第3話 魔法チートはないんですか?


私の名前はリーン・バルガス、八歳。

かつては日本の女子中学生だったが、今は魔法に目覚めたばかりの転生者である。


その日は、あまりにもあっさりと、しかし確かな変化と共に訪れた。

朝、カーテンの隙間から漏れる陽光に目を細めると、世界がどこか違って見えた。使用人のアンナが部屋に入ってきた時、彼女の輪郭がぼんやりと発光しているように感じられたのだ。まるで、世界そのものに薄い紗(しゃ)がかかったような、幻想的な光景。


「……光属性、か」


お母様の言葉が脳裏に蘇る。『魔法使いの二人に一人は光属性よ』。

六属性すべてを操る万能の天才でもなければ、希少なレア属性でもない。もっともポピュラーで、ありふれた「光」。

私は枕に顔を埋め、声を押し殺して叫んだ。

(ちくしょう! 全部ハズレじゃないの!)


けれど、数秒後にはガバッと顔を上げ、私は頬をパンと叩いた。

オーケー、落ち着こう。ありふれているということは、それだけ体系化された修行法があるということだ。基礎を極め、応用を重ねることで最強に至る――いわゆる「努力型の主人公」ルートだと思えば悪くない。

お母様が手配してくれた家庭教師との授業。期待と興奮で、その夜はシーツの中で何度も寝返りを打った。


***


そして今日、ついにその家庭教師がやってくる。

母の遠縁にあたるというその人の名は、シム・グーン。二十四歳の女性で、現役の王国騎士だという。

客間の重厚な扉の前で、私は一度深呼吸をした。小さな心臓が早鐘を打っている。


「お母様、リーンです」

「お入りなさい」


許可を得て扉を開けると、そこには凛とした空気を纏った女性が立っていた。

私やお母様のような金髪碧眼ではない。夕陽を煮詰めたような赤茶色の髪を後ろで束ね、同色の瞳は鋭く私を見据えている。同じ血筋とは思えないほど野性味があり、それでいて洗練された立ち姿だった。


「初めまして、リーンお嬢様。シム・グーンと申します。シムでもグーンでも、呼びやすいようにお呼びください」

「初めまして、シム・グーン卿。では、グーン先生と呼ばせていただきますね。これからよろしくお願いします」


私がスカートの端をつまんで挨拶をすると、グーン先生は流れるような動作で敬礼をした。その所作一つ一つに無駄がなく、鋼のような芯を感じさせる。「デキる女騎士」、その言葉がこれほど似合う人もいないだろう。


母が退室し、部屋に二人きりになると、先生の雰囲気が一段と引き締まった。

「さて、指導にあたって予め申し上げておきます。私は私流でやらせていただきます。お嬢様が指示に従わない場合、多少の体罰も辞さない構えです。そのおつもりで」


冷ややかな声色。貴族の令嬢に対する遠慮など微塵もない。けれど、私はその厳しさが逆に心地よかった。

私は精一杯の虚勢と、本気の決意を込めて微笑んだ。


「先生、心配はいりません。私に任せてください。十年後には、『あのリーン・バルガスの師であった』と部下に自慢できるようにしてみせますから」

「……はあ?」


先生は一瞬きょとんとして、それから口の端を微かに吊り上げた。

「ふふ、分かりました。今は騎士団の一番下っ端ですが、十年後に自慢話ができるよう、私も精進するとしましょう」


空気の緊張が少しだけ緩む。どうやら、ただ厳しいだけの人ではないらしい。

それからの話し合いで、授業は週に一回と決まった。彼女も騎士団の任務があるし、私も他の習い事がある。限られた時間で最大の効率を上げる必要があるのだ。


「では、今日は実践ではなく、私が魔法を使っているところを見てもらいます。魔法の元……『魔力』がどのように動くか、その感覚を肌で感じてください」

「はい、お願いします」

「光属性の基本、『肉体強化』をお見せします」


先生がスッと息を吸い込む。

その瞬間、彼女の纏う空気が一変した。

全身の筋肉がなめらかに躍動し、瞳の奥に鋭い光が宿る。それは、獲物を前にした肉食獣のような、あるいは少女漫画でヒーローがヒロインを壁際に追い詰める直前のような――圧倒的な「雄(おす)」の気配。

ゾクリとするほど、美しい。


「どうですか? 私の体の周りの魔力の変化に気づきましたか?」


先生の声で、私はハッと我に返った。

しまった。あまりの迫力に、肝心の魔力の流れなど何も見ていなかった。ただただ、先生の凛々しい顔に見惚れていただけだ。

誤魔化すわけにはいかない。私は正直に白状することにした。


「すいません先生……先生があまりに格好良いお顔をされたので、それ以外、何も目に入りませんでした」

「え? ……おふざけにならないでください」


先生の眉間に皺が寄る。ああ、これはまずい。

「申し訳ありません! 本当に、凛々しいお顔に見とれてしまったのです。次はちゃんとやります、許してください!」

「凛々しいって……貴女ねぇ」


先生は呆れたように溜息をついたが、その頬は心なしか朱に染まっているようにも見えた。

「まあ、いいでしょう。私はまだ肉体強化を継続中です。注意して、私の周りの魔力がどうなっているか見てください」


今度こそ集中だ。

私は目を凝らし、先生の体を包む光の粒子のようなものを追った。

……あ。

「先生、魔力の元が……消えていっていますか?」

「そうです」


先生は頷き、真剣な眼差しを私に向けた。

「今日は分かりやすいように、極端に消費を早めています。魔法を使えば魔力は減る。無くなれば魔法は使えない。この当たり前の原則を理解してください」

「使えば、無くなる……」

「そして、ここが重要です。光属性において、魔力とは『自身の体力や精神力』そのものです。使い切れば気絶し、最悪の場合――命を落とします」


背筋に冷たいものが走った。

さっきまでの浮ついた気分が一気に吹き飛ぶ。魔法は便利な道具ではない。命を削って振るう刃なのだ。


「分かりました……コントロールできない力は、悲劇しか生まないということですね」

「ええ、その通りです。ご理解いただけて何よりです」


先生はふっと力を抜き、肉体強化を解除した。どっと疲労の色が滲んだのが見て取れる。

「では、今日はここまでにしましょう。私も少々疲れました。私が良いと言うまでは、魔法の使用は自粛してください。約束ですよ?」

「はい、約束します」


先生が帰った後、私は静まり返った部屋に一人残された。

何もしていない、ただ見ていただけの初日。

けれど、私の胸には、憧れと共に小さな恐怖という名の教訓が、深く刻み込まれていた。


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