第19話 裏庭ティータイム

 どさ、と物が落ちるような音を暗闇で聞いた。


「危ないっ」


 淡く、レモングラスが香る。

 浮遊感に包まれて足が空を蹴り、チェリーはぱちっと目を開いた。

 変な角度から、ひとの顎が見えた。その向こう側に、天井。体が持ち上げられていて、自分の足で歩いていないのに、移動している。運ばれている。


「えっ。なにっ!?」

「倒れた、ように見えた。頭を打つ前に受け止めたつもりだけど、大丈夫? どこか痛い?」


 揺れが止まった。チェリーを抱きかかえたバーナードが、足を止めたせいだ。しっかりとした腕の感触や、引き締まった硬い胸板、彼の体温を布越しに感じて、チェリーは「ひえっ」と体をこわばらせた。


(物が落ちる音じゃなくて、自分が倒れた音だった! どこか痛い……痛くない? ぶつける前に、キャッチされた、と思う)


 衝撃は、彼の腕にすべて吸収された。


「大丈夫そうです。重いので、持たなくて良いです……」


 最近はノエルを抱えるのも大変になってきた、という実感のあるチェリーはそう言ったが、バーナードはきょとんとして見下ろしてきた。


「何も持っていないくらい、軽い。これまで人間はたくさん運んできたけど」


 そうなんですね、と相槌を打とうとしたが、声が出なかった。と比べてチェリーを軽いと言っているのか、さすがにわかってしまった。おそらく装備を身に着けた成人男性、それも意識がない状態を想定してのことのように思う。

 その話題に触れて良いかわからず、ひとまずチェリーは軽く身じろぎをした。


「立ち眩みしたみたいで、一瞬気が遠のいたんですけど、もう本当に大丈夫です。床に下ろしてもらえれば」

「外にベンチがあったはず。まだ、そのままあるかな」


 バーナードは独り言のように呟くと、大股にキッチンを横切り、チェリーを片腕に持ち直しながら、安定感を失わぬまま片手で裏口のドアを開ける。

 目の前には家庭菜園が広がっており、風景を見晴らせるすぐそばの壁沿いに、古ぼけた木のベンチがあった。チェリーが屋敷に来るより前にあったもので、作業の合間にたびたび腰を下ろすのに使っていた。

 さすが勝手知ったる我が家、バーナードは迷いのない足取りでベンチに近づき、そっとチェリーを下ろすと、顔をのぞきこんできた。


「座って休んでいた方がいい。いま、飲み物を持ってくるのでそのままで、動かないで」


 言うだけ言うと、さっさと立ち去ろうとしたので、チェリーは声を振り絞って呼びかける。


カラス麦オーツのビスケットならあります。キッチンに」

「わかった」


 食べてください、まで言えなかった。


(通じたと思っておきましょう……)


 ふわっと緑の匂いをたっぷり含んだ風を肌に感じて、チェリーは息を吐きだした。

 菜園の向こう、立ち並ぶ木々の梢を見上げて、目を細める。

 これまで、ずっと気を張って生きてきた。自分が倒れるわけにはいかないと、決定的に体調を崩すこともなく。それがよりにもよって、バーナードの帰ってきた日にその目の前で倒れかけるなんて。

 休んでいる場合ではない。そう思うものの、立ち上がる気力がない。


「めまぐるしかったから、かなぁ」


 感情の揺れが。揺れすぎて、コップの縁から水があふれ出すみたいに、限界を迎えた感情はいまもまだ、ぐらつきっぱなしだ。

 離婚するつもりだったのに。出ていくことになると、思っていたのに。

 もし屋敷に残してもらえるとしても、バーナードと夫婦になるとは考えもしなかったのだ。


(いくら戦後のどさくさだからって、私はド庶民なのよ。結婚? 貴族の若様と結ばれて、あっという間に死んだ姉さんは悩む間もなかったかもしれないけど、大ごとすぎる)


 キャロライナの説明を聞いた限り、いま現在どこの貴族も後継者不足にあえいでいるはず。

 当主が戻った家があると聞いたら、何がなんでも結婚しようという貴族のお嬢様たちがバーナードに熱い視線を送るのは確実と思われた。


 ――自分が庶民だから、なんてこの際考えないで。どこの貴族もお家存続のために必死の時代に、アストン家は、ノエルとチェリーさんが来てくれたことで、この一年なんとか乗り切ることができたのよ。戦争が終わったからといって、兄様に別の縁組をだなんて、私は考えられないわ。


 キャロライナは力強くそう言っていたが、ヘンリエットや当のバーナードが同じ考えかは、わからない。チェリーは、決して楽観視しないようにと自分に言い聞かせてきた。


(バーナードさん本人は、アストン家を立て直すために、持参金つきの貴族のお嬢さんと結婚を望むかもしれないでしょうし……と、思っていたのに。その方が家のためになるでしょう?)


 まさか、ばか正直にチェリーをそのまま「妻」に据え置くつもりだとは。もしかしてまだ、チェリーがド庶民だとか、持参金など一切ないということを、知らないからなのではないか? 知ってしまえば、考えがガラリと変わるのではないか?


