第27話 夜会への道
(無言になってしまった……)
少しくらい褒めてくれるかなと期待していたのに、目が合ったバーナードは凍りついたように動きを止めて、口を閉ざした。
階段を降りて真正面に立ってみても、一応視線は動くものの、ただの一言もコメントが無い。
チェリーは、泣きたい気分になり、遠巻きに見ているキャロライナに「失敗したと思う!」と目で伝えた。キャロライナは無言で絶叫しており、ぶんぶんと首を振っている。何かを伝えてくれようとしているのはわかるのだが、早くも涙目になりかけていたチェリーには、わからない。
「似合い、ません、か……?」
ラモーナ姉さまくらい綺麗になったと思ったのは、自分の思い過ごしでしょうか? と、胸の痛みに耐えながらおそるおそるバーナードに尋ねた。
バーナードは文字通り、両手で頭を抱えていた。
「ごめん、言葉が出てこない」
「着替えてきます」
「いや、だめだ。君が……。君の作る料理も、君が畑作業している姿も全部好きなのに、毎日目の前でずっとその姿でいて欲しいと思ってしまって、いったい君が何人いれば良いのかと」
「何言ってます?」
「わからない。いま理性をかき集めているから、少し時間を」
瞑目して、ぶつぶつと一から十までカウントしてから、バーナードは目を開けた。
やわらかな光を湛えた翠の瞳が、チェリーをじっと見つめる。
「俺はまず君に、ここ数日のことを謝ろうとしていたのに、吹っ飛んだ。不審な対応で申し訳ない。時間のこともあるから、馬車で話そう。エスコートは任せてもらえるかな」
「はいっ。遅れたらいけませんね」
差し出された腕に、手袋に包んだ手を重ね、寄り添いながら歩きだす。
バーナードは、慣れない靴で歩みの遅いチェリーに合わせて、ゆっくりと歩いてくれる。ドアまでたどりつくと、二人で「いってきます」と見送りの面々に振り返って告げた。ノエルがいつになく頬を紅潮させて飛び上がり「早く帰って来てね!」と言い、キャロライナは「早くなくても良いのよ! 楽しんできて!」と横から叫んで、ヘンリエットが「お待たせしているのですから、早く行きなさい」と言った。
ドアの外には、王宮からの迎えが待機していて、前庭を先導されながら表門で待機していた馬車まで進んだ。
乗車するときは当たり前のように、バーナードがチェリーを助ける。
いつも通りの優しさに、チェリーは彼と一緒にいるときの幸せな気持ちをようやく思い出した。
「バーナードさんは、私のことをお姫様みたいに、扱ってくれますね」
馬車に乗り込んで、肩を並べて座ってから、ぎくしゃくしていたことも忘れてチェリーは笑った。
そばにいると、しっくりくる。隣にいると、自然と落ち着いて
「お姫様? 君は俺のお姫様だから、それは当然。こんなに美しいひとには、会ったことがない」
背筋を伸ばして座ったバーナードは、真面目くさった口ぶりで答える。
チェリーは少しだけ呆れて、言い返した。
「バーナードさんって、意外とそういうこと、平気でスラスラと口にしますよね。キャロライナさんも、ずいぶん私に『お姫様』って言っていて……」
留守番の義妹のことを思うと、胸が小さく痛む。
不遇な時代に生まれて、体が弱かったこともあり、キャロライナは社交界とは縁がなかったという。ドレスを見つめていた目には、どうしようもなく憧憬が溢れ出していた。キャロライナこそ貴族のお嬢様なのだから、一緒に出席できれば良かったのに、と思わずにはいられない。
(二人で、本物のお姫様と王子様を遠巻きに見てみたかったわ)
王宮での夜会となれば、当然会場のどこかにはいるだろう。この国の王族としては、年若い王子の名を
まだ見ぬ夢のような光景を思い描いていたところで、バーナードに「チェリーさん」と名を呼ばれた。
居住まいを正して、バーナードは膝がぶつかるほど狭い馬車の中でチェリーに向き直る。
「先日は、君のお姉さんのことで、君を傷つけた。君が家族を大切に思う気持ちを、尊重すべき場面でできずに、申し訳ない」
丁寧に謝罪をされ、チェリーの胸にも申し訳ない気持ちがこみ上げてきた。
(やっぱり、バーナードさんも気にしていたのね。私の態度もいけなかったわ)
彼にきちんと、自分の気持を伝えれば良かった。やきもきしているだけで、十日間も過ぎてしまったのは、後悔しかない。
「私こそ、ごめんなさい。怒りすぎたといいますか、何も言わないまま悲しんでいるだけで、あまり冷静ではありませんでした。私は家族の話をほとんどしたことがありませんから、バーナードさんが姉について知らないのも、仕方ないんです。できれば会ってくださいと言いたいんですが、姉も両親も、みんなもういなくて」
