エピソード3
第26話 ローズピンクのドレス
「チェリーさん、本当に何度見てもどの角度から見ても綺麗……。お城のパーティーなんて、私は子どもの頃からの憧れなのよ。行ったことはないのだけれど。お姫様をひとめ見てみたいと思っていたの、今晩夢が叶ったわ……」
ローズピンクのイヴニングドレスを身に着けたチェリーを見つめて、キャロライナがほれぼれとした様子で言った。
「お姫様だなんて、そんな。とても綺麗……ドレスがね」
姿見で仕上がりを確認し、チェリーは呟く。
その目は、自分を通していまは亡き姉をそこに見ていた。
(姉さまかと思った。私と姉さまって、こんなに似ていたのね。あまり鏡を見ることもない生活だったから、考えたこともなかったわ)
戦前から「歌姫」として、舞台や酒場で歌を披露していた姉のラモーナは、華やかな衣装を身に着けていることもあった。チェリーはそれを憧れの気持ちを抱いて、遠くから見ていた。あれは姉さまだから似合うんだわ、と。
ちょうどいま、うっとりとして言葉を尽くして褒めてくれるキャロライナのように。
「兄様が、チェリーさんのために選んだって聞いて、どんな感じかとわくわくしていたの。想像以上よ。兄様のこと、見直してしまったわ」
キャロライナの言葉に
夜会用として街の仕立て屋に「至急」と頼み込んで作ってもらったドレスは、バーナードが選んだものだった。
(高級すぎて私が、どれも選べなくなってしまったから……。私が一番気にしていた布や型で決めてくれたのよね)
デコルテラインは肌があまり露出しない、生地が体に添うデザイン。全体に細かい金糸の刺繍が施されており、スパンコールが縫い付けられてあった。スカート部分は、透け感のある妖精の羽のような生地を重ねて、アクセントにドレープを作ってある。
着付けは王宮から派遣されてきた専門のメイドが手伝ってくれて、髪まで結い上げてくれた。「不要であれば帰してくれて構わないが、屋敷で人手が足りないようであれば、ぜひ用事を申し付けて欲しい」と三日前から夜会担当者の手紙を携えて来ており、髪や肌の手入れも含めてありがたくお願いすることにしたのだ。
チェリーの赤毛は、複雑に編み込まれており、生花を精巧に模して朝露のように宝石を散りばめた髪飾りを丁寧に差し入れてある。チェリーからは角度的に少ししか見えなかったが、キャロライナがどれだけ素晴らしいかを手放しで褒めて伝えてくれた。
「兄様、息が止まってしまうかも。びっくりした顔を見なきゃ。お母様とノエルも呼んできましょ」
女性の着替えの場ということもあり、子どもとはいえノエルには立ち入らないように伝え、ヘンリエットと別室で待機してもらっていた。
チェリーは肘まで覆う
「バーナードさんは、どう、かな……。気に入ってくれるかな」
「どうして急に自信がなくなってるの? 大丈夫よ。ものすごく綺麗で可愛い。兄様はまた、チェリーさんに惚れ直してしまうわ……」
明るい口ぶりでそう言っていたキャロライナであるが、チェリーの顔色が優れないことに気づいて「絶対大丈夫だから、心配しないで」と気遣うように囁いた。
街に出かけた日から、夜会の当日までの十日間。
チェリーとバーナードの間には、どうにもぎくしゃくとした空気が漂っていた。外出から帰宅したときにはすでに、目を合わせない状態だった。
キャロライナは「プロポーズ成功なら、寝室を一緒にするのでしょう?」と言うつもりだったらしいが、あまりに様子がおかしいので言いそびれたとのこと。
一晩やり過ごしてから、翌日チェリーに対して「何があったのか」根掘り葉掘り尋ねてきた。
最初は言い淀んでいたチェリーも、根負けして、ことの顛末を打ち明けた。
――街で、帰り際になって、たまたま以前の知り合いに声をかけられたの。「あんたのラモーナ姉さんの姿が見えなくなって寂しいから、代わりに少し店に立ってみない?」って。そこから急に、バーナードさんの態度が
――ラモーナさんは、歌を歌うお仕事だったのよね? 店員さんもしていたの?
