第5話 魔法チートはないんですか?3
私の名前はリーン・バルガス、九歳。
転生者としてこの世界に生を受け、魔法の修行を始めてから早半年が過ぎようとしていた。
庭の木々が青々とした葉を茂らせ、木漏れ日が揺れる昼下がり。私は木刀を振り下ろしながら、内心で首をかしげていた。
(……ぬるい。あまりにも、ぬるすぎる)
前世で読んだ少年漫画の修行といえば、血と汗にまみれ、限界を超えてこそ力が宿るというのが相場だ。死線をくぐり抜けるような過酷さこそが、強者への近道だと信じていた。
けれど、現実はあまりに穏やかだ。少し息が上がればすぐに休憩。筋肉痛になる手前で練習は打ち切られる。
「お嬢様、どうしました? 気が抜けていますよ。切っ先がぶれています」
「……すいません先生。ちょっと、昔の知識に思考を持っていかれました」
グーン先生の鋭い指摘に、私は慌てて姿勢を正す。
以前、もっと厳しくても大丈夫だと直訴したことがある。けれど先生は静かに、しかし断固として首を横に振った。
『自分自身を極限まで痛めつける修行を否定はしません。ですが、私が重要視しているのは効率です。精神や肉体を、どれだけ長くベストな状態で保てるか。それが戦場での生存率を分けます』
『それに』と、彼女は私の頭に手を置いて付け加えた。『成長期の未完成な肉体を酷使するのは、百害あって一利なしです。将来の可能性を潰すことになりますよ』
なるほど。あの少年漫画の主人公たちが異常な頑丈さを誇っていたか、あるいは大人になってから修行を始めた方が、実はもっと強くなれたのかもしれない。そんな現実的な思考が頭をよぎる。
「集中力が途切れていますね。少し休憩にしましょう」
「はい、先生」
木刀を置き、庭のテーブルで冷たい水を一口飲む。乾いた喉を潤す感覚が心地よい。風が汗ばんだ首筋を撫でていく。
一息ついたところで、ふと湧き上がった疑問を口にしてみた。
「休憩中ですが、少し質問してもいいですか? 先生」
「どうぞ。何でしょう?」
「以前、大魔法使いなんてものはいないと聞きましたが……では、先生が思う『最強』とか『偉大な』魔法使いというのは存在するんですか?」
先生はカップを置く手を止め、少し考え込むように視線を宙に彷徨わせた。
「最強、ですか……。偉大という言葉は当てはまりませんが、純粋な強さで言うならば――それは『魔獣』でしょうね」
予想外の単語に、私は目を丸くした。
「え? 魔獣……ですか? モンスター?」
「そうです。文字通り、魔法を使う獣です」
先生の声のトーンが、一段階低くなる。それは畏怖とも、忌避とも取れる響きだった。
「奴らは、人間とは比べ物にならないほど巧みに『魔法の元』を扱います。知能など欠片も持ち合わせていない獣でありながら、生まれながらの本能として、呼吸をするように魔法を行使するのです」
「本能で……」
「残念ながら、人間は奴らほど鋭敏に魔法の元を感じ取ることはできませんし、発動速度でも到底敵いません。彼らにとって魔法は牙や爪と同じ、体の一部なのですから」
理屈で組み立てる人間と、本能で放つ獣。その決定的な差。
背筋に冷たいものが走る。
「なるほど……じゃあ、もし魔獣と戦うことになったら、どうすればいいんですか?」
「魔法の撃ち合いでは勝てません。ですが、知恵ではこちらに分があります」
「知恵……?」
「戦う場所を選び、罠を張り、戦力を整えて挑む。……すいません、夢のないアドバイスで」
先生は苦笑したが、その目は笑っていなかった。
私はゴクリと喉を鳴らし、具体的な問いを投げかけた。
「じゃあ……例えば魔獣が一匹いたとして、それを倒すにはどれくらいの戦力が必要なんですか?」
「相手によりますが……そうですね。よく見かける『シドラット』という鼠型の魔獣だと仮定しましょう」
先生は私を見据え、指を二本立てた。
「私クラスの人間が、二人は必要です」
「え……」
「確実に、無傷で勝とうとするなら三人以上。それが現実です」
「先生が二人……。たかが鼠一匹に?」
「はい。魔獣とは、それほど恐ろしい存在なのです。ですからお嬢様、もし将来、魔獣とまみえるようなことがあれば……戦うことよりも、まずは逃げる方法を考えてください」
先生の言葉には、実感を伴う重みがあった。
とはいえ、すべての魔獣が敵というわけではないらしい。王国軍では騎獣として飼い慣らしている例もあるし、現在の人類が使う魔法の多くは、魔獣の生態を観察して編み出されたものだという。
人類の師であり、天敵。それが魔獣か。
「さて、休憩は終了です。木刀を持ってください」
「はい! 初めから、型通りに」
再び始まった素振りの音だけが、静かな庭に響く。
***
その夜、ベッドの中で私は今日の会話を反芻していた。
心地よい疲労感と、知的な充足感。今日もいい一日だった。
それにしても、魔獣シドラット。どんな姿かは知らないけれど、あの凛々しいグーン先生が二人いないと勝てないなんて、世界の広さを思い知らされる。
「……まあ、今は無理でも、二、三年もすれば無双できるようになってるはずだし」
私は枕を抱きしめ、楽観的に呟いた。
けれど、ふと、小さな棘のような不安が胸を刺した。
あれ?
考えてみれば、先生は自分のことをなんて言っていたっけ?
『王国騎士団の、一番下っ端』――そう、確かによくそう自嘲している。
もしそれが謙遜ではなく、厳然たる事実だとしたら?
一番下っ端の先生が二人いないと倒せない魔獣。
そして、その先生よりも遥かに弱い、九歳の私。
「……はは、まさかね」
底辺の底辺? いやいや、ありえない。
私は転生者だ。きっと隠された才能がドカンと開花するはずだ。
そう自分に言い聞かせるけれど、暗闇の天井を見つめる私の目は、少しだけ笑えていなかったかもしれない。
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