第15話 澄んだ空気
「このひとだぁれ?」
くしゃくしゃの金髪に、きらきらとした翠の瞳。
キャロライナと手を繋いで玄関ホールに現れた小さな子どもを前に、バーナードは目を
「ほんとに子どもがいる。小さいけど、結構大きい」
「やだわ、お兄様ったら。この子がノエルです。お兄様の子ですよ?」
くすくす、と笑いながらキャロライナが楽しげに言う。上目遣いに「忘れてしまったんですか?」とばかりに見られて、バーナードはうぅむ、と唸り声を上げた。キャロライナはノエルという子どもを見下ろして「ダディですよ」と早速教え込んでいる。
(どうも俺のあずかり知らぬ事情がありそうだが、子どもを差し置いて、子どもの目の前で大人の話をするのも気が引けるな)
しゃがみこんでノエルと目を合わせて、まずは「こんにちは。はじめまして」と挨拶をした。
「だれ? ダディ?」
「そうなのかもしれない」
覚えは全然なかったが、子どものいたいけな瞳に負けた。何かしら期待されているのに、「お前など知らん!」と突き放してはいけないと、両腕を広げて迎え入れようとする。
すうっと、ノエルは身を引いて、キャロライナのスカートの陰に隠れた。
「知らないおじさん」
ノエルから見たらそうよね、とキャロライナがその言い分を全面的に認めた。
片膝を床につき、両腕を広げたまま、バーナードはしばし固まっていた。やがて、聞き覚えのある咳払いが上の方から耳に届き、すみやかに立ち上がる。
「母上さま。長らく不在にしました。いま、戻りました」
「はい。大変ご苦労さまでした。今日はゆっくり休んで、英気を養ってください。明日は、朝寝坊してもいいですよ」
相変わらずの堅苦しい表情を目にして、懐かしさがこみ上げてくる。
立ち上がって、大股に歩み寄り、玄関ホールの階段を下りてくる途中のヘンリエットを抱きしめた。
「朝寝坊は贅沢ですね! そうだな、久しぶりに少しゆっくりしてみたい」
そう言いながらヘンリエットを離して、階段からぐるりと周囲を見回す。
記憶と比べてみれば、玄関ホールにあったはずの絨毯や壺、絵画やベンチといった物が姿を消しているようだった。だが、思ったほどうらぶれた印象はない。むしろ、バーナードが住んでいた頃よりも掃除が行き届いていて、妙にこざっぱりとした清潔感があった。
「俺が出ていく前より、キャリーが健康そうというのも……」
バーナードが呟くと、キャロライナがすかさず「チェリーさんのお料理が美味しいんです!」と笑顔で答えた。
出た、とバーナードはその名にぴくりと反応をする。
(やり手の、若奥様か。「赤毛」なんだっけ。容姿の特徴は、初めて聞いたな)
剃りきれていないヒゲの散った顎を指でしごきながら、思い出したのはさきほど市場で会った「親切なひと」である。
赤毛の女性だった。耳に馴染む、透き通った声をしていた。
帰りの道すがら「赤毛の妻」を想像してみようとしたが、会ったばかりの相手の印象が鮮烈すぎて、浮かぶのは彼女の顔ばかりだった。ジェドと話しているうちに、すごい勢いで逃げられてしまった。
お礼のつもりとはいえ、装飾品を渡すのはまずかったかな、と胸がざわつくものを感じながら、彼女のことは忘れようと試みる。違う女性を思い描くのは「妻」に対して、失礼だろうと。
目を伏せたそのとき、視界に妙な動きをするものが入り込んできた。
コッコッコッ コココッ クエッ
白い毛の生えた尻をふりふりしながら、頭をかくかくと前に突き出して通り過ぎていく。
鶏である。
「アンドリューズ、あなたまで兄様のお迎えをしてくれるの?」
キャロライナが、鶏に声をかける。ノエルは甲高い歓声を上げると、満面の笑みを浮かべて「アンドリューズ!」と鶏に突進していく。
「クエッ!!」
鶏は鋭い一瞥をノエルにくれてから、バサッと翼を広げた。
(まさか、飛ぶのか!?)
息を詰めて見守るバーナードの前で、アンドリューズはノエルに翼を掴まれて「グエエエエ!」と非難がましく鳴いてから、くちばしで襲いかかる。ノエルが飛び上がって手を離したすきに、翼を畳んで床を踏みしめながら走り出した。
クエッ コココッ コココココッ クエッッ!
