第18話 二人の距離
高所の厚いガラス窓から、午後の光が鈍く差し込む中キッチンにてその後ろ姿を目にしたとき、バーナードは「まさか」と思った。
編み込んで頭に巻き付けるようにまとめあげた赤毛に、着古した紺色のワンピース。華奢な肩や、すっと通った背中のラインに見覚えがある。
市場で会って話した女性だ、とすぐにわかった。
ろくにお礼も言えぬまま見失った彼女が、エプロン姿でてきぱきと働いている。
(その可能性があったのか)
互いに名乗らなかったし、あのとき通りすがったジェドも「若奥様」に関しては噂ばかりで面識もないようだったので、気づくきっかけがなかった。
なかったと思う、と自分の言動を思い起こしてバーナードは文字通り頭を抱える。
(一方的に、すごくしゃべった覚えがある……! いつも隣にいたコンラッドがいなくて、ひとりで鉄道の旅をしてきて、帰り着いた安心感というか)
聞かれてもいないことを、ずいぶん話した。完全に浮ついていた。
ついでに言えば、彼女から何か聞かれた覚えがある。答えたつもりだが、何を聞かれたのか咄嗟に思い出せない。
食べ物のことだった……と考え、そこで我に返った。
このまま、いつまでも覗き見をしているわけにはいかないと。
ドアは開いていたので、ノックの代わりに内側の壁をコツコツと軽く叩く。その前に、彼女はすでに振り返っていた。
青い瞳が、大きく見開かれている。
「背中に見覚えがあって、他人の空似かと思ったけど、やっぱり本人だ」
気恥ずかしい思いもあり、照れくさくなって、中途半端な言葉をかけてしまった。
そんな場合ではないと思い直して、胸に手をあてて名乗った。
「バーナードです。市場で先に一度会っていますが、改めて。さきほど、帰り着きました」
視線の先で、赤毛の「若奥様」はエプロンの前掛け部分を両手でぎゅっと握り、「はいっ」と応えた。
(やっぱり、綺麗な声だ)
初めて話したときも、声が良いなと思った記憶があった。
「チェリーと申します。あのっ、おかえりなさいませ。さっきは、勝手に失礼しましてすみませんでしたっ。もしかしてバーナードさんかなって思ったんですけど、言い出しにくくて」
はきはきとした早口で言われて、バーナードは「それはそうだ」と申し訳ない気持ちでいっぱいになり、苦笑した。
「俺の方こそ、ひとと話していなかった反動で、話しすぎました。びっくりさせたんじゃないかな。自分では、そこまでおしゃべりのつもりもなかったんです。ここ数年、口から生まれてきたような奴が、隣でいつもずいぶんしゃべっていて」
戦場では、コンラッドという男が、ずっと一緒で。
そこまで言おうとしたのだが、妙に口が重くなり、最後まで言えずに黙り込んでしまった。
過ぎた日々のことを話題にするのは、思った以上に抵抗があるらしい。たとえそれが、取るに足りない些末な事柄であっても。悲惨な記憶には直結しない、雑多な思い出であっても。心に、引き
不自然に話題が途切れたせいか、チェリーが気を使ったように会話を引き継ぐ。
「私、バーナードさんと話すことがたくさんあるんです。奥様が、つまり子爵未亡人様が詳しい話まではしていないって仰っていました。その、まずはですね」
「うん」
チェリーは背筋を伸ばして、よく響くすっきりとした声で言った。
「どうして私と結婚したんですか?」
* * *
うん? とバーナードが首を傾げた気配があった。
(間違えた……! いまの質問、絶対に間違えた!! 「どうして私と離婚しないんですか」って聞くつもりだったのに)
チェリーは、己の言葉足らず具合に、頭痛を覚える。
結婚そのものは、彼の意思とは無関係に発生しているのだ。「結婚」に対してその「本人不在の間に無から生じた」認識がまずどうなのか、とは思うが。
ここは自分の話をしておかなければ、と焦りのままにチェリーはもう一言。
「私は年金のためです! お金目的なんです!」
口にしてしまってから、しゃがみこみたいほど落ち込む。
始まりはその通りなのだが、本人に向かって宣言するのは大胆不敵過ぎるというもの。
(言い方! 誤解を生まない表現!)
