第29話 歌姫の影
しわがれた声は、ざわめきの間隙を縫い、声量がさほどではなかったにもかかわらず、よく響いた。
(姉さまを、知っている方?
息を止めて、チェリーは声の主へと顔を向ける。
そこに立っていたのは、真っ白な髪の男性だった。立派な服装で、杖をついている。老人のような
「おぉ、やはりあの日の『歌姫』だ。戦場で聞いたあなたの歌声は、素晴らしかった。胸に迫る美しさで……。ひどい戦闘に巻き込まれたと風の噂に聞いていたが、まさか生きていたとは」
帰還兵だと、その言葉からわかった。
勘違いをしているのだ。あまりにも、チェリーの面差しがラモーナに似ているがゆえに。
「私は……」
違います、と言おうとした。だが、「その声だ!」とかぶせるように叫ばれて、それ以上続けることができなかった。
「
男性はそう言うと、杖を持っていない左の手で、目元を覆ってしまった。
喉まで出てきていた「姉は死にました」という言葉を、チェリーはついに口にすることはできず、黙り込む。
すぐそばにヒューゴー王子がいて注目を集めていたこともあり、近くにいた者たちは皆、話をやめて成り行きを見守っているようだった。
チェリーと男性のいる場を中心に、静けさが少しずつ会場内に伝播していく。
(「生きていて、良かった」と、私の知らないひとが泣いている。これが、姉さまの歩んだ道……。あっけなく、あっという間に死んでしまったと思っていた。ノエルを産んだ後、すぐに戦場へ向かって、それで死んでしまうなんて、どうしてって何度も……。責める気持ちがまったくなかったわけじゃない。私とノエルだって、いつ死んでもおかしくなかったんだもの。姉さまがそばにいてくれたらって、何度思ったことか……!)
胸の中に渦巻く思いは、到底言葉にならない。
姉を愛する気持ちに、嘘はないのだ。同時に、決して呼び覚ましてはならない暗い思いもそこに動かし難く、たしかに存在していた。
大好きな、大切な家族と言いながら、姉の話をなかなかアストン家のひとと話すことができなかった、その理由でもある。
なぜ、ラモーナは
少しでも目を向ければ、胸の奥底から何もかも焼き尽くす業火となって噴き出してしまいそうなそれは、まぎれもない
「良かった……、本当に良かった」
涙を流してそう繰り返す男性を前に、チェリーは微動だにできず、立ち尽くしていた。
彼の耳の奥ではいまも、ラモーナの歌声が響いているのかもしれない。
どうしようもなく死へと向かう兵たちを包みこんだ、「歌姫」の天上の歌声。
(思い出の中の姉さまは、「なぜ死んでしまったのか」という私の恨み言には決して答えない。ずっと笑ってる。ずっと歌ってる……! そうね、生きたかったよね……。死にたいわけがない。大きくなったノエルにだって、会いたいと思っていたはず。そばで成長を見て、一緒に笑って……)
胸を焼き焦がす、行き場を失っていた姉への怒りが、雨風に洗われるように褪せて灰色になり、風化していく。
チェリーは、感傷的に鼻をすすった。目には涙が浮かんできており、いまにも声を上げて泣き出しそうだった。
ここは一刻も早く「姉のために泣いてくださって、ありがとうございました」と言おうと思った。自分には知りようもなかった、在りし日の姉の思い出を教えてくれたことに対してお礼を述べて、この場を立ち去るべきだと。
チェリーが、その言葉を口にしようとしたそのタイミングで。
「素晴らしい……! 愛する我が国を守るため、命を落とすまで戦い抜いた兵士たちに寄り添った『歌姫』の歌声とは、なんとも美しい逸話ではないか。パストン子爵、よくぞ貴重な話を伝えてくれた。さて『歌姫』よ、私はここにその歌を所望する。戦争に疲弊した人々のために、今宵この場で一曲歌ってはもらえないか!?」
感極まった様子のヒューゴーが、高らかに叫んだ。
「え……?」
予想外の提案に、チェリーは呆然として聞き返してしまう。
