第10話 手記と手紙と

 二年以上戦場で生き延びてきたバーナードであるが、このときは生きるか死ぬかの最前線にいた。


「いや~、明日死ぬかもしれない。今日寝ている間に死ぬかもしれない」


 濃密すぎる日々をともに過ごしてきたせいで、顔を見れば「腐れ縁」の言葉が浮かぶコンラッド相手に、重すぎる軽口を叩く。


「お前はいつもそういうこと言うくせに、この部隊の中じゃ、一番最後まで生きて戦場にいるぜ。賭けてもいい」


 硬いパンにかじりつきながら、コンラッドが苦み走った笑みを浮かべて言った。

 バーナードは片眉を跳ね上げて「俺が?」と聞き返す。コンラッドは、にやにやとしながら「お前が」ともう一度言って、パンを飲み込んでからすずのカップに入った薄い紅茶を飲み干し、長広舌をふるった。


「どこかの戦場では、逃亡兵が出たと聞く。逃げ出して生き延びた奴は、逃げたことを正当化するために、手記を残すだろう。それを読んだ後世の者は『みんな、戦争を嫌がっていたんだ』と思うだろうな。『本当は誰だってすぐにでも戦争をやめたがっていたんだ。だが、ひっこみがつかずにやめると言い出さない誰かのせいで、消耗戦を続けることになったのだ』と」


 返答に、詰まる。

 バーナードの反応を見越していたように、コンラッドは実にすらすらと続けた。


「実際に逃げ出す奴はごく少数だ。多くが戦場に残り、生きた証らしきものは何も残さず散っていく。何を考え、どうして逃げることをせず、戦い続けたのか。死んだ大多数の兵の思いは、記憶や記録として引き継がれることなく消える。もしくは、生き延びた奴によって改変される。『愚かな兵士たちは、自分の頭で考えることもせず、命令に従って無駄死にするまで戦い続けたのだ』と。俺とか、お前とか、うちの部隊の連中のことだ」


 無言のまま、バーナードは空いた右側の席を見た。


(逃亡兵なんか、初期にひとりいたくらいか。昨日までそこにいたひとが、今日はいない。いなくなる理由は圧倒的に、死だ。いつも隣にある。ずっとそれが続いている。続いている。続いている……俺はまだ、生きているのか?)


 左側の席に視線を戻し、そこにコンラッドがいることに安心する。

 埃にまみれ、泥で汚れていても造作の良さが知れる横顔に向かって、声をかけた。


「逃げた奴の言うことが正史になるというのも、どうなんだろうな。逃亡は重罪である以上に、不名誉だ。ほとんどの兵は、戦場にとどまっている。休暇で家へ帰ったって、戻ってくるだろう」


 生きた証を、残せないまま散るために。

 コンラッドが口にしたその事実が、不意に強く胸に迫ってきて、バーナードはジャケットの胸ポケットを手で押さえた。

 そこに、妙な手応えがあった。

 なんだ? と数秒考える。その横で、コンラッドが話し続ける。


「戦場にとどまった兵たちは、物言わぬ死者の列に加わっていく。実際『国を愛する』という感覚は馬鹿にならねぇ。ここから後退するわけにはいかない、大切なものが蹂躙されるのを見たくない。『守り抜きたい』という感情は、強い。死と殺しを受け入れるほどに」


「愛、なぁ。我らが敵国ではまさに愛国党が猛威を振るっていることだろう。愛ゆえに、愛があるなら、まだまだ戦えるだろうと国民を焚きつけ、前線へと兵を送ってくる。きっと、戦後は『愛国』という言葉は忌まわしきものとして、嫌われる」


 受け答えをしながら、ポケットを探る。出てきたのは、封筒。手にしても、これはいったいなんだろうと不思議に思う感覚は消えない。いつそこに入れたのかも、覚えていない。

 バーナードは、何気なく封を開いて、中の便箋を取り出した。


【あなたが死ななければ良いだけでは?】


 文字列を見て、ヒゲの残る顎を指先でしごきながら、考えこむ。


「『愛』で脅され、命をかけさせられるのは誰だって、嫌なものだ。俺の愛は、誰かに植え付けられたり、強制されたものじゃないって叫びたくなる。馬に乗った騎士が名誉と誇りのために戦っていた時から、人間はあまり変わってないのさ。馬鹿なわけでも、教化が足りないわけでも、真実に目覚めていないわけでもない。あるんだ、ここに。人間である限り」


 とん、とコンラッドが自分の胸を拳で叩く。

 その音につられるようにして、バーナードは便箋から顔を上げると、コンラッドを見た。

 口の端を釣り上げ、笑った顔が、見慣れていてさえ惚れ惚れするほど男前であった。

 そういった表情や仕草のひとつひとつに、彼が貴族として生きていた頃が透けて見える。その矜持がうかがい知れるのだ。


 一瞬、彼が派手な衣装を身につけ、白馬にまたがり、剣を掲げて古の戦場を駆け回る幻想が目の前を通り過ぎていった。

 騎士の中の、騎士のように。


「生き残った者の中にも、正史を曲げる者はいるかもしれない。本人は、曲げているつもりもないままに『自分は信じるもののために戦ったのだ』と、声高に叫んで。戦場での日々を報われたいために、殺しすら美化をする……」


