長いお別れ 3
モニターのなかには、クリーム色のスバル360の後部が、白いナンバープレートごと映っている。
だがネコになったせいだろうか。目はナンバープレートの白い下地と文字列の差分を模様として見てとるが、脳がそれを識字しない。
こういう違和感にはもう慣れたが、ナンバーの読み取りと照会は、もうこのふたりの仕事だ。任せたらいい。もっともNシステムによる追跡は効かないだろう。ナンバーを読み取ったところでその書き換えなどは避役星人にとって自身の体色を変えるくらいに造作ない。
とにもかくにも俺は、このネコの体になったはじめ、あの車の後部座席の上で訳もわからず鳴いていた。
──目隠しをされ、首にロープをかけ、人間だった俺が底のぬける床の中央で神の御名をつぶやいたおり、つまり避役星人が俺をネコに変える直前、連中は光につつむ俺のこの記憶にどんな防護措置を施したのか、この手で捕まえてからゆっくりと聞いてみたいものだが、そのあとしばらくはネコとしての自我が優位だった俺は、連中が運転するあの車の後部座席にいたことになる。道理でそれが母の尻に見えるわけだ。
俺は、郷田の口付けを両腕で断固と拒絶しながら、あのクルマのなかで男たちが翻訳機ごしに母船と交信していた言葉を、おぼろげながらに思い出した。
──吉備津の奪取に成功。これより帰投する。ピックアップを頼む。
それは確かに、そう聞こえた。
だから俺は、非合法捜査員の本能のままに、窓の隙間から飛び出し、闇雲に走った。どこをどう通ったのかは憶えていない。それから食うや食わず見知らぬ町をさまよい、吉備津の記憶と生まれたてのネコの自我が交錯するなかを俺は、いつの間にか、このマンションのエントランスにたどり着いていた。
いずれにしても、プランクブレーンを利用して
俺は、郷田の両方の鼻に足を突っ込んで、思いきり蹴り、脱出すると、出窓に駆け登って脚をあげて股を舐め、毛づくろいをした。
──まずは冷静になれ。
そして廊下を行き、鼻血にティッシュを詰めている郷田を呼んだ。田中と杉山は明けで帰り支度中。高川は窓際でモニターと外を監視中。となると、休憩に入った奴しか使えるコマはない。不本意ながら、俺はその
「
高川が郷田に言った。
「ほらあ。むりやりイジるからご機嫌ななめだぜ、ハンチョウのやつ。おうち帰るっていってんじゃねえの?」
「へいへい。仰せのままに」
郷田は、鼻にティッシュをつめ、ボディバッグを襷掛けし、ジャケットをはおり、玄関で俺を両手でピックアップして、
「下僕稼業はァ〜 たのしい課業ときたもんだ」
と、ドント節でうたいながら俺を抱き、ドアを開け、そのまま廊下の角をまがると、ちょうど二階に止まったエレベーターからうしろ向きで出てくるエリンの横顔に遭遇し、血のうっすらついたティッシュを郷田は噴射した。
耳もとで心臓がデカい鼓動を乱れ打っている。見上げると、バカ面が目と口と見開いて、地球ごと止まったように息をしていない。
俺は、「
だが郷田は、エリンに見とれていて、いつもに増して頭が動いていない。
「
エリンのほうは、荷物と土産を収めているのだろう重たげなキャリーバッグをエレベーターのカゴから引っ張り出すと、この暑さのなか、汗ひとつかいていない笑顔で、
「どうも、二〇九の方ですか?」
と郷田に話しかけた。
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