第6話
***
いつもと同じ朝だった。軽く朝食をとって、化粧をして、始業三十分前に家を出る。だけど、ドアを開けて見上げた空はいつもより高く感じた。
「おはようー」
大学の正門前で、同じ講義を受講している子に声を掛けられた。緩く巻かれた髪が、高いヒールのせいで不安定に揺れている。彼女は何かに気付いたように私の足下を見た。
「あれ、今日、スニーカー? 珍しいね」
「あ、うん。えっと、何か……」
『足が痛くて』『ヒールが折れちゃって』『まだ夏物買ってなくて』
……頭に浮かんだのは、みんなと違うことを誤魔化そうとする言い訳ばかりだ。
「……スニーカー、好きなんだ」
でも口から出たのは、全く別の言葉だった。いつもより数センチ低い世界は、背伸びしていない等身大の私だ。彼女はふーんと鼻で返事をすると、笑顔で言った。
「スニーカーも可愛いじゃん。私も新品の欲しいなぁ、何かオススメあったりする?」
「……うん! 私が好きなのは」
現物を見せようと携帯の検索画面を開くと、彼女はニュース欄を見て「あっ」と呟いた。不思議に思い、視線の先にある記事をタップする。するとそこには、一冊の本を持って文雅に微笑む男がいた。
「今年の文学賞作家、横浜出身なんだって。『
状況を理解出来ず、携帯の男をじっと見た。柔らかそうな黒髪に、綺麗な顔立ち、……唯一違うのはスリーピースに身を包んでいるところだろうか。有り得ないと頭の奥では叫んでいるのに、写真の男は開港祭で出会った彼と同一人物にしか見えない。
「イケメン作家ってニュースでも話題だよ! しかも、この顔でフリーとか……。でも来年の開港祭は予約した女性がいるんだって」
「開港祭?」
お堅い文学賞ニュースのはずなのに、恋愛ゴシップのように話す彼女の口から出た単語に思わず反応してしまう。
「その女性の名前は知らないらしいんだけど、きっとスニーカーの似合う子って言ってた。ミステリアスな感じとか、会見を見た二人だけの秘密っぽくてロマンチックだよね!」
どこからか吹いてきた海の香りが鼻腔を撫でた気がした。もしかしたら亡霊が風を連れて、私の前に現れたのかもしれない。私はそっと携帯のカレンダーを開き、来年の六月二日に赤い丸をつけた。
終
横浜ロマン譚 涼風 弦音 @tsurune
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