立夏の空の下に花は咲く

立藤夕貴

立夏の空の下に花は咲く

 花は手折られた。いまだ繋がっていたとしても、生命線である茎や枝を手折られたのならばそれは死と同義ではないだろうか。少なくとも私はそう思う。


 温室で自分の意思とは関係なく、望むべく姿になるよう育てられていた。綺麗な色で誰からも愛でられるように育てられた花。それは私にとっても美しいものの象徴だった。それが見る影もなくなったのは私が中学二年の時だった。


 こどもにとっての家族というものは絶対の世界だ。それを昔から続けられていたら異常と思うのは困難なわけで、少しの疑問を持ちつつも私はそれを受け入れていた。


 容姿端麗で愛想よく、器用に物事を熟せる姉。それに対して何事も凡庸で容姿もごく普通の私。好奇心も人一倍ある姉は様々なことを吸収していき、周りにはたくさんの友達がいた。比べるまでもなく姉に母の愛も期待も注がれ、小さい頃からさまざまな習い事を詰め込まれていた。それを私は羨ましいような寂しいような気持ちで見ていたように思う。


 けれどその期待は徐々に歪さを増していく。姉は母のサポートのもと難関の中学校に入学し、その後も当然のように国立大学に進むための進学校へと進んだ。大学受験を前に笑みは錆びれ、天真爛漫だった姉の姿は形を失っていたように思う。


 なぜそんなに曖昧な言い方なのかといえば、私が優秀な姉に勝手な劣等感を抱いていたからだ。真っ直ぐに彼女を見られなかった。そして、自分のことを見向きもしない母を見るのが悲しかったからだ。もっとも、父親はそれ以前に仕事人間で家族に興味も示さなかったけれど。そして、そう経たないうちに安穏に擬態していた異常な日常は瓦解する。


 志望校の不合格で母は異常なほど姉を責め立てた。今思えばたったそんなことで。どんな罵詈雑言だったかもよく覚えていない。ただ、悪辣な母の顔は嫌なぐらいに頭に残っている。勝手に期待しておいて勝手に失望するその姿に激しい恐怖と嫌悪を抱いた。そんな感情は初めてだったかもしれない。


 さすがの父も異常な母の言動に嫌気がさしたのか、両親は別居に至った。恐らくは離婚したかったのだろうけど、あの母のことだ。見栄と世間体を考えたらそれなりの会社と地位にいる父とすぐに離れるわけがなかった。母とは距離が離れたものの、姉はそれ以来自宅から外へと出られなくなってしまった。


 すべては自分がなしえなかった理想をこどもに押し込めた母の自己満足。それだけのために姉の心は手折られた。私は何もすることができずにただそれらを見つめることしかできなかった。


 必死に努力し、もがいていた姉の姿を思い出すとやるせなかった。きっとその姿も本当にたまたま目に入っただけのことだろう。私と顔を合わせる時、姉は努めて明るく振る舞おうとしていたから。虚な表情で過ごす姿がやりきれなくて、私は家事や勉強の合間を縫っては何かと姉に世話を焼いた。気にかけてくれる叔父夫婦や家事代行サービスの人とのやりとりが息を繋いでいた。


 そんな中で一つ大きなことをしたと言えば、お小遣いを貯めて殺風景な家にバラの鉢を置いたことだ。父方の叔父がバラの愛好家で、春と秋の開花時期になっては叔父宅を訪れていた影響か、姉もバラが好きだった。難しい話は抜きにして、二人は花を愛でては香りを楽しんで写真を撮っていた。


 息苦しかった環境を変えたかったために――いや、正確に言えば自己満足の償いのために始めたことだった。期待されていなかったとはいえ、姉に母の理想をすべて押し付けてしまったのだ。何かせずにはいられなかった。


「このバラはダマスクのいい香りがするんだって。ロゼッタ咲きで綺麗だよね」


 少しでも削ぎ落とされてしまった感情を取り戻したくて、私は毎年少しずつバラを増やしていった。バラの苗や資材は当時の私にとっては高く、手入れも相応にかかるということで一気には増やせなかったのだ。

 淡々と過ぎていく日々は淀む水のように腐敗していくのではないかとさえ思った。それでもやめられなかったのは願いを託したものがあったからだ。



 何度かの季節が巡って、また夏の始まりを知らせる日が訪れる。



 色とりどりのバラと種々の花が庭を彩る。今年は春先からだいぶ気温が高く、バラの花もすでに花を咲かせ始めていた。柔らかく甘い香りが胸を満たす。


「……立派な庭になったね」


 姉は眩しそうに庭を眺めていた。その声は羨望と憂いを孕んでいたように思う。私はそんな姉に小さな一つの鉢植えを差し出した。


「今年はね、見て欲しい特別な花があるの」


 そこに咲くのは少し緑がかった明るい黄色の花弁のバラ。ころりとしたカップ咲きの花は中輪の大きさで、存在感がありながらも軽やかな印象だ。ただ、まだそれは新苗よりも細い枝を伸ばす幼い苗だった。