(ラモーナは姉で、私は別人なんです。戦場の兵士の助けなんて、何もしていなくて! 安全な場所で、戦争の終わりと「夫」の帰りを待っていただけの……)
ヒューゴーの隣に
「いくら国庫が
その声にはひどく冷たい響きがあったが、頬を紅潮させたヒューゴーはひるまない。
「そう言うな、アーシュラ公爵。ここにいる誰もが、もはや彼女の歌声を聞かずに今日という日を終えることはできないだろう。絶望的な戦いへ挑む兵士たちを鼓舞した、奇跡の歌声を!」
アーシュラ公爵と呼ばれた青年は、極めつけの無表情となり「絶望的な戦いは無数にあったが、美しい死など、どこにも、ただひとつもなかった」と吐き捨てるように呟いた。
その横で、夢見るまなざしをチェリーに向けたパストン子爵なる帰還兵は、唇を震わせて懇願してきた。
「戦いは常に過酷であったが、あなたの歌声は一条の光の如くきらめきを放ち、とても美しかった……。どうか今一度、聞かせてはもらえないだろうか。死んでいった仲間たちのためにも」
さっと、アーシュラ公爵がその視線を遮る位置に移動し、チェリーを背後にかばう。
「死んだ仲間はここにはいない。どんな行き遅れとて、さすがに天国の門を叩いている頃だろう。この地上に生きる者が、彼らに届けられるものなど、何もない。仲間を死なせた自分をなぐさめるために、他人を付き合わせるな。死んだ人間に生きている人間ができることは、埋葬以外に無いだろうさ」
秀麗な容姿に似合いの、艶めいた低い声が響き渡る。
冷静な話しぶりであったが、言葉の端々に痛烈な皮肉が滲み出していた。
(この方も、帰還兵なのね。こんなに身分の高そうな方も、死者が多数出るような戦場へ……)
チェリーは、そっと辺りの様子をうかがった。
遠巻きにうかがう人々の顔を、心を落ち着けて見る。目が合った相手からは、ぶしつけに突き刺してくるようなあの視線は感じなかった。自分の気が張っていたせいで、必要以上にきつく受け止めてしまっていただけなのかもしれない。
多くのひとが、立派な服装とは裏腹に、心細そうで寄る辺ないまなざしをしていた。
ヒューゴーは、ひょいっと体を傾けて、アーシュラ公爵越しにチェリーをのぞきこんできた。琥珀色の瞳に真摯な光を浮かべて、力強く語りかけてくる。
「言い方を変えよう。あの時代を生き抜いたあなたは、この先、戦後のこの世界に光を灯すために生きることができる。未来へ向けて歩む同志のために、歌ってはくれないだろうか」
死者のために、過ぎ去った時代のためにという言葉を、アーシュラ公爵が
パストン子爵は、息を止めてチェリーの答えを待っているようだった。
その顔を見たら、ついに「ラモーナは私の姉で、すでに死んでいます」とは、どうしても言い出せなかった。
(今日の、この場に来るときに、私はラモーナ姉さまのように堂々と振る舞おうと心に決めていた。もしかしたら、この出会いは姉さまの望みかもしれない。これは姉さまが歩んだ、歩みたかった道……!)
チェリーは、どうあってもラモーナではない。姉妹として面差しが似ていても、まったくの別人だ。
だがこの日この場だけは、ラモーナとして振る舞うことを決意した。
「急なことで、喉が開いていないのですが、一曲だけなら」
肩越しに振り返ったアーシュラ公爵が「いいのか?」と言いたげなまなざしで問いかけてくる。「かばってくださって、ありがとうございます。大丈夫です」とチェリーは小声で告げて、二、三音調整のために発声した。
(人前で歌ったことなんてなくて、いままでは家族の前でだけ……。私は姉さまと同じように上手くできないけど、姉さまの名前で歌うのだから、できるだけ姉さまのイメージを壊さぬように)
意識を研ぎ澄ませる。
ふっと、周囲の気配が絶たれる。
チェリーはさんざめくシャンデリアの光の世界に、ただひとりで立っていた。
その唇から、歌声が溢れ出した。
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