「今は俺が君の家族だよ」
二人の間の、こわばりあった空気がほどけていく。
バーナードが、チェリーを胸元に抱き込んだ。
「本当にごめん。言葉足らずですれ違うのはこりごりだ。今度ゆっくり、時間をとって話そう。もっと君の話が聞きたい。俺は君の声が大好きで、君が何かを話している姿を見るのも好きなんだ」
布越しに伝わる体温に、チェリーはほっとして、体の力を抜く。バーナードの腕に力がこもる。「せっかく綺麗にしているから、乱さないように……」と低い声が耳元をかすめ、額に優しく口づけられた。
ゆっくりと、体を離して、チェリーはバーナードを見上げた。
苦笑しながら目を伏せ、バーナードは反対側の壁に身を寄せる。
「夜会に行くのを取りやめて、このままどこかへ行って二人で過ごそうって、喉元まできてるのを、言わないように
「もう言ってませんか……?」
バーナードは、何かに屈服したかのように深く息を吐き出し、腕を伸ばしてくると、チェリーの顎に手をかけて少しだけ上向かせた。
「ものすごく耐えている。会場入りする前に、口紅が落ちたりしたら君に恥をかかせてしまう。今晩、帰ってから……」
囁き声が甘く響き、向けられるまなざしはせつない色を帯びている。
(今晩、帰ってからって……まさかこれは「口紅が落ちるようなことをしよう」というお誘いですか!?)
これまでまったく、それらしい経験のなかったチェリーである。長屋の薄暗がりで男女の何かを見た気もするが、怖くて逃げ出してきたくらいだ。具体的な知識は、ろくにないままこの年齢まで来た。
ラモーナは「そのときがきたらわかるわ。とてもロマンチックなものよ」と夢見るまなざしで教えてくれただけだ。
キャロライナは大人びた口ぶりで「寝室を一緒にしないの?」とは言ってくるものの、「夫婦はそういうものよね?」という認識で話しているだけなのが、ありありと透けて見えている。試しに二人で様子を窺いながら「夫婦の営み」について話してみたが、お互い肝心な部分がぼやっとしているのを確認しただけで終わった。
わからないなりに、何か言わねばと、チェリーは膝の上で拳を握りしめて、震える声で告げた。
「か……帰るまでに、口紅が落ちないように、死守します」
くす、とバーナードが笑い声をもらした。
「到着の馬車から降りたときの君が誰の目にも美しければ、それで十分。会場に入ってからは、食べたいものを好きに食べて大丈夫だ」
果たして、周囲はチェリーを「美しい」なんて思うだろうか。
(いつも堂々としていた、姉さまのように振る舞えば……)
イメージは、華やかな衣装も着こなす「歌姫」ラモーナである。あの勇気と自信を借りてきたい、と思いながら、どうしても気になったことを尋ねてみた。
「食べ過ぎは、マナー違反じゃないですか?」
「どうだろう。みんなここぞとばかりに食べてるんじゃないか?」
気負った様子もなく「誰しも腹は
作法に関しては、ヘンリエットにここ数日教えてもらっただけで、人前で披露したこともなく不安はあったが、隣にバーナードがいるなら大丈夫だと思えた。
「宮廷メイドのエラさんは『いろんな方にご挨拶することになると思います』と言っていて、何かあるのかと心配していたんです。でも、食事をしている時間はあるってことですね? 私はダンスはできないのですが、その間は食べていられるんでしょうか」
美味しいものがあったら、屋敷に持ち帰りたくなりそう、と早くもチェリーは別の心配を始めていた。キャロライナにもノエルにも、焼き菓子のひとつでもお土産にほしい。
(このドレス、ポケットがないものね。あっても、勝手に持ち帰るのは泥棒……)
あれこれ考えていたチェリーは、バーナードが眉間にシワを寄せた難しい顔をしていることに気づいた。声をかけようか悩んでいると、視線がぶつかる。
チェリーのまなざしを受け、バーナードは少しためらってから話を続けた。
「夜会の最中はなるべく離れずそばにいるつもりだけど、どうしてもひとりにするタイミングはあるかもしれない。ダンスはする必要がない。もし嫌な思いをしたら、すぐに俺を呼ぶんだ。さっさと帰れば良い。顔見せさえすれば、義理は果たしたことになる」
「わかりました。脇目も振らず食べて帰ります」
「それが良い」
笑った顔が、ほんの少しこわばっていた。
(心配事があるみたい。口が重くなるということは、戦争に関係することかしら)
気にかけつつ、当たり障りなく庭の作物の話などをとりとめなくしているうちに、馬車は夜会の会場に到着した。
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