 当然のごとくそう思う一方で、チェリーに対して居丈高に指図することもなく、体を気遣ってくれた様子からは、真面目で誠実な人柄がうかがい知れる。

 市場で出会ったときに、手紙を大事に持っていたのも気になっている。


 キイっと、蝶番ちょうつがいの軋む音がした。


 陶器のジャグとコップを盆にのせたバーナードが、裏口から姿を見せて、チェリーの待つベンチまできびきびとした無駄のない動作で近づいてきた。


「作り置きのお茶があったから、持ってきた。ビスケットはこれかな。瓶の中にジャムがあったから、一緒に」


 チェリーに見せながら盆をベンチに置き、自分も腰を下ろす。

 まさに、彼のために用意しようと考えていたセットそのままで、チェリーは目を丸くしてから、ふきだしてしまった。


「すごいです。何がどこにあるか、何も言ってないのに」

「キッチンには、子どもの頃からずいぶん出入りしていたんだ。物の位置は、変わっていてもだいたい想像がつく。戦場では料理もしていたから、ある程度なら作れる。そうだ、何か食べたいものある? 俺の料理は結構好評だったよ」


 ごく普通の口ぶりで言いながら、コップにさめたお茶を注いで、チェリーに差し出してくる。


「バーナードさんが、料理をなさるんですか?」

「できるし、帰ってからもそうなるだろうと思っていた。料理人なんてしばらく雇う余裕もないだろうし、俺も作らないと、せっかく覚えたのに忘れそうで」


 キッチンに立つつもりだろうか? と不思議に思いながらチェリーは「今は私が作っていますよ」と言った。


「バーナードさんは、他のお仕事がお忙しいのでは?」

「仕事なぁ……」


 バーナードは、のんびりと呟いて、ふと辺りを見回した。


「……これは畑?」


 丈の低い草葉の間に、白い花が揺れている。じゃがいもだ。


「いろいろ植えているんです。ここは裏庭ですが、前庭にも。食べる他にも、教会に寄付をしたり、物と交換してもらったり。去年から始めたんですが、たしか連作障害というのがあると、父が言っていたと思います。だから、続けるなら畑を広げたり、作物を変えたり、やることはたくさんあるんですが」


「チェリーさんひとりで?」


「そのうち、ノエルが手伝ってくれると思います。キャロライナさんも興味あると言ってくれていますが、無理して倒れてもいけませんので」


 聞かれたことに答えながら、バーナードの分のお茶をコップに注いで渡す。「ありがとう」と受け取り、ひといきに飲み干していた。空のコップを受け取り、代わりにビスケットにたっぷりとワイルドベリーのジャムをのせて渡した。

 ひとくち食べて、「甘酸っぱい」とバーナードは顔をほころばせた。


「ワイルドベリーは庭にたくさんあるんですが、これはお砂糖を使っていないので、日持ちしないんです。全部食べてしまってください」


 もうひとつ、ビスケットにジャムをのせて渡す。バーナードが食べている間に、お茶を注ぐ。


(やっぱり、お腹すいているって言っていたものね)


 嬉しそうに食べる姿に、心がほわっとあたたかくなるのを感じた。


「お茶はこれ、いろんなハーブを混ぜてるよね? ミントが効いてて、すっきりして飲みやすい。そうだ、石鹸もすごく良かった。シャツもありがとう。部屋の掃除まで。出ていく前より綺麗で、良い匂いまでして本当に自分の部屋か? って。すごく嬉しくて、どう感謝を言い表せば良いかわからないくらい。チェリーさんは、なんでもできるんだなぁ」


「私は、たまたま田舎育ちというだけですよ」


 矢継ぎ早に褒められてお礼を言われて、反応に困った。ついそっけなく答えてしまってから、チェリーは口を閉ざす。

 お茶をひとくち飲むうちに、じわじわと照れが意識されて、頬が熱くなるのを感じた。

 心の中では、叫んでいた。


(バーナードさん、話しやすすぎるんだと思う……! お互いに質問して答えてを繰り返しているけどこれ、世間話! 私たちはまだ大切な話をしていない……!)


 まずは、重大な問題について話さなければ。

 やはり、ここは自分から切り出そう。そう決意するまでに、少々時間を要した。

 黙り込んだままになってしまった、と気づいて横をうかがう。


 バーナードは、コップを手にしたまま、ベンチの背もたれに背を預けて、目を閉ざしていた。

 くすんだ金髪が、そよっと吹く風にかすかに揺れる。


「……寝てる」


 チェリーは、手の中からそうっとコップを抜き取った。起きる気配はない。

 音を立てないように立ち上がり、ビスケットもジャムも食べ終わっていることに気づいて盆を手にする。

 帰り着いて、水浴びをして、小腹を満たしたら疲れが出たのかもしれない。


 一方のチェリーは、座って休んだせいか、妙に心身がすっきりしていた。

 バーナードはこのまま寝させてあげようと思い、キッチンへと引き返す。

 さて、それでは晩ごはんの準備を、というところで「ああ」と思わず声がもれてしまった。


「また、『あれ』を聞きそびれちゃった」


 次に話す機会があったら、きちんと聞かないと。

 彼とは、話すことが、多すぎる。余計な話をたくさんしてしまって、肝心なことは言えずじまい。手紙では、用件のみのやりとりしか、していなかったというのに。


(ご自分で料理を作るって、私に好物を聞いていたわよね? どうしよう、私も答えた覚えがないな~。どこで話がそれたんだっけ。たくさん話して、時間は過ぎていくのに、実になる話が何もない……。バーナードさんは、どう思ったかな)


 考えると不安になりそうだったので、チェリーはそこでひとり反省会を終えた。

 とりあえず好物の「あれ」は早めに聞くとして、今日のところは、まずは用意できるものにしよう、と決める。食べっぷりが良かったから、できるだけたくさん作っておこうと。


 彼の、あの幸せそうな顔をまた見たいなと胸に思い描きながら、作業に取り掛かった。

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