しまった、というチェリーの動揺はしっかり伝わったのか、なぜかバーナードまで焦った顔になり「察してたから、大丈夫」と言い出した。
「遺族年金かなと、思ってた」
正確に言い当てられて、チェリーは誤魔化すところでもないため、頷く。
だが、胸が痛く喉は苦しく、その先の言葉が出てこなかった。
(実のお母様である
ヘンリエットは、決してバーナードの死を望んでいたわけではないと、その人柄を知るチェリーは断言できる。その一方で、いざ死んでしまってから困らないように、先を見据えて冷静に考えて行動したのだ、と理解しているつもりだった。
貴族の習慣はチェリーにはよくわからなかったが、家や財産は血族の男子が引き継ぐらしい。よってキャロライナは継ぐことができず、体が弱く困窮した経済事情もあり持参金が用意できないという不利もあるので、この先まともな縁談も望めない、とのことだった。
寝たきりだったとはいえ、ヘンリエットから学ぶべきことは学んでいたキャロライナは、さすが貴族の事情にチェリーよりよほど詳しく「これからは、本当に大変なことになると思う」と言っていた。
貴族は「高貴なるものの責務」を果たすことが第一であり、当主や跡継ぎが率先して戦地に赴いた家も多く、かなりの犠牲者が出ていること。また、本来なら後継者にはなり得ない次男・三男といった兄弟たちも、職を求める意味合いで軍人となり戦地に向かい、やはり多く亡くなっているらしいこと。結果的に、男子が揃って命を落とし、後継者が見つからぬまま国に財産を差し押さえられ、消滅する家もあるだろうとのことだった。
一方で、ノエルのように出自におぼつかないところがあっても引き取られていく子どももいるはずで、どこにどんなひとが入り込むかもわからない状況になるだろう、とも。
その意味では、血縁のノエルを野垂れ死にさせることなく保護したヘンリエットは、貴族として当たり前のことをしており、他家に渡すくらいなら直系と偽ってでも囲うのも戦中・戦後の混乱期を見越して考え抜いての行動である、という。
チェリーはその説明に一応納得していたが、生きて帰ったバーナードが、心情的にそれを受け入れられるかはわからなかった。
どこから話すべきか悩み、まずは発端のノエルの話をすることにした。
「私には姉がいました。戦地を慰問したときに、バーナードさんの従兄弟にあたる、ライアンさんと知り合ったそうです。二人の間に生まれた子がノエルで、姉が死んだ後は私が育てていました。子爵未亡人様は、ノエルを引き取りたいと私に言ってくれて……」
しかし、そこから結婚に至るまでの「バーナードが死んだ場合、ノエルを当主に立てるにあたり、ノエルがバーナードの子でその母親はチェリーであった方が都合が良かった」という説明が、また難しい。
言葉のひとつひとつが重く、うまく話すことができない。
脂汗がにじんでくる。
黙って聞いていたバーナードであるが、そこでさりげない調子で口を挟んできた。
「顔色があまり良くない。座った方が良いんじゃないか。水でも飲んで、ひといきついて。コップはたしか……」
距離を詰めるのを遠慮していたように、キッチンの戸口に立っていたバーナードが一歩、足を踏み入れてくる。
その様子を見ながら、話が逸れたことで、思いがけないほどほっとしてしまった。
緊張が途切れたことで体中からどっと力が抜けていく。チェリーは足がふらつくのを感じたが、そんな場合ではないと自分を叱咤する。
(帰ってきたばかりのバーナードさんに、仕事をさせるわけにはいかない。キッチンのことなら私がわかっているんですもの)
自分でやりますから、と断ろうとする。
勢いよく歩き出したところで、目の前がさあっと真っ暗になって、一瞬意識が遠のいた。
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