 バーナードが考えながら呟くと、ははっとコンラッドが声を上げて笑った。


「おっと。それはそれで、厄介だなぁ。美化をしてはいけない。そうしなければ、自分の心が守れないのだとしても。戦場における殺しは、正当防衛の拡大解釈とはいえ、子孫に理解を求めたり憧れを抱かせるものであってはならない。終わらせ、断ち切るものだ。絶対に」


 これほど長いこと兵役に従事しているのに、コンラッドの目にはまだ、戦場が「非日常」として見えているのだろう。戦時下とて、許されぬものは許されぬことなのだと。

 その感覚は貴重だ。隣にいてくれるだけで、安心する。


「わかるよ。俺も、いまだに割り切れない。生き延びても一生、後悔し煩悶するだろう。生まれたときからすでに、人殺しは大罪であるという価値観の中で育ってきたんだ。殺し殺されが当たり前の世界が、日常の隣に不意に現れて、あっという間に反転したのが、今も不思議なんだよ。ずーっと不思議なまま、生きてる」


「俺はお前のそういうところ、結構信頼してるぜ。こんなに戦場暮らしが長引いているのに、いつも普通になんでも嫌がって、全部に疑問を持ってて。そのくせ、生き残るに必要なことは弱音を吐かずにやり遂げる。そして、他人に対しては自分と同じことを求めたりもしない。異常が、お前を避けて通るのが俺の目には見えるんだ。だからきっと、お前は最後まで生き延びる」


 力強く言い切られて、バーナードはぼさっとした顔でコンラッドを見返す。

 手の中には、実にそっけない一文だけがしたためられた、「妻」からの手紙がある。


「なんだそれは。手紙か?」


 コンラッドが、ふとバーナードが手にしている便箋に関心を寄せてきた。


【あなたが死ななければ良いだけでは?】


 べつに隠す理由はなかったのだが、見られるのも妙に気恥ずかしいものがあり、テーブルに伏せた。


(「妻」から、返事がくるとは思っていなかった。しかも、この内容はどうだ。まるで俺に、生きて帰ってこいと言わんばかりじゃないか。俺が首尾よく死なないと、あてにしている遺族年金が入らないぞ。わかっていないのか?)


 なぜ見ず知らずの自分とチェリーなにがしが結婚したかというと、母親と妹が遺族年金をあてこんだな、と思い至っていたので、むしろ死を望まれているはずだと信じていたのだ。

 先の見えない日々に、ようやく意味ある終わりが見えたと思っていたのに。

 コンラッドにしろ「妻」にしろ、バーナードに生きろ生きろと言う。

 バーナードからすれば、少なくとも自分に対してそう言うコンラッドこそ、生きるべきだと思っている。


「俺は、お前が書けば良いと思う」

「何を? 手紙を?」


 飲み込めていない様子で首を傾げられ、バーナードは訥々と答えた。


「正史を。つまり、手記を。いまのお前なら、書けそうじゃないか。守るべきもの、愛する国のために戦っている。この気持ちに誇りを持っているが、決して輝かしいものでもないと知っているってこと。賛美することなく、死んでいった仲間を貶めることなく。二度と同じ過ちが、この世界を覆うことのないように」


「手記、なぁ……。よし、わかった。書いておこう。読めとは言わない。お前も書けよ」


「俺も?」


 冗談かと思って聞き返したが、立ち上がったコンラッドは「メモ用紙になるようなもの探してくる」と言い置いていなくなってしまう。


 この日以降、気づいたときには、コンラッドは取り憑かれたように、文字を書くようになっていた。

 唸りながら、歯を食いしばりながら。

 インクが無い夜は、怪我から滴る血で指を湿らせて。

 それを手紙として後方へ送ることもあれば、通り過ぎた基地へと置いてくることもある。

 まるで、種をまいているようだった。

 風にのせて遠くまでいくように。あるいはその場に埋めて、芽吹くときを待つように。


 猛烈に書き続けるコンラッドの横で、バーナードも少しずつ死んだ仲間の名前と、その思い出を書き留めるようになった。それは気が遠くなるほど辛い作業でありながら、他の誰でもなくいま自分が書かねばならないことのようにも思えた。まだ死んでもいないのに「自分のことも書いてくれ」と言ってくる仲間もいた。「お前は生きて帰れよ」と笑いあった三日後に、紙の前で彼にまつわる記憶を思い出そうとしていることもあった。

 たくさん見送った。何度も、自分は彼らより生きている意味のある人間か、この先の未来に必要な人間なのかと自問した。


 書き記した文字数は多いのに、「妻」への返事は考えすぎたせいでたった一行になった。


【生きて帰っても良いのか?】


 書き終わった直後で近くに砲撃があり、散り散りになって逃げ出す。

 落ち着いて手紙を後方に送れたのは、それから数日後。

 受取人である「妻」の元へいつ着くかは、わかったものではなかった。


(届いたときには俺はもう、死んでいるかもしれないな)


 そのときは、コンラッドが自分のことを書き記してくれるのだろうか?

 隣では、生き急ぐように寸暇を惜しんで、コンラッドが文字を書き続けていた。


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