第5話
***
「満席」のプレートが掛けられたカフェのドアを、彼は臆することなく押し開けた。こちらに気づいたウェイターに軽く手を挙げると、夜景が綺麗に見える席に通される。彼に促され向き合う様に座れば、ウェイターは慣れた手つきでコーヒーを二つテーブルに置いた。不思議そうに眉根を寄せて茶色の液体を見つめていると、彼は種明かしを始めた。
「この店は、贔屓にしていてね。珈琲は苦手かい?」
「いえ……ただ少しビックリして。あの、お兄さんは何者ですか?」
「僕? そうだな。……ミナトと呼んでくれ給え」
「ミナト……ミナトさんは何してる人? どうして歩道橋で止まってたんですか?」
悩んだように名乗る彼の言葉をどこまで信じていいのか分からず、続けて問えばミナトさんは困ったように笑った。
「お嬢さんは、僕を群衆の一人にするつもりはないのだね」
群衆の一人とは何だろう。出会った当初から思っていたが、随分と特徴的な言葉を選ぶ人だ。
「僕は人間観察が趣味、……否、仕事でね。群衆を見に来たのだよ」
彼は、視線を夜景に投げた。追うように窓から夜景を見れば、そこには顔の判別もつかないまさしくがあった。
「例年通りなら、今日の横浜には数十万人が訪れている。そんな中で、君は僕を群衆の一部ではなく、群衆の中の一人として知ろうとした」
「それはミナトさんが立ち止まってたから……」
変な人だから目に付いたと、口から出そうになった言葉は飲み込んでおいた。
「だが、それはきっかけに過ぎないのだよ。君はきっかけを拾った。事実、君以外、僕を僕として見た人間はいないのだよ」
難しい言葉を理解するのに時間はかかるが、彼は私が言葉を消化出来るのを待っていてくれる。
「でも先に話しかけてくれたのはミナトさんです」
「僕は返事をしただけさ」
普通はぶつかったくらいで返事なんかしない。それが、人間がいっぱいいる都会のはずだ。それなのに、彼は私の言葉を拾った。今だって、私に向き合って、私の目を見ている。小さなことのはずなのに、じんわりと胸に暖かさが広がっていく。
「……ミナトさんくらいです。こんな風に真っ直ぐ話してくれるの」
「君くらいの年齢なら、他愛ない話をする友人もいるだろう?」
「友達と呼んでいいか分からない人なら……」
大学へ行けば、挨拶する子も講義によっては隣に座ってくれる子もいる。でも、それ以上の関係になれなくて、誰と話してもどこか他人行儀で、いつも何かに気を遣っている。今日だって、私は誰とも言葉を交わさなかった。この人に出会ってしまうまで、私はこの世界から切り離されたみたいに一人ぼっちだった。
「大学のみんなに合わせて頑張ってるけど、私、これでいいのかなって」
化粧のために講義に遅刻してくる子。高いヒールのせいで転んで怪我をする子。デートのために講義の代返を頼む子。大学が本当は何をするべきところなのか、分かっていたはずなのに不安になる。靴擦れの傷がずきりずきりと痛んだ。周りに合わせて背伸びをする毎日が単調で、平凡で、つまらない。沈む思考から私を引き上げるように、彼は口を開いた。
「君は、周囲の人間を群衆に感じているのだね。群衆の心理が読めない故に、君自身も他人に腹を割る事を恐れている」
彼の瞳はまるで私の心を見透かすように、鋭くて澄んでいる。大学生になってから、差し障りない話ばかりして、お面みたいに笑う毎日だ。目の前にいる人の笑顔も自分の笑顔も本物か分からなくなって必死に自分を取り繕っているのかもしれない。核心を突く彼の言葉に胸がどくりと鳴った。
「あの、えっと、……この前、私一人誕生日会したんです。祝ってくれるような友達はまだ作れなくて」
逃げるように苦笑いすれば、ミナトさんは緊張を解いて微笑んだ。
「誕生日は亡霊でしかない。君が気にしないのなら、その亡霊に悩んでやる必要も無い」
「亡霊って……怖い話?」
