第32話 ガラスの靴の、その前に

 夜に熱を出したノエルは、目を覚ましている間は何かと元気そうにしゃべるものの、今は疲れたようにとろとろと眠りについていた。

 水を汲んできたりノエルの汗を拭き取ったりとこまめに動き、椅子に座ってひといきをついて、チェリーは眠るノエルの顔をのぞきこむ。


「姉さまの話をあなたにどう教えるか決めてなくて、歌ってあげたこともなかったわね」


 子どもを置いて戦場に戻り、死んでしまった姉に対して、チェリー自身が複雑な感情を抱いていたのが一番の理由だ。

 持て余していたその思いには、前夜のできごとで少しだけ、整理がついた。


「いつか、あなたに本当のお母様の話をする日がきたら、姉さまの歌を教えてあげる」


 文字でも絵でもなく、その場限りの音声芸術である歌は、記録としては残らない。

 だが、家族であるチェリーも知らない誰かの中にラモーナの歌声がたしかに存在していて、感謝されたりいまも生きていることを願われていたのだと、知った。

 ラモーナの歌は、もはやこの地上のどこにもないが、チェリーは似せた声が出せるらしいこともわかった。覚えている間に、忘れないうちに、ノエルに教えてあげたい。その思いに、ようやく向き合える気がした。

 美しく華やかな「歌姫」ラモーナのことを、あなたの本当のお母さんはね、と語ってあげるのだ。


「それにしても、良い天気……。キャロライナさん、戻ってきたかな。座ってると寝ちゃいそう」


 ノエルもよく寝ていることだし、キッチンを見てこようかなと思いながら、チェリーは眠気に負けていっとき目を閉ざす。

 そののどかな空気を引き裂くように、遠くで「誰かいないのか!」と叫ぶ男の声が聞こえて、飛び起きた。


(なに!? 家の中に、誰か入ってきてる……!?)


 あれほどバーナードに戸締まりや、訪ねてきた相手を警戒するように言われていたのにと、みぞおちが冷える嫌な感覚を味わいながら、足音を忍ばせてドアへと近づく。

 キャロライナはどうなったのだろう、強盗だったらノエルをどうやって逃がそう。マリアは大丈夫だろうか。鶏は少し静かにしていてほしい。

 ドキドキとしながらドアに耳をつけたところで、もう一度声が響いた。


「娘が庭で倒れていたぞ! 誰もいないならこのまま勝手に上がらせてもらう!」



 * * *



 すごく見たことがある、それもつい最近どこかで見た、というのが青年の印象であった。

 記憶が正しければ、親切にしてもらった覚えもある。


「あの、えっと……王子様と一緒にいた……?」


 階段の上段から玄関ホールをうかがい見たところで、相手とばっちりと目が合った。

 ジャケットを身に着けず、栗色の髪を乱雑に肩に流した型破りな姿ながら、研ぎ澄まされた美貌に余人を黙らせる威圧感のある青年。


「おう、昨日の『歌姫』か。ハウスメイドみたいな身なりだが、それも悪くないな」


 ふ、と片方の口の端を吊り上げて笑ってから、腕の中に抱きかかえた意識のない人物の顔をチェリーに見せる。


「キャロライナさん!」


 バタバタバタ、と階段を駆け下りて、チェリーは青年のすぐそばまで走り込んだ。


「表に倒れていた。体が熱いぞ。このまま、ベッドのある部屋へ運ぶ。目を覚ますようなら、水を飲ませた方がいい。部屋は、二階か?」


 言いながら、青年はさっさと階段を上り始める。動きが早い。チェリーは急いで後を追って追い越し、先に立って「こちらです」と廊下を進んだ。

 キャロライナの部屋に通すつもりであったが、動揺していたせいか、ノエルの眠る自分の部屋へと向かってしまう。ドアを開けてから、気づいた。

 後に続いて足を踏み入れた青年は、ベッドにノエルが横たわっているのを見て「おい……」と呆れたように呟いた。


「なんだこの家は。病人だらけなのか。バーナードは何をしている」

「今日は、街へお医者様を呼びに……」


 尋ねられて、ごく正直に答えてから、良かったんだろうか? と血の気が引いた。まさに、この家にはいま女子供しかいない、しかも病人ばかりであることを知られてしまった。

 青年は苦笑いを浮かべつつ、キャロライナをベッドへと運んだ。ノエルの横にはまだひと一人が横たわるに十分なスペースがあり、そこに意外なほど優しい手つきでキャロライナを下ろす。


