天使なんかじゃない 7

 長嶺ながみね家の次女、ひえいが、たすきがけにしたカラの水筒をおさえながら駆けてきて、エントランスの日陰へと飛び込んだ。


 体感気温は三十度を超えている。タオルで汗をおさえエレベーターにむかうと、ジャケットを羽織った大きな背中が目に入った。


 その大男の背中は、コンビニのビニール袋をさげる左手の指に、もうひとつペットショップの紙袋をひっかけている。その口に樹脂製の猫じゃらしが出ているのを見つけたひえいは、思わず「ああっ!」と声をあげた。


 大男は驚いてふりむき、笑顔をひきつらせて、何かを言おうとしたが、仔ネコの捜索に血まなこだったせいもある。つい彼女のほうから「もしかして、二〇九号の方ですか⁉︎」と、早口に声をかけていた。







 すると大男は、観念したように小さなため息をついて、その子、たぶんいまうちで保護していますよ、と笑顔を和らげた。


「そうですか……はあ。もうほんとに、よかったです……」


 ひえいはエレベーターに乗り込むと、ちからが抜けたように背中をカゴ内側の壁にもたせかけ、「ちょっと失礼しますね」と、あまりそのセンスは褒められない大きな餃子のぬいぐるみをつけたスマホからグループLINEで仔猫の無事を一斉送信した。そして、


「いやぁ、しかし。ほんとうにありがとうございました……」と、あらためて彼には礼を述べ、水筒から麦茶を注ごうと、蓋をあけ、それが空だったことに驚き、「おおうっ?!」とうろたえた。


 エレベーターが二階でドアを開く。


 郷田は苦笑し、ビニール袋からペットボトルをとりだして口を切り、彼女に手渡し、


「これどうぞ。しかし、なんで二〇九ウチにこだわるんでしょうかね。不思議な子ネコさんですが……。まあすぐ玄関先でお引き渡ししますよ」


 と部屋に向けて歩きはじめた。



 喉をならしてそのペットボトルの中身を一気に半分まで飲み干して、


「これも必ず、お返ししますから」


 と、砂漠の旅人のように、ひえいが大袈裟に言うと、


「いいですって」そう振り返りながらまた彼は苦笑し、先をあるく。


 彼女のスマホには、スタンプが並ぶ音がし、その画面を見ながら広い背中について歩きつつ、郷田と名乗ったその男の手が下げる紙袋に、子猫用のミルク缶と、三本セットの猫じゃらしが覗いていることに、彼女は、


「猫好きに、わるいひとは居ないって、ほんとですね」


 と目を細めたが、そうして渡り廊下のなかほどまで歩き、めったに曲がることのなかったこのコーナーを曲がろうとした、その時である──





 ──二〇九号室から、「待ってくれえ!」と、悲鳴に近い男の叫び声がした。


 すると彼女の目にはどう言うわけか天井の筋模様が映り、そのまま身体は半回転し、廊下にふせていた。衝撃は感じなかった。


「顔を出さないように! ここで伏せていて!」


 そう言って郷田の手が頭の下から抜けていき、どうやらそれが頭部を保護していたものだと彼女が気づくよりも早く、その背中から何か黒いものを取り出して彼はコーナーの向こうめがけて駆けていったが、


 その二〇九号室のドアが開き、まずなぜか、空にむけて猫の尻尾が見え、続いてTシャツの男がパンツ一丁で、子猫を掴み、駆け出した。


 ──粗相を控える子ネコだと、認識し、郷田は咄嗟にしゃがみ、バランスを崩しし、


 そして時は走馬灯のように、ゆっくりと流れた。





 鉄製のドアが激しい音をたて、ハトが一斉にとびたった。


 青い空に、翼もつものたちが舞い、針穴をあけた水風船のような仔猫の尻が、限りなく透明な水で、倒れる郷田の顔を、かすめて清めた。


 トランクスの若者は、天使の壺を空に向け、罪な玩具を持つ者は、目をおさえ、地に転げ、


 夏の空と中庭に、その小便仔猫は、光をあつめ、虹をかけた。



 時の止まったそれは、息を呑むほど美しく、床に伏せ、目をあげたひえいには、それが一枚の荘厳な聖画イコンに見えていた。


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