第31話 屋敷への訪問者
屋敷に帰り着いて、バーナードの手を借りて馬車を下りる。
言葉少なく見つめ合うと、星明りの下、バーナードはわずかに乱れたチェリーの前髪を指で梳くようにして整えた。
御者をつとめてくれたジェドとバーナードが二、三言葉を交わしている間に、チェリーは夜風に草木のさやめく前庭を歩き出す。
本当はバーナードにエスコートされて帰った方が良いのかもしれないが、意識しすぎてうまく話せる自信がなかった。
(唇に、まだ感触が残ってる気がする……)
手袋をはめた指先で唇をなぞりそうになり、汚してしまうと我に返る。もっとも、口紅はもう残っていないかもしれない。
狭い馬車の中で、最初は控えめに。やがて口紅が落ちるほどに、何度も繰り返し口づけをした。「自分で座れますので、もう離してください」とチェリーが控えめに願い出ても、バーナードはチェリーを膝に抱いたまま決して離そうとはしなかったのだ。
耳をかすめる、甘い囁き。熱っぽい吐息。
話す言葉も手つきも優しいのに、気を抜くといまにも頭から食べられてしまいそうな危うい雰囲気に、ドキドキしっぱなしであった。
家に着くまでにもっと時間がかかっていたら、馬車があれほど狭くなければ。
今頃、どうなってしまっていたのか、わかったものではない。
「顔が熱い……」
涼しい夜風にほっと息を吐き出しながら、ドアの前に立つ。
その横に、背後から追いついてきたバーナードが立った。肩が軽くぶつかっただけで、チェリーは心の中で「わあああ」と叫んだ。
「お疲れ様。お腹すいているよね? 食事は終わっている時間帯だろうから、今日こそ俺が何か用意するよ」
「あっ……はい……でも、お疲れなのはバーナードさんもですよね」
薄暗がりの中、ふわりと微笑みだけで応えられて、心臓が忙しい。
目を伏せてやり過ごそうとすると、身をかがめてきたバーナードが耳元で囁いた。
「今晩は、この後も長いかもしれないから……」
息が止まり、心臓は破裂する寸前だった。足が震えて、その場に崩れ落ちそうになる。
不意に。
間近な位置でどかんと大きな音が響き、ドアが開いた。
「良かった……! チェリーさんが帰って来てくれて、もっと遅いと思っていたから。いますごく困っていて……!!」
飛び出してきたキャロライナが、そのままの勢いでチェリーの手をひしっと掴む。
「どうしたの?」
キャロライナは目に涙を浮かべており、焦りすぎて口が回らないことに本人が一番もどかしそうな顔をしながら、まくしたてるように叫んだ。
「ノエルが熱を出しているの……! とても苦しそうで、どうして良いかわからなくて。お願い、助けて!!」
* * *
着替えを済ませ、バーナードの用意してくれたスープを自室の小さなテーブルで口にして、チェリーはようやく人心地着いた。
チェリーの部屋のベッドには、眠るノエルが横たわっている。
「寝ずの番をするつもりなら、俺が代わる。君は休んだ方が良い。今日は疲れているだろう」
外出着ではなく、家用のシャツを身に着けたバーナードが、まくり上げていた袖を戻しながら声をかけてきた。
チェリーは「スープ、とても美味しかったです」と笑顔で答えてから、続けた。
「私は慣れているので、バーナードさんは気にせず休んでください。キャロライナさんにも休んでもらったので、明日の日中は少し看病を代わってもらえると思います。バーナードさんはお仕事がありますよね?」
「だが……」
「もし急に、馬車を出したりお医者様を呼ばなければいけない状態になりましたら、遠慮なく起こさせていただきます」
スープボウルを小テーブルに置くと、チェリーは立ち上がってバーナードの元へと歩み寄った。
「今日は本当に、お疲れ様でした。素敵な思い出ができました。どうもありがとうございます」
どうあってもチェリーは譲る気がないらしいと察したらしく、バーナードはそこで折れたようだった。肩をそびやかしながら、息を吐き出す。
「せっかく君にあんな場所まで付き合ってもらったのに、美味しいものを食べさせ損ねた」
「スープを作って頂きましたから」
美味しかったですよとチェリーが笑いかけると、バーナードは両腕を伸ばしてチェリーをそっと抱き寄せた。額や前髪に口づけを落として、穏やかな声で言う。
