第16話 妻の気配、夫の気配

 バーナードとキャロライナたちの気配がなくなったところで、廊下から息を潜めてうかがっていたチェリーは、玄関ホールへと飛び込んだ。


「アンドリューズ! いたずらっこなんだから! 今度逃げ出したら、バターでこんがりローストにするわよ!」


 ばさささっと羽ばたいて逃げようとしたアンドリューズを、さくっと手際よく捕まえる。

 アンドリューズは、屋敷内の一室で飼育している。

 実は、アンドリューズが解き放たれてしまったのは、チェリーが通りすがりに卵があるかと飼育場所をのぞいた際のちょっとしたミスだった。慌てて、捕まえるべく追いかけてきたのだが、行き着いた先は玄関ホール。バーナードの前に出る勇気がなく、出そびれていたのだ。


 チェリーに幸いしたのは、全員浮足立っていたので、アンドリューズを捕まえるのを忘れたまま集まった面々が解散してしまったことである。

 その場に残ったヘンリエットは「部屋にお帰りなさい。だめですよ」とアンドリューズを言葉でさとしていたが、チェリーが現れて引き取ったことで、ほっとしたように息を吐き出していた。


「チェリーさん、おかえりなさい。あなたが帰るより先に、バーナードがこの屋敷に戻りました」


 本当にたった今まで、ここにいたのですよ、と真面目な口ぶりで言われる。


「はいっ」

「今後のことですが」

「あのっ、バーナードさんには、なんて伝わっているんですか? 結婚のこと。あと、ノエルのこと!」


 クエエエエッ! と腕の中で暴れるアンドリューズを押さえつけながら、必要事項を確認した。

 ヘンリエットはかすかに片方の眉をひそめて「あるがままに」と答える。


「戦地への手紙は、中をあらためられることもあります。ですから、簡潔に。『チェリー・ワイルダーさんとの結婚の手続きは無事に済みました』と伝えました」


 細かく書いて年金狙いの偽装結婚とばれぬよう、最低限の内容にしたという意味らしい。


「なるほどですね! ではノエルのことはご存知なかったんですね、バーナードさんは!」


 チェリーが何を気にしているのか、そこでヘンリエットは察したらしい。鷹揚に頷いて言った。


「ライアンの子とは、伝えておりませんでしたね。あなたとバーナードの子で、ライアンの子であると言っておく必要があるでしょう」


「親の数が合わないです! 私の姉とライアンさんの子で、戸籍上は私とバーナードさんの子ですよね!? たぶんそこから説明しないと、親の数が合ってないです!」


 もう少しそこは整理してですね、とチェリーは主張する。

 その間にも、アンドリューズがやたらめったらくちばしで突き刺してくるので、たまったものではない。


「とにかくですね! そこ、もしできましたらぜひご説明をお願いします! 私から言うと、ややこしくなりそうなので! いたたたた、アンドリューズいたい、今日にでもオーブンにつっこまれたいのかしら? まずは食事の支度をしてきますので、失礼します!」


 言うだけ言って、チェリーはその場を後にした。

 痛い痛いと、暴れるアンドリューズとやりあいながら、廊下を走る。


(今後のこと!? 私はてっきり離婚するものだとばかり思っていたのに、バーナードさんは完全に「妻」がいるつもりで帰ってきてるんですけど……!?)


 彼が市場で買い求めていたあの指輪は「誰か他に想い人がいる」とか「将来を誓いあった幼馴染がいて、その相手に渡すために買っていた」などと、ほんの少しでも誤解の入り込む余地があったら、チェリーはそう思い込もうとしただろう。

