第30話 澄み透る歌声

 バーナードは、男性陣に取り囲まれて、戦地での経験談をせがまれていた。


「卿のいた部隊は、常勝無敗にして、いかなる危地をも難なくやり過ごし、我が敵国に痛恨の砲弾の一撃を食らわせ、絶え間なく銃声を浴びせかけていたと」

 

 口角から泡を飛ばす勢いでまくしたてる体格の良い年配男性に行く手を塞がれ、バーナードは顔をしかめて言い返す。


「かかる消耗戦において、常勝不敗の奇跡の部隊など存在しません。また、終戦後の現在『敵国』という言葉を使うのは、どのような場であれ慎むべきことです。戦闘に関しては、数字面を含めて経過等はすべて軍部に控えがあるはず。個人の記憶頼みより、よほど正確な情報が得られましょう。知る必要があるのであれば、問い合わせてみてはいかがですか」


 まったく取り付く島のない態度で言い切ったはずなのだが、相手はせり出した腹を揺らして、愉快そうに笑っただけであった。


「いやいや、謙遜されるな。我々は味気のない記録を閲覧したいのではなく、実際に戦場に立ったあなたの、血沸き肉踊る臨場感ある話が聞きたいのですよ」


「臨場感を望むのであれば、音声データもあるかと。録音装置が、救援を求む緊迫した叫びなど、いくつかの通信を記録していることでしょう」


 バーナードはますます態度を硬化させたが、左右を取り囲む男性たちもまた、すでに酒精で勢いを得ているのか、口々にはやしたてるだけだ。


(戦場に英雄はいないし、奇跡もない。たとえそれらしく見える何かがあったとしても、相手国の歴史においてそれは「悪鬼」による「悲劇」として記されることだろう)


 目を伏せれば、自分を取り囲む暗い炎が浮かび上がる。

 鼻孔にこびりついた肉の焼け焦げる匂い、耳をふさいでもその奥で鳴り続ける恐怖に彩られた悲鳴。


 心が、ここではない場所へと引きずられていく。置いてきた仲間たちの手が、シャンデリアの光の下、足元の絨毯から伸びてきて、脛を掴み腰にまとわりついてくる。

 現実が反転していく感覚に歯を食いしばり、バーナードは苦しい息を吐き出した。


 視界は視力が失われたように歪み、話し声は分厚いガラス越しのように判然としない。だが、男たちは依然として自分に何かを話し続けている。


「君ね、あの戦場での作戦はどう思うかね。もっとやりようがあったんじゃないか」「あれほどの被害を出さぬ方法はあったはずなのに、指揮官は何をしていたのか」「現場には、私らの知らぬ特別な事情でもあったのか?」「おかしいだろう、まったくなっていない。あと何割か死傷者を抑えられたはずだ」


 バーナードは、重い口を開いて、突き放すように告げた。


「記憶は時とともに歪むものです。過ぎ去りし日々について、個人として語るべきことは何もありません」


 目の前に立つ男が、ふ、と失笑めいた笑いをもらした気配があった。


「そうは言っても君。日常ではできない貴重な体験を、ずいぶんしてきたんじゃないか。それを踏まえて、?」


 ぐにゃぐにゃとした不透明で鈍色にびいろの世界が一瞬、洗い流されたように真っ白な静寂となった。

 激烈な、怒りだ。


(次とは、なんだ)


 今しもバーナードが相手に掴みかかろうとした、まさにそのとき。


「もし……、アストン子爵。あなたは、戦場において日記のようなものを残していたと耳にしたことがあります。それを、公開されるご予定はおありでしょうか。息子が、あなたと同じ部隊にいたようなのですが」


 初老の紳士に声をかけられて、バーナードは動きを止める。


 目には見えないさざなみが、肌の表面を羽のやわらかさでなぞって、通り抜けていった。

 それは、そこかしこにあふれていたひとびとの話し声や笑い声を彼方へと流し、沈黙を呼び込んだ。

 波の生み出される、中心の場所。


 静けさのはてでは、澄み透る歌声が響いていた。



 * * *



 思い描いたのは、幼い頃、ラモーナと歩いた田舎道、夕暮れ時の丘の光景。

 伸びやかな姉の歌声を聞きながら、その背を追いかけていたら、肩越しに振り返ったラモーナが手を差し伸べてきた。長い髪が、金色こんじきの光を帯びて風にたなびく。

 茜色に染まる、笑顔。


 ――チェリー、一緒に歌いましょう。チェリーの声はとても綺麗よ。


 差し出されたラモーナの手に手を伸ばし、笑う口元を見つめて、チェリーは唇を開いた。



 * * *

 