なんと答えるべきか、チェリーは少しだけ悩んだ。ノエルの母で、アストン家に来るきっかけを作ったラモーナについて、チェリーはこれまであまり話すことはなかった。
チェリーは瞬きをして、さりげなく話を続けた。
――「歌姫」よ。とても歌が上手くて、あちこちで歌を歌ってお金を稼いでいたわ。でも、そういうお店に立つような仕事が、バーナードさんはお好きじゃないんだと思う……。「君は、お姉さんと同じことをする必要はない」って、とても厳しく言われてしまったのよ。私は、大切な姉さんを否定されたみたいで、悲しくなってしまって。その後から、バーナードさんと、うまくお話ができなくて……。
――兄様、頭が固いわね。チェリーさんがプロポーズを受けてくれた途端に、夫気取りだなんて。これだから貴族の男は。
それこそ「貴族の男」しか知らないはずのキャロライナが、心底呆れたようにそう言い出したので、チェリーは笑ってしまった。
――怒っているわけじゃないのよ。私も、姉さんの仕事は貴族の方にはあまりよく思われないんじゃないかとは、薄々感じていたから。ノエルがライアンさんの生家ではなく、こちらの家に引き取られたのも、向こうから拒否されたのかもって思ってる。奥様は何も仰らないけれど。
ラモーナをバーナードに拒絶されたような悲しい気持ちは、キャロライナと話しているうちにやわらいだ。
(平民の私を、妻に迎えると言ってくれたバーナードさんですもの。このくらいのことで、その心を疑っている場合じゃないわ。それとも、結婚となるとやっぱり別だ、と思ったのかしら……)
不安を覚えることはあったが、チェリーは自分の歩み寄りが足りないのかもしれない、と考えるようにした。もともと生きる世界が違うのだから、いきなり全部わかり合うのは難しいのだ、時間をかけよう、と。
「チェリーさんは、私の大切なお義姉様で、そのお姉様も私の大切なお姉様よ。いわば三姉妹の長女です。兄様が失礼なこと言ったら、私が怒るわ。兄様もきっと、今頃あれこれ考えていると思うけれど。今日のチェリーさんを見たら、全部吹き飛ぶと思う。行きましょう!」
キャロライナに手を引かれて、チェリーは「ありがとう」と心から御礼を言いながら、バーナードの待つ玄関ホールへと向かった。
* * *
バーナードはここ数日、後悔の真っ只中にいた。
街へ出かけたときに、買い物と食事を済ませてあとは帰るだけというタイミングで、チェリーが知人らしき女性から声をかけられたのだ。「ラモーナの代わりに店に立って」と。
それを耳にして、瞬間的に自分でも制御できないほど、苛立ってしまったのだ。
(「俺の妻に、娼婦をやれと言うのか」と、激昂して怒鳴り散らす寸前だった。口にしなかったのは、最後の理性とはいえ……)
隣にいる自分の姿が、相手には見えていないのか? それとも、自分は彼女の「夫」には見えなかったのだろうか?
苛立ちは、チェリーにも伝わってしまい、かわいそうなほど怯えさせてしまった。
帰り道はほとんど口を聞かない、ひどい状態だった。緊張感の原因はあきらかに自分であり、謝らねばとは思ったが、うまい言葉が何も出てこないまま屋敷に着き、別々の部屋へと向かった。
そこから、忙しさもあってあまり顔を合わせることもなく、十日間が過ぎた。
せめて寝室が一緒であれば、夜に話す時間を作れたのかもしれない。だが、すれ違った状態を解消せぬままそれを切り出すことなど、いかに「夫婦」といえどもできようもなかった。
そんな中、チェリーのドレス一式が、夜会当日までにすべて間に合い、屋敷に届けられた。
さらに、どうも王宮に
さすがにそこまでされては「何がなんでも出席させる」という、何者かによる作為的な配慮を感じずにはいられなかった。
(いまの段階で、その良し悪しまではわからない。すべてを疑ってかかることはできないが……。「夫婦同伴」の厳命も気になっている)
戦時下の前線で、やや長生きしすぎた自分が、軍部でも目立つ存在であった自覚はある。終戦のタイミングで、軍人として遺留もされた。そのときは振り切って、きっぱりと断ってきているが「戦勝パーティーで武功を称える」といった名目で衆目にさらされて、引くに引けない状況に追い込まれる懸念はある。
何が起きるかわからない夜会に、作法に不慣れなチェリーを連れ出すのはバーナードの都合でしかない。本音は「危ない目に遭わせたくないから、家で待っていて欲しい」なのだが、本人が粛々と準備をし、当日も毅然としてメイドに着付けをお願いしている姿を見てしまっては、とても言い出せなかった。
ただでさえ、いまは二人の間に溝がある。
予定していた夜会へ、この期に及んでバーナードから「欠席を」と言えば、チェリーが「他の人に紹介できない妻と思われている」と考えるのは想像に
不安でいっぱいだろうに、この状況で泣き言ひとつもらさず「妻として」バーナードの用件に付き合ってくれるチェリーには、まさに頭が上がらないのだった。
「早く謝りたい……」
何度目ともわからない、重い溜息を吐き出す。チェリーと話さなくなってから、あまりにも胸が痛く、眠りまで浅くなっている。彼女の存在が自分にとってどれほど大きいか、嫌と言うほど思い知った。
(仲直りをしたい。切実に)
支度を終えたバーナードは、チェリーに対して何をどう言おうか悩み、ぐるぐると玄関ホールを歩き回っていた。
ああでもない、こうでもないと頭の中で考えながら、しまいに天を仰ぐように顔を上向ける。
階段を降りてくるドレス姿のチェリーに気がついたのは、そのときだ。
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