「困ったことがあったら本当に、遠慮なく起こしてくれて良い。今日のところはノエルをお願いするとして、君も休めそうなら休むんだよ。ノエルは最近はずっとキャロライナのところだと聞いているが……。あちらの部屋に戻すにしても、数日して、病状が落ち着いてからだね」
「そうですね。キャロライナさんにとても懐いているので、寂しがるかもしれませんが。ひとりで寝させるとしたら、何歳くらいからなのでしょう」
いつまでもキャロライナさんと一緒はいけませんよね、とチェリーが呟くと、バーナードが頭上で笑う気配があった。
「まだ小さいからね。あと一、二年はいいのかな。君と俺が寝室を一緒にするとしたら、ノエルには遠慮をしてもらうことになるから、ひとりで寝させる訓練も必要になるかもしれないが。俺は何歳からひとりだったかな……」
呟きながら、チェリーを抱きしめる腕に力を込めてきた。
チェリーは心の中で「一緒の寝室に!?」と焦りのままに叫んでいたが、ひとまずバーナードの背に腕を回す。
やや時間を置いて、どちらからともなく体を離した。
「それじゃ、おやすみ。本当に無理しないで。君まで倒れたら大変だ。朝食は俺が用意するから、明日の朝はゆっくり起きて大丈夫だよ」
それだけ言うと、名残惜しそうにチェリーの唇に口づけて、バーナードは部屋を出て行った。
* * *
「子どもというのは、どうしてもいけないタイミングで熱を出すものです。あなたもそうでしたよ」
翌朝、朝食前に受け取った電報を食堂でバーナードへ渡しつつ、ヘンリエットがいつもながらの淡々とした口ぶりで言った。「ノエルは大事がないようで、何よりでした」と独り言のように続ける。
印字された紙に目をすべらせてから、バーナードはヘンリエットへと顔を向けた。
「この件は、急ぎの出立になりますね」
「相続の手続きもありますし、もしものときは葬儀の仕切りもあなたに任せたいという申し出です。生きているうちに間に合わせるなら、早く出た方が良いでしょう」
ノエルはキャロライナに任せ、バーナードの配膳を手伝っていたチェリーは、陶器のポットを手にしたまま不安に駆られて二人の様子を見つめる。
すぐに気づいたバーナードが、申し訳なさそうな顔で説明をしてきた。
「母の生家であるリスター伯爵家で、お祖父様が危篤とのことだ。明日にでも俺と母で向かうが、ノエルの熱のこともあるし君やキャリーには留守を任せることになる。十日くらいは……屋敷を空けることになるかもしれない」
馬車で往復数日かかるリスター伯爵家の所領へ、体調の悪いノエルや元々体の弱いキャロライナが同行するのは無理がある。
二人が屋敷に残る以上、チェリーが一緒に留守番をするのも、自然な流れであった。
「気を付けて行ってきてくださいね。戸締まりをして、お待ちしています」
チェリーが神妙な顔で告げると、ヘンリエットが「今日のところは、まだ出ませんよ」と横から口を挟んだ。
「念の為、お医者さまに来て頂きましょう。ついでに、街で旅支度に入り用のものを揃えてきます。バーナードと私で、これから少し出てきますよ」
バーナードがその言葉を「ついでにノエルにお菓子を買って来るって」と言い直し、チェリーの笑いを誘った。
それから、少しだけ心配そうな顔になって続けた。
「昨日、夜会で途中退席した件もあるし、俺がいない間に誰か訪ねてくるかもしれないけど、君が相手をする必要はない。家に上がり込まれてしまうと厄介だろうから、ドアも開けなくていい。失礼だなんだと言われたら、当主に直接言え、出直して来いと追い払ってしまって構わない。相手の身分も気にするな」
果たして、そこまで強気に出られるかと危ぶむ気持ちもあったが、まさにこの家には女子供しかいない状態になるのだ。そのくらいの気構えが必要なのかもしれない。
わかりました、と会話を終えて以降は、急に忙しくなった。
昼前に馬車を出して街へと向かう二人を見送った後は、屋敷が嘘のように静かになる。鶏部屋だけが、ガサゴソうるさい。
仕事に一段落をつけたチェリーは、自室に戻り、ベッドに張り付くようにしてノエルの看病をしていたキャロライナに声をかけた。
「朝からずっと、ありがとう。少し部屋を出て、気分転換をしたらどう?」
