデリナもだんだんと屈折した人間になりつつある。


 しばらく黙ったまま、木々のざわめきを聞きながら、肩のあたりから伝わるぬくもりを感じていた。

 そして肩に痺れを感じはじめた頃になって、ようやくヴァルターがどいてくれた。


「少し、落ち着いてきましたか?」


 息づかいからわかってはいたが、アデリナは一応たずねてみた。


「あぁ、こんなに早く脱したのは初めてだ……」


「それはなによりです」


 闇属性に呑み込まれそうになったときの対処法を教えたことで、アデリナはまた一つ彼からの信頼を得られたのだろう。

 約五ヶ月――運命の日も迫っているため、このあたりで彼とは話し合いをすべきだった。


「アデリナはいつから知っていたんだ? 私が恐ろしくないのか?」


「力を暴走させる方は恐ろしいです! ですから、どうにか制御していただけると助かります。そしていつから知っていたか……という質問ですが……」


 信じてもらえるのか、正直わからない。

 それでも話す意味はあるはずだ。


「私がヴァルター様の秘密を知ったのは……あなたと婚約するより前です」


「そんなはずはない! ただの伯爵令嬢である君に情報がもれているのなら、私はとっくに……」


 今の――大した力を持っていないとされているヴァルターがじつは闇属性であるという事実が判明すれば、早々に聖トリュエステ国から異端認定されて、幽閉の身となってしまうだろう。

 回帰前の彼がそうならなかったのは、闇に目覚めた段階で下手に手出しができないくらいの圧倒的な力を見せつけたからだった。


 周囲が警戒し表立って非難できないうちに、血染めの薔薇の件で功績を上げて「悪である」と気軽に断罪できない雰囲気を作り出したのだ。


「いいえ、それでも事実なんです。長い話になりますが、聞いていただけますか?」


「……ああ」


「では……ヴァルター様がダメ夫になる未来の話を聞いてください!」


「……ダメ夫……だと?」


 アデリナはにっこりとほほえみ、これまでの経緯を彼に伝えた。

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