第17話 白い花の活けられた部屋
レモングラスを使った石鹸で、髪と体にまとわりついた汗と埃を洗い流し、清潔なシャツに腕を通して身なりを整えると、ずいぶんとさっぱりした。
洗濯担当のマリアが現れて、着古した軍服を引き取りながら「ぼっちゃん、よくぞご無事で」と涙を流し、それを目の当たりにしてようやく自分が戦地から生きて帰ってきたことを実感した。
(母上さまもキャロライナも、そういうところはのんびりで、出迎えてはもらったけど感動が薄かったからなぁ。号泣して抱き合うわけでもないし。なんだか俺も少し街に出かけて、帰ってきただけのような気分になりかけていた)
ヘンリエットがあのいかめしい表情を歪め、泣くところなど、想像もつかない。あまりにも記憶通りで、かえって安心したとも言える。
井戸のそばで直接水を浴びて、遠巻きにつかず離れずうろうろしながら話しかけてきていたキャロライナたちには「あとで」と告げて別れてから、二階の自分の部屋へと向かう。
鍵はいまどこにあるのかなと思ったが、真鍮のノブに手をかけるとドアはあっさりと開いた。
窓からの風が、花の香りをのせて空気を揺らし、鼻腔をくすぐった。
「この部屋まで、掃除をしてくれていたのか」
埃っぽさやカビの匂いを覚悟していたのに、ドアの向こうの空気は清浄そのものだった。
天蓋付きのベッドに近づけば、枕元にはラベンダーのポプリを詰めた香り袋が置いてあり、優しく香っている。
今日帰ってくると、正確な日付が伝わっていたわけではないはずなので、いつでも良いように準備してくれていたのだろう。
清潔そうなベッドに腰掛けてから、鈍い光の差し込む窓へと、目を向けた。
そよそよと吹く風を頬に感じる。
鳥のさえずる声に耳を澄ませれば、もうここは戦場ではなく、息を潜めて暮らす必要もないのだと、あらためて実感がこみあげてきた。
守りたかったものが、思いもかけぬほどしっかりとそこにあって、心の底からほっとした。全身から力が抜けていく。
(屋敷が燃えていなくて、良かった。家族が変わらずここで生きていて、帰る場所があって。……キャロライナは本当に、前よりも丈夫になったみたいだ。料理が良いと言っていたが)
これが「妻」チェリーのなしたことであるのは、バーナードにもわかる。母にも妹にも、マリアにもこの方面の才覚はなかったと思うのだ。
どういう経緯なのかはわからないが、この家にノエルとともに転がり込んできた「赤毛の若奥様」は、たしかにやり手らしい。
丁寧に縫われたネルシャツも、肌になじむ着心地で気持ちが安らぐ。
荷物から手紙と指輪を取り出し、ひとまず指輪だけ胸のポケットに入れた。
「料理か。腹減ったな。そういえば何も食べてない」
切なく軋む腹部を手でさすり、バーナードは呟いた。
キッチンに行けば何かあるかもしれない、と期待しつつそれ以上に気にしているのは、もちろん「妻」チェリーのことだ。
市場に行っているとは聞いたが、さきほど顔を合わせたマリアは、もう帰ってきていると言っていた。さほど広い屋敷でもないので、会おうと思えば会えるはず。
ふと、ベッドサイドに目を向ける。
磨き上げられた木製の丸テーブルに、乳白色の小さな瓶がひとつ。緑色の葉と、白く細やかな見た目が可憐なエルダーフラワーが活けられていた。新鮮そのもので、今しがた置かれたばかりではないかと思い至る。
(窓を開けるついでに? それとも、俺が帰ってきてから庭にいる間に、置いていってくれたのか? すれ違ったか)
まだ近くにいるかもしれない。
手紙をテーブルに置くと、風で飛ばぬように端を花瓶の重みでおさえてから、バーナードは部屋を後にした。
* * *
バーナードが庭にいるタイミングを見計らい、花瓶を部屋に置いて一目散に引き上げてきた。
小走りに廊下を進みながら、食べ物にしておけば良かったと思いついて、チェリーは早速後悔をはじめた。
(何か召し上がってるのかしら? お腹すいてるって言ってたのに。ビスケットとお茶の方が、絶対に嬉しかったと思う。もっと早く気づけば良かった)
シャツも、キャロライナが渡してくれていたようだが、何かと心もとない。屋敷に残っていた彼の衣類を確認してから縫ったものの、サイズは大丈夫だっただろうかと、心配事が尽きないのだ。
気になることが多すぎて、そろそろ胃が痛くなりそうだとくよくよしながらキッチンへと戻った。
晩御飯のメニューは、市場に向かう前に決めていた。
きのことマッシュポテトのパイに、チーズを練り込んだ
キッチンの棚の端から端まで見て歩き、蓋付きの深皿や壺の中まで材料の在庫を確認する。
「市場で何か食材見てくるつもりだったのに、焦って帰ってきちゃったからなぁ……。『あれ』も結局わからずじまいだし。バーナードさん、何が好きなんだろう」
本人に素直に聞くのが一番無駄がなく確実、とわかっている。この期に及んで、サプライズを企図する必要性はない。
顔を合わせづらいのはチェリーの問題であって、ヘンリエットに「ノエルの説明をお願いします!」と押し付けるくらいなら、さっさと自分で話してきた方が良いのもわかっている。チェリーにとってヘンリエットは尊敬の対象であり、本来ならお願い事などしてはいけない存在なのだ。
(奥様、ものすごく落ち着いてらしたわ。さすがよねえ、表情が変わらないんですもの)
久しぶりに帰ってきたバーナードに対して、謹厳実直ないつも通りの態度を貫いていた。アンドリューズに理知的に話しかけているのも、普段と変わらず。やっぱりただものではない、と尊敬の気持ちを新たにする。
「うん。ぐずぐすしないで作っちゃおう。お疲れで今日は早くお休みになるでしょうし、早めの晩ごはんが良いわ」
せっかくだから一品料理を足そう、何が良いだろうとあれこれ思い浮かべ始めたそのとき、ふっと奇妙な予感めいたものが胸をよぎった。
風の流れが変わったような、不思議な感覚。
「……?」
振り返る。
まさにそのとき、開け放たれたキッチンの戸口に立った人影が、ドアをノックする代わりに内側の壁をコツコツ、と手首をしならせ指の関節で叩いていた。
少しくすんだ金髪に、年齢のわかりにくい優しげな顔立ち。
身につけているのはチェリーの縫ったシャツ。
言葉を失ったチェリーに対して、バーナードは戸口に軽くもたれかかりながら微笑を浮かべた。
「背中に見覚えがあって、他人の空似かと思ったけど、やっぱり本人だ」
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