 シャンデリアの光の中で、ローズピンクのドレスを身にまとって歌う乙女は、まるで妖精のように幻想的であった。


 澄み切った清らかな声が、ホールに幾重にも優しい波を広げる。

 立ち尽くすひとびとの間を、郷愁を呼び覚ますあたたかな風が吹き抜けて行った。


 その歌声は、優しく頬を濡らす、慈雨のように。

 眠れぬ夜の先に、塹壕から這い出て仰ぎ見た、青ざめた薄明の空のように。

 光をまとって、やわらかく包みこんでくる。


(君なのか。チェリー、君が歌っている……)


 胸元で組まれた、手袋に包まれた細い指。

 きらきらと輝く金糸とスパンコール、淡い色合いの花びらのようなドレス。

 間違いようがない。


 聴衆の耳を虜にし、言葉を奪い、呼吸すら止めさせるほどに。

 誰の目をも引き付けて。

 光の中で、チェリーが歌っている。


 足が引き寄せられるように、ふらふらと歩き出した。

 彼女の目が、人垣を割って姿を見せたバーナードを、まっすぐに見つめる。

 視線がぶつかったその瞬間、心臓をあやまたず射抜く、そのまなざし。


 声が、止んだ。

 歌が終わっていた。


 数秒間の沈黙の後、ホール中に怒号めいた大歓声が響き渡った。

 打ち鳴らされる手、足を踏みしめて快哉を叫ぶ者。


 こわい、どうしよう、とチェリーの唇が動いた。バーナードを見つめた目には狼狽が浮かんでおり、その顔からはすでに血の気が引いていた。

 誰よりも早く、躊躇することなくバーナードは駆け寄った。しがみついてきたチェリーに、ジャケットを脱いでかぶせて、抱き上げる。すぐに身を翻し、押し寄せてくる人波に抗ってその間をすり抜けて、駆け出した。


「掴まっていて。走るから」


 チェリーの細い腕が、背に回される。すがりついてくる、その儚い力を感じながら、バーナードは廊下を走り抜け、正面の大階段を駆け下りると、車寄せに停車中の馬車の間を縫うように進む。


「うちの馬車を待たせてある。送りもするとは言われたが、ひと任せでは王宮に留め置かれるかもしれないから、念の為。しゃべらなくていいよ、舌を噛む」


 バーナードの忠告に対し、応えるように、腕に少しだけ力が込められる。

 立ち止まることなく、一番端に目立たぬように待機していた小さな馬車まで駆け寄ると、バーナードは御者に叫んだ。


「ジェド、出してくれ。帰る」

「おっと、旦那。早くないかい?」


 答えた相手は、戦地から帰還したばかりのときに再会した街の友人であった。

 片足がないので仕事にあぶれたと聞きつけ、雇い入れていたのだ。


「大丈夫、顔見せは果たした」


 チェリーを抱えたまま、自分でドアを開けて、乗り込む。

 座席に下ろそうとしたら、ジャケットの中で、チェリーがぶるぶると体を震わせていることに気づき、動きを止めた。


「少し、このままでいようか」


 座りながら声をかけ、腰を落ち着けてから抱く腕に力を込める。

 ごめんなさい、とかすれた声が耳をかすった。ひどく打ちひしがれたような、悲しげな声であった。


「どうして、謝っているんだ?」

「……姉さまのように……歌ってしまって……。バーナードさんに、止められていたのに」


 とっさに、チェリーが何を言っているかわからず、軽い混乱に陥った。


「姉さまのように、とは……」


 問いかけると、過呼吸のように息を乱しながら、チェリーが弁明を口にした。


「姉さまは、歌を歌う仕事を、していたんです。それで、あの場に、姉さまを知っているひとがいて。また歌って欲しいと、言われて。姉さまは死んで、もういないんですって言えなくて。一回だけのつもりで……。あんなに、周りが静かなの、気づかなくて、最後まで」


「苦しそうだ。無理に話させてごめん。息が落ち着くまで、何も喋らなくていい。大丈夫、そばにいる。ひとりにして悪かった。今晩はこのまま、ずっと君のそばにいるから」


 囁きながら、ただ強く抱きしめる。


(歌を歌う仕事、か。俺が誤解していた。何も知らぬまま、姉の真似事を禁じるようなことを言ってしまったから、彼女は気に病んで……。かわいそうなことを、してしまった)


 会話ができなかった十日間、チェリーがどれほど悩み抜いていたのかと今一度想像して、胸が押し潰されそうになった。


「君の歌声は、とても綺麗だった。心が洗われる……。知らなかった、君にあんな一面があったなんて」

「初めて、なんです」


 ひしゃげた声で呟き、動き出した馬車が揺れた拍子に、チェリーはバーナードの胸に身を寄せてきた。ぜいぜいと苦しげな呼吸をしながらも、懸命に話しかけてくる。


「人前で、歌ったの、初めてなんです。怖かった。なんで自分にあんなこと、できると思ったんでしょう。もう絶対にしません」

「それは、どうだろう。もったいない……」


 本音が漏れてしまった。もう一度聞きたい気持ちがあり、あれほどの歌声を秘するのは残念だと、惜しく感じたのだ。自分のことながら、現金なものだとは思うのだが。


「私が歌うの、バーナードさんは、お嫌ではないのですか」

「そんなことはない。俺は初めて会ったときから、君の声が好きだった。ずっと聞いていたいと、いつも思っていた。歌声も、とても綺麗だった。レコードに記録しておきたいくらいに」