「チェリーさんこそ、ありがとう。こんな忙しい日だというのに、私はかえってゆっくりさせてもらっていたわ。兄様とお母様の支度は、何もお手伝いできなくてごめんなさいね」
「謝るところじゃないわよ。キャロライナさんがノエルをみてくれているから、私も安心して動き回れるんですもの」
チェリーが明るく言うと、淡く微笑んだキャロライナは「子どもの頃、ベッドで過ごすことが多くて、ひとりで寂しかったものだからノエルについていたくて……」と呟いて、椅子から立ち上がった。
「チェリーさん、朝からずっと働き詰めでしょう? もしノエルを少しお任せできるなら、私、お庭でトマトをもいでくるわ。外の空気を吸ってきた方が、体に良いのよね」
別にいいのにと止めかけて、チェリーはその言葉を飲み込んだ。
座りっぱなしだったキャロライナが、少し体を動かしたいという気持ちもよくわかる。最近は本当に体調が良くなっていて、庭に出ていることも珍しくないのだ。
(戸締まりをして、訪問者に気をつけてとは言われているけれど、お庭くらいなら大丈夫よね。まだ明るい時間帯だし)
少し気がかりはあったが、気にし過ぎも良くないと、チェリーは仕事をお願いすることにした。
「日差しがあるから、帽子をかぶっていってね」
チェリーが言うと、キャロライナはふわふわと笑って「わかったわ」と答え、思い出したように付け加えた。
「昨日の話、あとで詳しく教えてね。帰って来てから、お兄様のチェリーさんを見る目が、全然違うの。何か良いことあったでしょう?」
昨日の今日で、キャロライナはバーナードとほとんど顔を合わせていないはずなのに、目ざとい。
どう話すべきか言葉を詰まらせながら、チェリーは「あとでね」と笑いかけた。
「そうだ。今晩、みんなでこの部屋で寝ましょうか。ノエルが寝たら、少しおしゃべりしましょう。昨日は……、そうね、なんと、本物の王子様にお目にかかったのよ」
「ヒューゴー殿下? すごいわ、それで、何があったの? ああ、だめ。いま話しだすと止まらなくなっちゃう。夜の楽しみにしましょう。行ってくるわ」
それまで、少し疲れているように見えていたキャロライナであったが、ぱっと顔を輝かせると、いそいそとドアまで進んだ。「いってきます。またあとでね!」と溌剌とした口ぶりで言って、部屋を出て行く。
ぱたん、とドアが閉じるのを見守り、さて自分は部屋の掃除でもしておこうとチェリーは辺りを見回す。
(今度、もし機会があればキャロライナさんと一緒にお城へ行きたいな。もう当分、何もないとは思うけれど)
夜は二人で、たくさん話をしよう。本当の姉妹のように。
楽しい予定を思い浮かべながら、チェリーは手始めに、閉まっていた窓を勢いよく開けた。
* * *
帽子をかぶり、収穫用のバスケットを手にして、キャロライナは前庭に向かった。
足取りが覚束ないことには、外に出てから気づいた。
(……この感覚は、久しぶりに、熱かしら)
ノエルの熱をもらったのか、無理をしたせいかわからないが、体が妙に熱かった。嫌と言うほど覚えのある寒気で、背筋がぞくぞくとする。
これは悪い兆候だと自覚しつつも、引き返す決断が遅れた。健康だからと働き通しのチェリーのぼろぼろの手を見ると、罪悪感が湧くのだ。屋敷から目と鼻の先、敷地内である前庭で実った野菜の収穫をしてくるだけなら、自分にもできるはず……。
いくらもしないうちに、あまりの気持ち悪さに吐き気がこみ上げてきて、しゃがみこんでしまった。
せめて屋敷の中へ戻らなければと思うのだが、立ち上がることができない。
目を閉じていると、ドゥルンドゥルン……と遠くで耳慣れぬ音が響いているのが聞こえた。
「なに……?」
確認しようと目を開けるも、そこで視界が完全に真っ暗になる。
ずしゃり、とキャロライナは地面に倒れ込んだ。
表門の前に、自動車が停まった。
運転席から出てきたのは、栗色の髪を無造作にシャツの肩に流した青年。
ジャケットを片手で掴んでばさりと肩にかけ、花の咲き乱れる前庭を歩き出す。
やがて、進行方向に妙なものを見つけて、眉をひそめた。
「人間……?」
それが倒れた少女だと理解すると同時に、土を蹴って走り出した。
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