「君がひとりで看病をするなら、病人は一箇所にまとめておいた方がいいだろ。水はあるか?」

「はい、キャロライナさんの吸飲みもあります、すぐに取ってきます」


 もともと体が弱く寝込みがちだったキャロライナには、各種の看病道具が揃っている。客人らしき男性と病人たちを一緒にしておいて良いものかと迷ったが、ぐずぐずしてはいられない。すぐに決断して、部屋を飛び出した。

 いくらもしないうちに、盆に吸飲みをのせて戻ると、男性はベッドサイドにおいてあった手ぬぐいでキャロライナの額に滲んだ汗を拭き取っていた。

 チェリーが近寄ると、盆から吸飲みを取り、キャロライナの口元に近づける。


(ご自分でなさるの? 手慣れてるみたい)


 この頃には、チェリーも相手が誰かはっきりと認識していた。前夜の夜会で、王子のお目付け役をしていた身分の高そうな青年である。口ぶりからして帰還兵のようであり、バーナードと同じく「なんでもできる」のかもしれない。それでも、進んで看病をする姿には少し驚いてしまった。


「飲めるか?」


 声をかけられたキャロライナが、薄く目を見開いた。ぼんやりとした、焦点の合わないまなざしで青年を見つめ、かすれ声で呟いた。


「王子様……?」

「喋れるなら、いまのうちに飲め」


 背に腕を入れて、軽く身を起こさせて支えながら、吸飲みで水を飲ませる。喉がかすかに上下するのを確認してから、ゆっくりと体の位置を戻す。

 その一連の仕草を、チェリーは声もなく見守ってしまっていた。


(王子様……本当に、王子様みたい! キャロライナさん、夜会には行けなかったけど、ひとつ夢が叶ったのでは……!?)


 そんな場合ではない。そんな場合ではない、とわかっているのだが、キャロライナが熱に浮かされただけではない、ぽーっとした視線を彼に向けたのを見て、確信してしまった。そこに、彼女が恋い焦がれていたときめきがあることを。

 青年は、キャロライナとノエルの様子を軽く目視で確認し、ベッドを回り込んでチェリーの前まで戻ってくる。


「『ラモーナ』とバーナードに用があって来たんだが、どうも面倒なことになってるな。人の気配が無いが、使用人もいないのか」


 姉の名がその口から出たことに、チェリーはびくりと身を震わせた。


「どういったご用件で……」


 問いかけると、青年は面白そうに目を輝かせて笑った。苦み走った美貌に似合いの、渋い笑みだった。


「俺は、アーシュラ公爵と名乗っている。コンラッド・アーシュラだ。いまはヒューゴー殿下のお付きみたいなものだな。その殿下が、昨日の『歌姫』を見て、少々気になることを言い出した。『仲良し夫婦を見せてみろ』という理由で、バーナードを夫婦で呼びつけた責任は俺にあるから、ガラスの靴を持った王子様の使者がここを探り当てる前に、ひとっ走り来たわけだが……。俺が知る限り、君の名前はたしか、チェリーさんだ。ラモーナは芸名か?」


 バーナード、と名を呼ぶときの親しげな口ぶり。凛々しい面差し、飄々とした態度。

 それらはチェリーの中で結びつきひとつになり、彼の正体について、突如として閃きを得た。


「『王子様みたいな知り合い』の方ですね! わぁ、本当だ。バーナードさんの言っていた通りです!」


 コンラッド・アーシュラは「どんな紹介してんだよ、あいつは」と呟き、小さくふき出した。そして、笑いながら「たぶんそう。それが俺」とチェリーの閃きを肯定した。

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