第3話

 頭上から、ハスキーでいて優しい声が降ってきた。まさか、返事があるなんて思ってもいなかったから、思わず足を止めてしまう。彼は警備員の声なんて聞こえていないように、悠々と遊歩道の柵に腕をのせていた。

「えっと……ごめんなさい」

 遊歩道を渡る人たちが、私達二人をまるでいないもののように通り越していく。柔らかそうな黒い猫毛に、鼻筋の通った綺麗な男性だった。ジーンズにカッターシャツというラフな姿は、六月の夜には少し寒そうだ。

「だから、謝らないでくれ給えよ」

「あ、つい……」

 男性は口元を綻ばせると、柵に背を預けた。海の上に花火が咲く音がする。周りの人たちが、一斉に振り返った。それなのに、目の前の彼だけは私から視線を外さない。

「どうしてここに立ち止まっているんですか? 花火、見ないんですか?」

「その質問は君にそのまま返そう。花火はまだ終わっていない」

 返答に詰まって考えてみても、理由があって帰ろうと思ったわけじゃない。漠然とした何かが胸を燻って、帰らないといけないと思ったのだ。

「花火の音がしたのに、振り向きもしなかったのは、君だけだ。どんな行動にも理由はあるだろう? ただ、多くの人間は理由を探ることを面倒だと感じている。思考の放棄は、全く愚の骨頂だね」

 彼はぼやくと、五線路の大きな道路に視線を傾けた。私もつられるように、下を覗く。駅の名前が書かれた青い道路標識。信号待ちをしている車と横断歩道。レンガ調のビルの反対には、人工的な芝が広がっている。私の目には特別な何かは映らない。それでも彼は何かを見ているように、そして魅入るように引き込まれていた。上体が柵に乗り、折れる。左足が鉄板から離れる。

 ──危ない

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