三十八 菊之助の不安

 文月(七月)二十二日。曇天の朝、昼四ツ半(午前十一時)。

 朝五ツ(午前八時)に北町奉行所へ行ったまま戻らぬ多恵を案じ、加賀屋菊之助は大番頭の直吉を連れて北町奉行所に向かった。


 北町奉行所に着くと菊之助は門番に挨拶して用件を伝えた。

「私は呉服町二丁目の呉服問屋、加賀屋菊之助と申します。

 昨夜は、与力の藤堂八郎様たち町方の皆様のおかげで、押し入った夜盗を捕縛していただき、ありがとうございました。

 私の女房の多恵が、昨夜の夜盗一味捕縛のお礼に、こちらに伺っているのですが、まだ御店に戻っておりません。与力の藤堂八郎様にお目通りできますでしょうか」

 菊之助は慌てていたが気を落ち着かせ、商人らしく北町奉行所の門番に伝えた。

 傍で大番頭の直吉が、まだ祝言前の上女中ですが、御内儀も同じで・・・、などと呟いている。


「加賀屋さん。そう畏まらんで下さい。

 加賀屋さんはここから目と鼻の先。顔見知りの仲じゃありませんか。

 藤堂様は、与三郎一味の口入れ屋家宅改めに出てましたが、先ほど同心たちが、加賀屋さんの御内儀さんの助言で、一万二千両を押収して戻りました。

 藤堂様と御内儀さんは、まもなく戻ると思います。中でお待ちなされ」

 門番がそう言っていると二挺の駕籠が門前に着いた。


 駕籠から降りたのは多恵と与力の藤堂八郎だった。

 菊之助は多惠に駆け寄った。

「多惠さんっ。無事であったかっ」

「はい、御心配をかけてすみません」

 菊之助は多惠の手を取って多恵の安否を気遣っている。


「菊之助さん。此度は多惠さんの助言で、夜盗一味が盗み隠していた金子をすべて押収できました。御礼を申し上げます」

 藤堂八郎は菊之助に深々と御辞儀した。そして、

「多惠さんに、山王屋に奉公していた折の事を訊きたいので、もうしばらく北町奉行所に留まって貰います」

 と言った。


 菊之助の顔が青ざめた。

「詮議ですかっ」

「建前は詮議です。なあに、ただ話を訊くだけです。気に召さずにいて下さい。

 多惠さんを私の詰所へ案内して下さい。

 では多惠さん、詰所へ行って下さい」

 八郎は門番に、多恵を八郎の詰所へ案内するよう指示した。


 八郎にそう言われても菊之助は青ざめたままだ。

 多恵は菊之助に微笑んだ。

「旦那様、心配しなさらないでください。しばらく北町奉行所に泊まりますが、無事に御店に戻ります」

 多恵は門番に連れられて北町奉行所内に入った。


 八郎は菊之助を身近に呼んで、耳元で小声で言った。

「菊之助さん、人払いを頼みます」

 菊之助は八郎の意を汲んで、

「直吉。私は藤堂様に山王屋の件を説明しますので、直吉は先に御店に帰っていなさい。

 なあに、山王屋の件は、私が充分に説明できます」

 何か話そうとする直吉を黙らせ、加賀屋へ帰らせた。


「では、ゆっくり奉行所に入りながら、私の問いに答えて下さい」

「わかりました」

 二人は北町奉行所の門を抜けた。


「亡くなった八重さんと、多惠さんは良く似ている。化粧を落せば瓜二つであろう。

 八重さんと多惠さんを見分けるとしたら、違いは何処ですか」

「見分けられません。違いはありません。多恵は今は化粧で女将らしくしていますが、化粧を落したら八重その者です・・・」

「そうですか・・・」

 八郎は愕然とした。亡くなった八重と、今日家宅改めに同席した多恵に扮した八重は別人と思っていたからだ。二人が同一人なら、いったい、亡くなった八重は誰であろうか・・・。八郎がそう思っていると、

「ですが・・・」

 と菊之助が口を開いた。


「何ですか」

「多恵も、亡くなった八重も、化粧で隠してましたが、右の襟足に胡麻粒ほどの小さな薄い染みがありました。伽の折に気づきました。

 ですが八重にはそれがありませんでした。不思議でした」

「どういう事ですか」

 八郎は菊之助の言葉を解せなかった。


 二人は北町奉行所内に入った。そして、内廊下を八郎の詰所へ歩いた。

「染みがない八重は、御店で働いていた昼の八重です。朝、長屋の父上の位牌をお参りして戻ると、襟足の染みはまったくありませんでした。化粧で隠したなら、髪に白粉が残りますが、髪には白粉はありませんでした。

 しかし、夕刻、長屋の父上の位牌をお参りして戻った八重の襟足の染みは、白粉で見えなくなっており、髪に白粉がついていました。上女中の多恵も襟足の染みを白粉で隠していました。