 しかし、彼は真っ正直に書類上の妻であるチェリーを「妻」として扱う心づもりのようであった。

 戦地にて手紙を受け取ったという、それだけで。


「どうしましょう、アンドリューズ。結局、あの方が何を食べたいかも、突き止められていないの。あなたがパイになる?」


 グエエエエ! と鳴き喚き、アンドリューズはチェリーの手の中から飛び立とうとした。

 どうにか押さえつけながら、チェリーは「素敵ね、あなた本当は言葉がわかってるでしょう? やっぱりパイになる?」と質問と意思確認を繰り返した。

 もはや鶏相手に何を言っているのか、自分でもよくわかっていない。


 雌鶏のジュネヴィーブの待つ部屋へたどりつくと、アンドリューズを放り込み、ドアをばたんと閉める。

 そのまま背を戸板に預けて、改めて「あわわわ」ともう一度慌て始めた。


「どうして!? 離婚しないの!? 私、このままだと、結婚してることになるのかしら……!?」


 実在する「夫」本人を目にして、急にその実感が湧いてきてしまった。人妻の。

 離婚には応じるし、出て行けと言われたら出て行く。そのつもりはあったのだが、まさか「そのまま妻として屋敷に留まる」パターンは想定していなかったのだ。

 考えないようにしていた、とも言う。


「子犬……」


 またもや失礼なことを口にして、違う違うと首を振る。

 市場で見かけた彼は、痩せてはいたが、肩幅が広く、近づいてみると思った以上に背が高かった。

 晴れ上がった青空を背景に、くしゃくしゃの金髪を埃っぽい風になびかせ、翠の瞳を細めて優しげに微笑んできた。初対面で他人のチェリーに、実に礼儀正しく丁寧な言葉遣いで接してくれた。気さくで明るくて……。


 何度思い起こしても、やはり妙なずれを感じる。


 ヘンリエットやキャロライナと生活する中で、この家で育ったバーナードがよもや極端に粗野な人物とは思っていなかったが、長い戦場暮らしで、激戦区を生き抜いた強者なのである。

 まさか、あれほどのどかで温厚そうな青年が現れるとは、考えもしなかった。

 さすがアストン家といったところ。


(ノエルと似ていると奥様が言っていた意味が、わかったかも。私より五歳年上のはずだけど、あどけなくて、毒がなくて。あの方が私の……夫!? 夫婦ってなに!?)


 どぅん、どぅん、と背にした戸板が揺れる。アンドリューズかジュネヴィーヴの体当たりだろう。

 庭に放っておくと泥棒に連れ去られそうという理由で、一階の一室を徹底的に改造して屋内で飼っているのだ。自分では名案だと思っていたが、バーナードには「なんてことしているんだ!」と怒られないだろうか?


「他にも……! 屋敷中、あちこちいじってしまっているの……!」


 すべて良かれと思ってのこととはいえ、出ていったときと様変わりした屋敷の様子は、彼の目にはどう映るのだろう。

 耳をすませば、庭の方からかすかに話し声が聞こえてくる。


 ノエルの澄んだ声、やわらかな笑い声はキャロライナ。

 これまでとは違うのは、そこに低い声が混ざり込んでいることだ。

 何を話しているかわからないが、落ち着いた話し方だ。バーナードだ。つまり、チェリーの夫だ。


「どうしてあのタイミングで会ってしまったの……。いまさらどんな顔をして会えばいいの」


 会わないわけにはいかない。

 結論は出ているのに、覚悟が追いつかない。

 市場で会ったときに逃げなければ、そもそも、あの時点で会っていなければ。彼が自分のために、指輪を買っているなど知らなければ。ブレスレットを受け取っていなければ。


(ブレスレット……)


 エプロンのポケットに入れている。そうっと取り出して、よく見ようと目を凝らしてから、どぅん、と背中に体当たりの衝撃を感じてすぐにエプロンにしまいこんだ。


「水浴びのあとは、一度お部屋にお戻りになるわよね。お迎えの準備はしていたけれど、もう一度チェックしておきましょう」


 ぶつぶつと自分に言い聞かせながら、チェリーはキッチンへと向かった。



 * * *



 嵐が通り過ぎた後のような、静けさ。

 チェリーがアンドリューズを抱えて立ち去った後、ヘンリエットは無人になった玄関ホールを見回した。

 目を閉ざす。

 そっと指で目元を拭い、やがて両手で顔を覆った。

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