長いお別れ 2

「はんちょう?」


 高川が聞いた。


「ん? ああ。こいつのあだ名だよ。いま俺がつけた」


 と、郷田は膝のうえにクリスをのせて、その小さな後頭部を指でなでる。


「な、ハンチョウ」






 その小さな頭は揺れながらも、目はモニターのなかのスバル360を注視している。


「毎日こうして監視拠点に来るし、きたら来たですぐ窓へと張りつく。おまけにメシとクソ以外は外を見てるし、余計なことは言わない。でもイジると可愛いこと言う」


 そう言って郷田は歯を見せた。


「……どっか吉備津オヤジさんに似てるだろ」


「なるほどな」


 目下、班長不在の別班五部には、ちょうどいいマスコットだ。


「吉備津ならぬ、クリス班長か」高川も、そのネコの白いアゴをくすぐった。


「それに、こんなちっこいのに結構腕も立つんだぜ」


 昨晩と今朝だけでコイツはゴキブリを十匹は始末したらしい。


「……へえ。たいしたもんだな」


 と目を細め、高川は水溶紙メモの申し送りをめくっていた。──が、


「まてよ」


 その手を止め、脳裏に閃めいた何かと何かの結合がほどけないように、そっと、たずねた。


「……なあ郷田よ、井上のやつ、結局クラッカーの侵入経路は特定したのか」


「──ああ。下手人はどうも、に四重のパスワードを正面から通過したらしくてな。井上が言うには、朝に俺と田中ナカさんで変更したパスワードを知ってたに違いないって」


「なんでだい?」


「辞書攻撃なり、偶然であればそりゃ、天文学的な確率だからさ」


「ほう。と言うと、どのくらい?」


「ドレイク方程式くらい」


「……悪い。日本語で頼む」


「だよな。俺もそう言った。で、奴が言うにはな、〝──わかりやすく言うと、この銀河に地球人類とコンタクトする可能性がある地球外文明の数を推定する式だよ〟……だって」



 高川は自分の表情が、自身の小学生の五年だったか、雨上がりの空の下、長靴のなかに水を溜めて帰宅したときに母がした顔になっているのを感じながら、


「オッケー。言い方が悪かった。──お前バカにもわかる言い方で頼む」


「そうか。うん。たしかに俺もそう言ってやった。そしたらさ、井上がね、〝宇宙人ならできるかも〟って意味。……だってさ」


 高川は感心した。


「さすが井上だ」


「でもよお。……常識で考えれば、俺か田中ナカさんが情報漏洩をしていることになるだろ。だから井上は、むしろクラッカーは、この部屋にある各種カメラ ──俺たちのスマホやこのPCのカメラ── に侵入して、口のやりとり、あるいはパスの再設定作業自体を覗き見ショルダーハックした可能性があるって、上には報告してくれたみたいだけれども……」


 それは、直接キーボードを映していなくても、ガラス窓や金属への間接的な映り込みをAIで処理すれば理論上は可能らしく、近い技術をDARPAとイスラエルが研究しているそうだが、


「俺とナカさん、これで御役御免。そんでもって離島の交番勤務かもなって……」


 と、郷田は肩を落とし、


「ハンチョウと離れるのは寂しいなあ」


 と、クリスに無精髭を擦りつけた。


 だが、高川は、


「俺たちがさらにチョンボをやらかして、今の部長を更迭させないかぎり、まあそれはないと思うぜ」と、励ました。






 ──映像データが消失した日、


「たしか電話でお前、やたらゴキブリが出るっていってただろ」


「うん。茶色くてちっちゃいヤツな。前日からやたら出ててさ。殺虫剤買ってきたんだけど、なんか効かなくてなあ……」


 それがおそらく、御器百人みき ももひとの一部だったのだろう。


 だが、それを全て、クリスが始末したらしい。


 ホットドッグのように自分をつかむ郷田の口づけを嫌がり、両手でそのメガネを全力で遠ざける、頼もしい、このちびすけハンチョウに高川は目を細め、


「ふふ。こんどチュールっての、買ってきてやるからな」


 と、その小さな口を指でくすぐり、メモをめくった。


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