第28話 話しかけてきたひと

 視線が痛い。刺さる。突き刺さる。


(なんで……? ひとのこと、じろじろ見ちゃいけないって、貴族の皆さんは知らないの……?)


 逃げ出したい思いを抑え込んで、チェリーは胸の中で叫んでいた。

 夜会の会場に到着して馬車を降り、バーナードと緋色の絨毯を歩き出したときから、視線は感じていたのだ。それは、当然のこととして、すべてバーナードへ向けられているものだと考えていた。


 実際、いくらもしないうちに、バーナードは「不敗将軍どの」などと揶揄まじりに言う男性たちに囲まれて、身動きができなくなってしまったくらいなのだ。

 どうにかした方が良いのかと焦ったものの、男たちの中のひとりがチェリーにまで話しかけようとしたところでバーナードが「すぐに行く、先に行って」と言ったので、頷いてその場を離れるだけにした。

 おそらく、男性たちが口々に話し始めた戦時下の話題を、自分に聞かれるのが彼は一番嫌なのではないかと、直感的に理解したのだ。


 あてもなく歩き出したチェリーは、きらめく荘厳なシャンデリアの下、どこかの壁際で目立たぬようにおとなしくしていよう、と良さそうな物陰を目で探した。

 誰かに見られていると気づいたのは、そのときだ。


 痛いほど肌に刺さる、視線の意味とは?


 服装や髪型に、あるいは自分の見た目そのものにどこか変なところがあるのだろうかと、心臓がドキドキとして、胸が締め付けられるように苦しくなってきた。

 怖いのに、誰かに何か言われているのではと気になって、耳をすませて話し声を聞き取ろうとしてしまう。

 すぐに、やめておこうと思い直した。

 いちいち気にしたところで、チェリーにはどうにもできない。

 びくびくしていれば、悪目立ちするだけだ。


(荒れた手を見れば気づかれるかもしれないけれど、今日の私は「見るからに平民」とは誰にも言えないはず。負い目のようにこそこそしていれば、バーナードさんに申し訳ない思いをさせてしまう。胸を張って、楽しそうにしていよう)


 飲み物を口にして、食べたいものを食べていれば、そのうち視線も気にならなくなるだろう、と腹をくくり、チェリーは会場に視線をすべらせた。


 美しく装ったドレスの女性、正装の男性。天井の高いホールは、細部に至るまですべてが豪勢な作りをしている。

 庶民の自分にとって、ここが別世界なのは間違いない。だが、想像していたほどの衝撃はなかった。

 知らない世界へ足を踏み入れる高揚感は、アストン家の屋敷に移り住んだとき、天蓋付きのベッドのある部屋に通された瞬間が、これまで生きてきた中で一番だとチェリーは思う。あれを超える体験は、なかなかないようだ。

 

「シャンデリアは、すごい……。どうやって灯りをつけるのかしら」


 天井を見上げて、まぶしさに目を細めたそのとき、とん、と肩が誰かにぶつかった。


「すみませんっ、前を見ていなくて」


 素早く身を引きながら、相手を確認する。

 視界に入ってきたのはシルクのドレスシャツと、なめらかな光沢のあるジャケット。チェリーより背が高く、つややかでやや癖のある黒髪に、琥珀色の透き通る瞳をした青年であった。

 唇には、品の良い笑みを浮かべている。


「こちらこそ、失礼しました。綺麗なひとがいるなと思って、見過ぎていたら、けそびれまして」


 愛想よく世辞を言われて、チェリーは一瞬言葉に詰まった。どう答えるべきなのか、さっぱりわからない。

 青年は、チェリーに笑みを向けたまま「初めまして。名前をお伺いしてもよろしいですか」と尋ねてきた。


(知らない男の人と話しても、大丈夫……? 見るからに高貴な方だけど、私が色目を使ったとか、悪い噂にならない?)


 ヘンリエットからは「結婚相手を探す必要もないのですし、通常の社交界デビューに付き添う年長女性も連れにいない以上、不用意に男性には近づかない方が良いでしょう」と言われていた。遊び相手や愛人を物色しに来ている者は男女ともに多く、下手に愛想よく振る舞って「同意があった」と受け取られても後々まずいことになると。

 目の前の青年には、一見しただけでは不穏な印象は見いだせないものの、どうして名前を尋ねられたのか、その目的がチェリーにはわからない。自分が、海千山千の生来せいらい貴族と渡り合えるとは少しも考えていないチェリーは、ごく正直に聞き返した。


「私の名前を聞いて、どうなさるおつもりですか」


 青年の琥珀色に澄んだ瞳が、きょとんとしたように見開かれた。


(びっくりされてる……!?)


 これだけで失言なのかと、チェリーは焦りのままに「あの」と言葉を続けようとした。

 そのとき、落ち着き払った低く深い響きを持つ声が、近い位置で話し始めた。


「いけませんよ、殿下。出会う相手全員が、自分のことを知っている前提で話すのは。ここはまず、殿下から名乗るべき場面です」


 黒髪の青年より、さらに背の高い男性がその横に立った。

 肩を過ぎる栗色の髪を、背に流している。貴族男性としては無造作な印象だが、それが彫りが深く非常に端正な顔立ちを魅力的に引き立てていた。チェリーに向けられた切れ長の水色の瞳には、愉快そうな光が浮かんでいる。目が合うと、口の端を吊り上げるようにして笑った。一方のチェリーは、反応のひとつもできないまま、固まってしまっただけであった。


(「殿下」って、王子様のことよね……? この方、ヒューゴー王子なの!?)


 くせ毛の黒髪の青年は、年の頃はチェリーよりいくつか年下に見える。容姿の特徴も、この国の王太子ヒューゴーそのひとに、一致するように思えた。実物を目にするのは、初めてであるが。

 隣の長身の青年は、ひとまわり年上のようで、さしずめ王子様のお目付け役といったところなのだろうか。


「夜会なんぞ、久しく開かれていなかったでしょう。殿下の顔を知らない者も多いかと。気になる女性を見かけたとしても、自分本位にぶしつけな質問をするのは、まったく感心しません」


 いまや、会場中の視線がこの場に集中しているように、チェリーには感じられた。

 黒髪の青年は、自分より背の高い男性を見上げて「アーシュラ公爵の言う通りだな」と破顔してから、チェリーに向き直って口を開いた。


「ヒューゴーと申します。あなたが、何かをお探しのように見えたので、声をかけました。お力になれることはありますか?」


 抜群の爽やかさで問われたものの、チェリーの喉は干上がっていて、声が出てこない。もし喋ることができても、なんと答えて良いかは、皆目かいもくわからなかった。王族との会話なんて、想定を超えている。


(キャロライナさんへの土産話にはなりそうだけど、どうしましょう! 隣のお目付け役さん、話を逸らしてくれないかしら……)


 よほど彼に「『大丈夫です、問題ありません』と、王子様へお伝えください」と言いたかったが、チェリーとて場の空気を読むことはする。

 王子様と親しげに話す男性が、一般人であるはずがないのだ。やはり、自分が口をきくことなどはばかられる立場の人物であるのは間違いない。しかも、大変な美男子である。迂闊に話しかければ、秋波しゅうはを送っていると周囲の目に映るだろう。


 困り果てたチェリーは、ぎこちなく微笑むのみ。

 そのチェリーに、周囲の人の間から、不意に声がかけられた。


「もし、そこのお嬢さんは……、ラモーナ嬢ではないか?」


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