「……飛ばなかった……」
いかにも飛びそうだったのにと思いながら、バーナードはひとり呟きつつ、不満そうに鳴き喚いているアンドリューズを視線で追いかける。
「兄様、アンドリューズを捕まえられるかしら?」
ばさっと白い羽が舞った。
キャロライナは、ノエルと一緒になり、心ばかりといった緊迫感のない様子で鶏を追いかけている。立ち尽くしているバーナードの前を通り過ぎるときに、兄の存在を思い出したらしく、のんびりと声をかけてきた。
「アンドリューズは、その……この家で暮らしているのか?」
事態をうまくのみこめぬまま、妙な確認をしてしまった。鶏が屋敷の中を走り回っているということは、家族の仲間入りなのか? と。
キャロライナは「そうなのよ」とおっとりと微笑む。
「アンドリューズは雄鶏で、他に雌鶏のジュネヴィーヴがいるの。ジュネヴィーヴは卵を生むけれど、アンドリューズはごくつぶしの無駄飯ぐらいだから、そのうちパイにするってチェリーが言ってたわ」
「男の人生が波乱に満ちて報われにくいものなのは、種族を問わないのか」
胸にくるものがあったが、それはそれとして「パイのためならば」と、バーナードは慎重な足取りでアンドリューズと距離を詰める。
「クエッ?」
お前は誰だ? と言わんばかりのつぶらな瞳で見返され、バーナードは「うっ」と胸に痛みを覚えた。
申し訳ない気持ちがこみ上げてきたが、ほだされてはならぬとまっすぐに見つめる。
(俺はお前を食べる男だ。チキンパイ、実に美味そうだ)
好みだけで言えば、羽をむしって丸焼きにしたローストチキンも良いと思う。ハーブやマーマレードで作ったマリネ液に漬けて焼くのも良いし、にんにくバターやオレンジのスライス、ミックスハーブを裂いた腹に詰めて焼いたのもたまらなく美味しい。
鶏は美味しい。
「ククルゥ……」
アンドリューズに警戒されている気配をばしばしと感じつつも、バーナードはそろそろ、と近づく。この上なく、真剣だった。
背後で、ヘンリエットが「んんっ」と咳払いをした。
「食べませんよ」
「母上さま、それは殺生というものです」
完全に、晩餐目的でアンドリューズ捕獲に動いていたバーナードは、物悲しい顔でヘンリエットを振り返った。
「食べませんよ。雌鶏と雄鶏を飼っているのは、増やすためです。食べたらそこまでですよ」
いかめしい顔つきをしたヘンリエットに、一切譲るつもりのない口ぶりで言われ、バーナードはわかりやすく肩を落とした。
食べられると期待してから、食べられないと知るのは辛いのである。
ちらっと未練がましく目を向ければ、アンドリューズは「クルルッ!」と勝ち誇ったように喉を鳴らしていた。
(いつか絶対食べてやるぞ。覚えていろ)
余裕綽々の態度で「コッコッコ」と首を振りながら、アンドリューズはバーナードの前を通り過ぎていく。
その後ろを、ノエルが「お部屋に戻りなよー」と追いかけていた。キャロライナは、兄の落胆を心配するように、真剣な口ぶりで言ってきた。
「大丈夫よ、兄様。チキンがなくても、チェリーさんがとても美味しい晩ごはんを用意してくれているわ。チェリーさんは本当に、お料理がお上手なの」
ふわっと鶏の羽の舞う中で、微笑んだキャロライナの表情はなぜか我が事のように誇らしげだ。
「そうだ。チェリーさんに挨拶しないと。どこにいるかな?」
言われたから、思い出したわけではない。
帰り道でも、屋敷に近づいてからも、玄関ホールにたどりついてからも、ずっと頭の中にはその名前があったのだ。言い出すタイミングをうかがっていただけに、名前が出てほっとする。
(結婚した詳しい事情は、結局知らずじまいだ。子どものことも。だけど……屋敷の空気が明るい。とにもかくにも、お礼が言いたい)
キャロライナの信頼しきった様子も、屋敷の中の素朴ながらも華やいだ気配も、バーナードにとっては安心できるものだった。
手紙の印象はややぶっきらぼうな「妻」であったが、やはり悪いひとなわけがない、と納得する。
「チェリーさんは今日はねえ、市場にお買い物に行くって言ってたわ。もう帰ってきていても良い頃よ。普段なら、アンドリューズが逃げ出してもチェリーさんが捕まえてくれるのよね。姿が見えないってことは、まだ帰ってないのかも」
「そっか。じゃあ、俺はひとまず部屋に……。いや、庭で水浴びでもしてくる。だいぶ埃っぽいから、歩き回るとそこらじゅうを汚してしまいそうだ。せっかく、掃除が行き届いているのに」
表門をくぐったときに、屋敷の雰囲気に荒んだ様子がないと感じた。前庭は妙に整然としていた。あれはなんだっただろう? 畑か? と、今更ながら気になりだす。
さらに玄関ホールに入ってみれば、空気が澄んでいるのがわかった。汚してはいけない、と感じたのは本当だった。
一方で、使っていない部屋を片付ける余裕はさすがになかっただろうとも思う。
閉め切った自分の部屋の惨状を想像すると、まっすぐ向かう気にもならない。
何やらぴんときた様子のキャロライナが「それなら、お着替えを持ってくるわね! 兄様はお庭へ先に行ってて!」と階段を登りだす。ノエルも、その後に続いた。
「着替え?」
「チェリーさんが、兄様のシャツを縫ってくれたの。せっかくだから、新しい服をお召しになるといいわ。チェリーさんの作ってくれた石鹸もあるわよ。それからね……」
バーナードの帰りを待つ間、「妻」であるチェリーは「夫」のために、ずいぶんとたくさんのものを工夫して用意してくれていたらしい。
(参ったな。俺は指輪ひとつだ。新しいシャツと石鹸に全然かなう気がしない)
俺の妻はいったい何者なんだ? と首を傾げるバーナードに、ヘンリエットも「そうですね。まずは綺麗にしてらっしゃい」と言ってくる。
捕獲を免れたアンドリューズは、喉を鳴らして悠々と歩き回っていたが、もはや誰も関心を払ってはいなかった。
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