 八重は藤堂様の側室でした。藤堂様は、襟足の染みを御存じでしたか」


「いや、八重には染みなど無かった・・・」

 菊之助の説明で、八郎は確信した。

 八重が亡くなる以前の夜の八重と、現在の多恵は、襟足に染みがあって同一人だ。

 加賀屋で他界したのは夜の八重で、八重本人ではない。夜の八重に扮した女は上女中の多恵に扮した女で、八重に瓜二つだ。多恵に扮した女は、与三郎が気づかなかったほど多恵に似ていた・・・。

 山王屋の家宅改めに同席した、多恵に扮した八重は本人で、生きていた。

 八重が話したように、すでに多恵本人は仙台で亡くなっている。

 夜の八重に扮して、さらに、上女中の多恵に扮した女は生きている。

 夜の八重の死は偽装だ・・・。

 そうなると、仙台で他界した多恵本人に瓜二つの女が二人いるのは確実だ。

 つまり、八重と、仙台で他界した多恵と、多恵に扮した女は・・・。


 八郎は意を決して語気を強めた。

「菊之助さん。多惠さんは咎めを受けぬ。安心いたせ。

 夜盗一味の捕縛に協力し、奪った金子の発見に貢献した故、お誉めを受けるはずだ。

 事件解決のため、北町奉行所が多惠さんの身を預るが、この藤堂八郎を信じて、多惠さんの帰宅を待て。武士に二言はない」

 八郎は毅然としてそう言った。


「わかりました。

 もしやして、昼の八重と夜の八重は別人。夜の八重は多惠だったのでありませんか。

 そして、夜の八重は、多恵として生きていたのではありませんか・・・」

 八郎は菊之助に答えずに問いただした。

「ところで八重さんの死を確認した医者は誰ですか。埋葬した菩提寺は何処ですか」

「医者は神田の竹原松月先生。菩提寺は湯島の円満寺。住職の名は丈庵です。

 それがいかがしましたか」


「このように訊くのは訳がある。事件解決のため、これから話す事は他言無用だ。

 確約できるか」

 またまた八郎は語気を強めた。腹を括るしかない・・・。

「わかりました。多恵を無事に御店へ戻すため、他言は致しません。お約束します」

 八郎は周囲に人が居ないのを確認して、菊之助の耳元で言った。

「実は、上女中の多恵は、与三郎一味を捕縛するために、北町奉行所が放った密偵だ。

 与三郎一味の証言の裏取りに、しばらく時間がかかる。この事は他言無用だ」


 菊之助は驚いたが、夜盗一味が侵入した際の町方の手際良さを思って納得した。加賀屋に町方の密偵でも勤めておらねば、ああは上手くはゆかぬ・・・。そう思いながら、菊之助は多恵の今後が気になった。

「わかりました。

 ところで、私は多惠と夫婦になれますでしょうか」

「必ず成れる。事件解決を心待ちにしていなさい」

「ありがとうございます。本当にありがとうございます」

 北町奉行所の内廊下で、菊之助は八郎に深々と御辞儀した。

「では、私はこれにて、御店に戻ります。御用の節はお呼び立てくださいまし」

「わかりました」

「多恵の事、くれぐれもよろしくお願いたします」

 そう言って菊之助は加賀屋への帰宅の途についた。


 八郎は内廊下を去る菊之助の後姿を見送った。

 私の考えに間違いは無いっ。これからが正念場だ。必ずや事件を解決してみせる。解決できねば、腹を切るっ・・・。八郎は事件解決の決意を新たにした。


 ただちに八郎は同心たちの詰所へ行き、菊之助の前妻八重を検視した神田佐久間町の町医者竹原松月と、湯島の円満寺住職の丈庵、八重のために特注の棺桶を作った大工八吉を、緊急に探るよう命じた。与力の詰所には多恵に扮した八重が居る。今はまだ八重に探りを気取られてはならぬ・・・。



 三日後。文月(七月)二十五日。

 八郎は探りの結果を探索控書にしたためて北町奉行に提出し、

「加賀屋菊之助には、多恵は北町奉行所が放った密偵だ、と偽りを伝えました。

 与力の私の裁量には分不相応の対応でしたが、これも、与三郎一味捕縛に漕ぎつけた女たちの労に報いるためでした。

 如何なる処分も私が甘んじて受けます故、二人の女と、その手助けをした者たちに、温情をおかけ下さい」

 八郎は北町奉行の前に手をついて深々とひれ伏した。


「八郎。面手を上げよ」

 八郎は顔を上げて北町奉行を見た。

「その言葉に、二言は無いな」

「ありませぬっ」

「では、如何なる裁きが下っても、甘んじて受けよ」

「ははっ」

 八郎は再びその場にひれ伏した。


 その頃、吟味与力藤堂八右衛門らによる、与三郎たち夜盗と、多恵に扮していた八重の詮議が終盤を迎えていた。

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