5-4

 すぐに眠気に襲われて、次に意識が覚醒したときには部屋が真っ暗になっていた。


「起こしてしまったか?」


 どうやらヴァルターがオイルランプをつけようとしていたみたいだ。

 きっと、わずかな物音と気配を察して目が覚めたのだろう。


「もう……夜、ですか?」


 カーテンの隙間から光が差し込んでこないのだから、たずねるまでもない。

 当たり前のことを聞いたのは、まだ観劇にこだわっているからだ。


 倦怠感や頭痛はほぼ消えている。

 それでも、ベッドから出て活動できるほどではなかった。

 結局、回帰後の世界でも観劇にはいけなかった。


「……ああ、夜の九時だ。目が覚めたときに真っ暗だと恐ろしいかと思ったんだが、余計なお世話だったかもしれない」


「いいえ……明かりというより、目覚めたときに誰かがいてくれてよかったです」


「ならばいい」


 ヴァルターはベッドサイドにオイルランプを灯してから出ていこうとする。

 気づけば、アデリナは手をめいっぱい伸ばし彼の上着を掴んでいた。


「あの、ヴァルター様! せっかくチケットを手に入れてくださったのに……ごめんなさい」


「あんなもの、いつだってかまわない。大したものではないのだから」


 その言葉はなぐさめにはならない。むしろ逆効果だった。

 チケットではなく、アデリナとのデートが大したものではなかったという意味に感じられてしまう。


「でも……初めての……私、行きたかった……本当に、絶対に……行きたかったんです」


 だんだんと、嗚咽が我慢できなくなっていった。


 彼とセラフィーナの立場が揺るがないものになったら、簡単に婚約は破棄できる。

 それは論理的に考えて正しい。けれどアデリナ自身、そうなることを心から望んでいるのかわからなくなっている。


(せっかく……やり直しているのに……)


 過去の誤解が解けるたびに、互いに本心を語り合っていればあったかもしれない未来を望む心が抑えられなくなっている。


「アデリナ、まだどこか痛いのか!?」


「観劇に行けなかったことが悲しくて……泣いているんです!」


 突然『守人』の役割を押しつけられたときですら、アデリナは泣かなかった。

 ヴァルターと過ごした十二年の日々でありとあらゆる苦労をし続けて、面倒な感情を隠すことがうまくなっていた。


 不機嫌になったり憤ったりという感情は王妃に必要だった。

 ヴァルターの妻として不要だった思いは、嫉妬や期待や甘え、わがままだ。決して感情を失ったわけではないけれど、いつの間にか聞き分けのいい人間になっていた。


 けれど過去の失敗から、従順でいても幸福な未来などないと知っている。

 だったら、多少わがままでいてもいいはずだ。


「泣くな……どうしたらいいのか……私にはわからないから。泣くな」


 ヴァルターは無理矢理離れることはせず、ベッドの端に座る。


「私、病人なんです。ヴァルター様が困るから……などという理由で泣き止む必要はないはずです」


「……なるほど、一理ある」


 ヴァルターは手を伸ばし、アデリナの頭をポンポンと撫でた。

 どうしたらいいかわからないと言いながら、彼は誰かをなぐさめる方法を知っている人だった。



   ◇ ◇ ◇



 アデリナが泣き止むとヴァルターは部屋を出ていった。

 まだ身体のだるさは残っていたがもう眠ることはできず、しばらく本を読んで過ごす。

 一冊読み終わると、真夜中になっていた。


「お腹が空いたな……」


 部屋に水は用意されているが、そういえば昼食以降なにも食べていない。

 症状があるうちは食欲がなかったが、改善されていくのと同時に、食欲も湧いてきた。


 アデリナは寝間着の上にガウンを羽織って、そっと部屋を抜け出す。


 二人の主人と最低限の側仕えしかいない館の夜は静かだった。


(厨房に行っても誰もいないけれど……お菓子や果物がある場所は知っているし、少し拝借しましょう)


 お茶の用意をするときに出入りしていたので、勝手は知っている。

 料理人を起こすよりも、なにか食べ物をいただいて事後承諾をもらうほうが効率的だ。


 そう考えたアデリナは、住人たちを起こさないように注意をしながら目的の場所へと向かった。


(うぅ……なんだか悪いことをしているみたい。……でも……完全回復には栄養が必要だから……)


 アデリナはお茶の時間に出される焼き菓子などがしまわれている木製の棚の中を確認する。料理長手作りのマフィンがあったため、それを二つ拝借し、バスケットに入れて厨房を出た。


 しばらく薄暗い廊下を歩いていると、エントランス方向から音がした。


「……ひっ!」


 毒蛇が放たれたばかりで、日に何度も襲撃があるとは思えないが、約五ヶ月後のセラフィーナ暗殺まで安全である保証はないのだと学んだばかりだ。


 使用人の誰かか、夜間の警備をしているヴァルターの部下であることを祈りながら、アデリナはエントランスの方向へ急ぐ。


「……ヴァルター様?」


 ちょうど扉が閉まる寸前、ちらりと短めの銀髪が見えた。

 窓の外を眺めると、フラフラとした足取りで明かりも持たずに歩く人影が、庭の奥の林へと消えていくのが確認できる。


(まさか……転化の兆しが……?)


 アデリナが毒の影響で苦しんでいるときのセラフィーナの言葉がすぐに浮かぶ。

 光属性の魔法を使いすぎることを、彼女は不安視していたのだ。


 アデリナは、属性が中途半端な状態のヴァルターをよく知らない。

 ただし、完全に転化したあとも力を持て余し、それでも呑み込まれまいと足掻いて、苦痛と闘っていたことは知っている。


 今もきっと苦しんでいるのだ。


 ずっと隣にいることくらいしかできなかったが、それでもいないよりはよかったはずだと信じたい。

 そう考えて、アデリナは庭に出て彼の気配を探った。


「誰だ……」


 木々が生い茂る方向から、低い声が聞こえた。


「ヴァルター様……アデリナです」


 ほかの者に知られたらまずいと認識していたため、アデリナは心を落ち着かせ、小声で名乗った。

 互いのシルエットがわかる位置まで近づき、そこで一度立ち止まる。


「アデリナ……か……。少し……外の空気を吸いたくなっただけだ……病人が……それ以前に若い女性が……夜中に館を飛び出すなんて……」


 途切れ途切れの言葉は、彼が苦しんでいる証拠だ。

 猶予がないと知ったアデリナは、ためらわずゆっくりと歩みを進めた。

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