 ジャケットの影からチェリーが見上げてきた。

 妖精と見紛みまがった妻は、薄暗い中でもひどく可憐で、濡れたまなざしを向けられた瞬間、体の奥底で情欲の炎が灯るのを自覚した。


「口紅が落ちる間もなかったです。何も食べないうちに」


 かすかにチェリーがみじろぎをして、ジャケットがぱさりと足元に落ちる。

 バーナードは残念そうに呟くつややかな唇を見つめ、チェリーをさらにきつく抱きしめた。


「バーナードさん?」


 少しだけ、呼吸が落ち着いたように見えた。

 まだ無理をさせてはいけないと必死に自分に言い聞かせ、触れるだけだと心に決めて、バーナードは唇に唇を重ねた。



 * * *



「追うな。あれは、彼女の連れだ。人前で無理な一芸を望まれた『歌姫』を、迎えにきたんだ。行く手を遮るなよ、絶対に」


 誘拐? と騒然とした場に、公爵たる青年が張りのある声が響く。


「しかし、あのやり様はあまりにも乱暴ではないか! 彼女はこの私と話をしていたんだぞ!? ひとことも口をきかぬまま、連れ去るなど」


 目の前で「歌姫」を鮮やかにさらわれたヒューゴーが、悔しげに顔を歪めて、アーシュラ公爵へと食ってかかる。追おうとした侍従や護衛たちの動きは、彼によって即座に遮られていたのだ。

 揉め事の気配に、ざわめきが引いていく。

 誰も口を挟めぬ一触即発の空気の中、公爵は落ち着き払った口ぶりでもう一度「この場の警備責任は私にある。追う必要はない」と周囲へ宣言をして、ヒューゴーへと向き直った。


「殿下が何を誤解しておられるか存じ上げませんが、来賓の女性へいきなり歌えと命じるのは、横暴というのです。ご自身が権力の座にあり、その言葉には断り難い重みがあることを自覚なさるように」


「嫌がってはいなかっただろう! ああそうか、戦場帰りの公爵殿は、王子たるこの私よりもずいぶんと偉いのだな……」


 威勢よく言い返したヒューゴーであるが、公爵の鋭い視線にあてられて、声がだんだんと小さくなっていく。

 公爵は余裕のある態度を崩さず、冷厳とした声で言い放った。


「公爵という、この身分相当の発言は致します。戦場帰りを偉いと思っているかどうかと、それはまったく関係ないことです。むしろ、なぜ殿下はいまそれを、引き合いに出しましたか。ご自身が戦場に立たなかった、その負い目でしょうか?」


 いまや、会場を包みこんだ「歌姫」の、澄んだ歌声が呼び覚ました優しい空気はどこにもない。

 触れれば切れそうな剣呑さを遺憾なく発揮する公爵を前に、ヒューゴーは口をつぐんだ。

 公爵は、ふっと息を吐き出すと口の端を吊り上げて笑った。


「さて、すっかり空気が冷え切っておりますが、夜会はこれからです。皆さん、どうぞご歓談を」


 底の知れない笑顔で辺りを見回してから、ヒューゴーへと視線を戻すと「殿下、お顔がこわばっておりますよ」と愛想よく告げた。

 ヒューゴーは公爵から目をそらさぬまま、そばにいた侍従に「ラモーナという名前で、出席者を調べろ。すぐに」と命じた。

 公爵は、肩をそびやかす。


「調べてどうなさるおつもりですか。迎えに来た、連れの男がいたでしょう。殿下はおじゃま虫です」


「つれないことを言うな。私はただ、彼女ともう少し話してみたかった、本当にそれだけだ。戦場に立って兵士を勇気づけた歌姫など、すばらしい逸話じゃないか」


 公爵は呆れたように息を吐き出して、呟いた。


「なるほど、わかりました。もし『ラモーナ嬢』が探して見つかるのであれば、殿下のなさりたいようにすれば良いかと」


 洒脱な口調でそれだけ言って、公爵は通りすがりの給仕からフルートグラスを受け取り、口をつける。

 ざわめきを取り戻した会場の話し声に耳を澄ませながら、ひとり小さく呟いた。


「あいつ、俺に気づきもしないで、さっさと帰りやがったな。この野郎」


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