柔らかい声音は私を励ましているはずなのに、似つかわない単語のチョイスに笑ってしまう。その時ふと、久しぶりに心から笑いが零れたように感じた。今、私の目の前にいるのは、これからの生活に大きな影響を与えないであろう人だ。だからこそこんな風に、気負わず話せるのかもしれない。そこには、女子大生として化粧をして、ヒールを履いて背伸びをしてる私じゃなくて、一人暮らしで不安を抱えながら生きている芋臭い私がいた。
「否、文学論の一つだよ。ある哲学者が、日付は亡霊だと言った」
聞きなれない言葉たちに頭が追い付かずにいると、彼は砕くように言葉を付け足した。
「今日、六月二日は去年の記憶を伴って、毎年現れる。まるで亡霊の様に」
言い得て妙だ。なんて呟かれるが理解は出来ず、彼が言葉を続けるのを待った。
「記憶の話だよ。誰しも万物に対し、何かしらの記憶を持っている。それは日付の様な概念から、場所の様な無機物まで様々だ」
日付の記憶と、場所の記憶。繋がらない単語に首を傾げると、彼はコーヒーカップに口付け、数秒目を伏せた。
「例えば、この街にも記憶があり、僕らはその記憶を意図せず受け継いでいるのだよ」
「この街の記憶?」
「換言するのなら、この街に植え付けられたイメージだ」
他所に住んでいた私でさえ、何故か横浜に対して漠然としたイメージがあった。都会のハイカラな街、海風が吹く煉瓦の街。
「イメージはこの街を創る過程、つまり歴史の中で、人々が同一の印象を抱く事で創られる。では、お嬢さん、その歴史を作ったのは誰だい?」
昼頃に行った資料館には、この街に関する多くの歴史が記されていたが、流石に偉人の名前までは覚えていなくて小さく首を振った。
「歴史は、群衆によって作られるのだよ」
「群衆……?」
確認するように言葉をなぞると、彼はコーヒーカップをソーサーに戻してゆっくりと頷いた。
「指導者一人では、決して世の中は変えられない。歴史を作り、記憶を創るのは、ここにいる名も無く、顔さえ見えない、群衆だ」
その時、窓ガラスが淡い色に色付いた。振り向くと、空には紫の花が咲いていた。散る花を追いかけるように、黄色の花火が赤レンガの上に咲く。地上には、その光に照らされて映る群衆。ここからでは男女の判別も危ういけれど、その一人一人が嬉しそうに空を見上げていた。その人たちがいるから歴史は刻まれていくし、社会は回っていく。
「群衆を構成する人間一人一人に、各々物語が存在する。群衆を一個人にするためには、相手を知らなくてはならない。その中には、本来の君の物語を知ろうとする人もきっと現れる」
僕のようにね。そう微笑む彼の視線は私の足首に注がれていた。恥ずかしくなって、隠すようにヒールを触った時、彼のポケットから機械音が鳴った。
「携帯、いいんですか?」
「構わない。僕はこの電話から逃げてきたのだからね」
彼は鬱陶しそうに携帯の電源を切った。よく分からないが、大事な電話だということだけは分かる。しかし、学生の私が社会人に口出しをするのも良くないだろう。すると、突然大きな音がしてテーブルが跳ねた。空のコーヒーカップがかしゃんと音を立てる。
「やっと見つけましたよ‼」
反射的に振り仰ぐと、片手に携帯を持ったスーツ姿の男が息を切らしながらミナトさんの肩を掴んでいた。
「……GPSでも仕掛けているのかい?」
「何言ってるんですか! ほら、もう発表出ますから。帰りますよ、先生‼」
嫌悪感丸出しのミナトさんは渋々腰を上げると、レシート板をするりと持って振り返った。
「騒がしくて済まないね。迎えが来てしまった」
彼は男に聞こえるようわざとらしく溜息をつくと、呆然と二人のやり取りを見る私に言った。
「そうだ、お嬢さん。日付に巣食う亡霊は、只の一日に記憶という付加価値が付いた時に生まれるのだよ」
「どういう……」
意味を問おうと口を開くも、それを遮るように言葉が紡がれる。
「今日という日が亡霊となり、君の前に現れてくれることを願っている」
自分で考えてごらんとでも言うように、彼は花の散った夜景に溶けて消えた。
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