「綺麗だね」

「これね。自分で花を咲かせたの」

「……うん。いつも手入れ、頑張ってたもんね」

「……ちょっと違う、かな。本当の意味で一から育てて咲かせたの。雌しべに花粉をつけて、種子を作って種まきをして。と言ってもほとんど叔父さんの力で、私がやったのはほんの少し」


 私の告白に姉は目を見張る。

 少し淡いカナリアイエローの花弁が風にそよいで揺れた。

 太陽の恵みの色。姉の好きな色だった。


「ちょっと手伝っただけの私が言うのもおかしいんだけど、育種ってすごく大変なんだ。一年かけて花を咲かせて、理想の花を作っていく。年単位の試行錯誤の繰り返し」


 来るべき時に姉に贈るなら何がいいか。考えてたどり着いたのが自分で育てた新たなバラだった。

 芽吹かない種もあるし、咲いたとしても理想とは違う花である場合がほとんどだ。願いを込め、理想の花を作ろうとする姿勢は昔の母と姉の姿に重なった。少し心苦しく思ったこともあったけれど、それ以上に姉の好きを詰め込んだバラを贈りたかった。


 快活で明るい気持ちを呼び起こすカナリアイエローに夢を見た。

 その色にたどり着かなくても、この花にはそれに劣らない魅力があると思う。


「育てる中で理想とは違った素敵な花と巡り合えるんだ。この子もそうだし、他にも個性的で綺麗な花を咲かせてくれた。どっちかというと、こういった出会いが楽しいって思えるぐらい。それにね、たとえ失敗しても、自分の理想と違ってもいい。間違ったとしても……何度だってやり直せばいいと思う」


 自分もそうあれたらいいという願いも込めて、私は告げる。

 小さな鉢植えを見つめながら、姉はぽつりと言の葉を零した。


「……やり直せるのかな」

「やり直せるよ。私なんか、要領悪いから無駄に遠回りしてばっかりだよ?」

「今まで……時間を無駄にしてただけなんだよ? 何をしたらいいかも、わからない……」

「一緒に探そうよ」


 私の言葉に姉は口を噤む。ただ深々と積もる沈黙の中、私たちは一つの鉢植えを見つめていた。

 どのくらい経っただろう。姉はふっと視線を外した。その目は青く澄み渡る五月の空を見つめている。


「……外、出かけてみたいな」


 零れ落ちたのは本当に些細な願い。それがひどく嬉しくて、私は昂る気持ちを抑えながら一つの提案をした。


「それなら叔父さんのところに行ってみよう。もうすぐバラが見頃だよ。今年はきっといつも以上に綺麗だと思う。ああ、その前に散歩に行こう。だいぶ外に出かけてないもんね。それに服も買わなくちゃ」


 まずは近場の公園に行ってみようか。それこそ近場にローズガーデンがある。散歩がてらに行くのも悪くない。したいことが急に増えてあれこれといつの間にか捲し立てていた。そんな私を見て姉は微笑を浮かべる。


「……楽しみだな」


 何も変わらないかと思っていた日々。それでも同じところを巡っていたわけではなく、螺旋階段のように少しずつ上へと登っていた。焦る気持ちがないとは言わないけれど、少しずつ前に進むしかない。

 温室で手折られた花。それでも、新たな交わりと環境の変化があればきっと変わっていける。


「……今まで迷惑かけてごめんなさい。私、頑張るから」

「頑張らなくていいんだよ。それこそ……私こそ謝らないと」

「え?」

「見て見ぬふりをしてた……んだと思う。本当に、ごめん」


 姉は目を見張った。しばらくなんとも言い難い沈黙が私たちを包む。そんな空気を破るように姉はふわりと笑た。


「ねえ、このバラはなんていう名前なの?」

「え? か、考えてなかったな……」


 思いがけない問いに私は狼狽えてしまう。まだ贈りたいと思った理想のバラは育種の段階なのだ。それでもこれも大切な贈り物の一つだと思ったら、名前がなければいけないような気がした。 答えようと頭を捻るものの、出てきたものはごくシンプルなものだった。


「カナリアイエロー……?」

「そのままじゃない」


 噴き出されて急に恥ずかしくなる。ネーミングセンスのかけらもない私に無茶振りはやめてほしい。不貞腐れてついつい可愛くない言い方をしてしまう。


「それなら考えてよ。私、名前考えるの下手くそなんだよ?」

「じゃあ、一緒に考えよう?」


 蒼い空のもと、姉はとても嬉しそうに笑った。私も嬉しくてつられて顔が綻ぶ。

 突き抜けるような立夏の空に映える、明るい笑顔が咲いていた。

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