三十七 家宅改め

 文月(七月)二十二日。曇天の朝五ツ(午前八時)前。

 多恵は、夜盗を捕縛した北町奉行所へお礼の挨拶に行くと言う菊之助を止めた。

「旦那様。旦那様が正式に北町奉行所へお礼をなさる前に、私から北町奉行所へお礼を述べてまいります。私にお任せください」

 菊之助は昨夜の夜盗捕縛の後に、藤堂八郎から事件の経緯を説明されている。八郎は多恵が文で知らせたとおり、多恵からの知らせも、店の表の戸が開いていた事も話さず、町方の探索によって夜盗の加賀屋襲撃を事前に知った、と菊之助に説明していた。


「わかりました。お供を・・・」

 菊之助は多惠の身を案じてそう言った。

「北町奉行所はすぐそこです。私独りで充分です。

「わかりました。気をつけて行くのだよ」

「はい。では行ってまいります」


 多恵は、日本橋呉服町二丁目の加賀屋を出て、隣町の日本橋元大工町二丁目の長屋に戻り、すぐさま長屋を出て呉服橋御門の奥にある北町奉行所へ向かった。しかし、多恵は呉服橋東詰で右に折れて北へ歩き、一石橋を渡って日本橋本町一丁目で駕籠を拾った。

「千住大橋南詰め中村町へ急いでください」

「へいっ、急ぎますんでっ」

 多恵を乗せた駕籠は、日本橋本町一丁目を走り去った。



 多恵が長屋を出てしばらくすると、多恵之介が長屋から出てきて呉服橋へ向かった。すると、呉服橋御門から早駕籠が出てきて呉服橋を渡り、多恵之介とすれ違った。

 多恵之介は呉服橋の前を北へ進み、一石橋を渡って日本橋本町一丁目の通りへ歩いた。その後を警護して木村玄太郎が尾行した。二人が向かう先は湯島の円満寺である。



 朝五ツ(午前八時)を四半時ほど過ぎたその頃。

 八郎の乗った駕籠は浅草花川戸町を通り過ぎていた。八郎は目の前を行く駕籠が気になった。ずっと前を走っている。

 千住大橋南詰め中村町が近づくと、前を走っている駕籠が止まった。

「止まれっ」

 八郎は駕籠を止めて素早く駕籠代を払い、駕籠から降りた。


 前の駕籠から女が降りた。加賀屋の上女中の多恵だ。八郎は小走りに歩いて後ろから多恵の二の腕を掴んだ。

「あっ」

 と多恵は息を飲んだ。

 八郎は小声で、

「よく聞け。これから山王屋の家宅改めを行なう。私に話を合わせろ。わかったら頷け」

 とはっきり言った。

 多恵は黙って頷いた。多恵の目的は八郎と同じだった。



 朝五ツ半(午前九時)過ぎ。山王屋の家宅改めが始った。

 同心たち町方が山王屋の店から座敷、台所など炊事場や竃、挙げ句は厠まで改めたが、金目らしき物はどこにも無かった。土蔵も調べたが土蔵内にも金目の物は何も無かった。

 奉公人は下女ばかりで、皆、与三郎の表の人柄と商売しか知らなかった。当然、盗んだ金子の在りかなど知ろうはずがない。


「私がこちらに奉公していた折、与三郎は暇さえあれば、いつも土蔵に入っていました。

 土蔵に、これといった物はありませんが、与三郎が留守の折に入って良く見ましたら、床板の縁が欠けている個所がありました。おそらく、床板が外れて、床下に降りられると思います・・・」

 多恵は、多恵に扮して山王屋に奉公していた折の佐恵から聞いた土蔵の様子を説明し、与三郎が盗んだ金子を隠していると思われる土蔵の床下を八郎に教えた。


 八郎は多恵を連れて土蔵に入った。土蔵内に、多恵が話したような縁の欠けた床板はなかった。

「与三郎は、始終、その長持ちを動かしていました。

 長持ちは三日と同じ向きだった事はありませんでした。

 おそらく、欠けた床板を隠すためだと思います」

 多恵は壁際の近くに置かれた、大きな長持ちを示した。


 町方が四人がかりで長持ちを動かすと、三尺四方ほどの縁が欠けた床板が現われた。

「床板を剥がせっ」

 町方が土蔵の床下を剝がした。床から下り階段が延びて、床下は地下室になっていた。

 階段を降りると、地下の壁際に千両箱が十二個、一万二千両があった。

「恩に着るぞっ」

 八郎は多恵に礼を言った。

「また、八郎様の手助けができましたなあ」

「何とっ。八重さんかっ」

「はあい」

 多恵に扮した八重は、八郎に満面の笑みで答えた。

 八郎は八重と暮らした日々を思いだして、言葉が無かった。



 土蔵にいる八郎と八重の前から、同心たちが千両箱を運んでいった。

「外に出よう」

「はい・・・」

 八郎は八重を連れて土蔵の外へ出た。

 町方たちが土蔵から二台の大八車に、薦包みにした千両箱を積んでいる。


 八郎は八重を連れて土蔵から離れた。

「ここなら話を聞かれぬ・・・」

 八郎は町方を示して八重に訊いた。

「八重さんが『三行半を書いてくれ』と言ったあの時、何があったのだ」

「はい・・・。いつかは話さねばと思っていました。

 父が亡くなったのは、与三郎に誑かされた妹の多恵を救う折に与三郎と戦って斬られたためでした。父は妹を救いましたが、父も妹も与三郎に斬られた傷から感染症を患い、二人は呆気なく他界しました。

 その事を知った私は、八郎様と別れて与三郎を討つ決心をしました・・・」

 八重は、大八車に千両箱を積む町方を見ながらそう話した。


「なんで、私に話してくれなかったのだ」

 八郎は八重にそう言って同心たちに、

『多恵を詮議している・・・』

 と目配せした。同心たちは、八郎とともにいる八重を見て事情を察し、押収した千両箱の警護を手下の町方たちと打ち合わせた。


「事前に話したら、私の怨みを晴してくださいましたか」

 八重は無念な思いでそう言った。

 八郎は毅然として答えた。

「三年前はわからぬが、二年前なら恨みを晴せた・・・」

 八重は、八郎がなぜそう言い切れるか見当がつかなかった。正義感が強くて人情に厚い八郎様が、咎人といえど、斬殺などはするまい・・・。

「町方が増えたから、もっと早く与三郎を捕縛できた、と言うのですか」

 八重は、八郎が捕り方などの町方が増えた事を話していると思った。


「捕縛はせぬ・・・」

 八郎がそう言うと八重の顔色が変わった。八重は、夜盗や大店の悪徳商人が斬殺された事件を思いだした。斬殺したのは御上が放った刺客で鎌鼬だと噂されている。町方は未だ下手人の目星すらつけていない・・・。もしやして、あえて目星をつけぬのではあるまいか・・・。斬殺したのは八郎様か・・・。

「では・・・」

 そう言いかけると、八郎が言った。

「詮議や吟味、評定が省ける・・・」

 その言葉で八重は黙った。やはり、以前の八郎様と違う。夜盗や大店の悪徳商人を斬殺した鎌鼬は八郎様か・・・。そう思うと、八重は言い表しようのない気持ちになった。


「案ずるな。鎌鼬は私ではない・・・。

 では、行くか」

「はあい・・・」

 やはり、八郎様は以前のままだ。八重は八郎と暮した時のように朗らかに答えた。

 八郎様は与三郎たちを斬殺しない。父と妹の怨みは、御上が晴してくれるだろう・・。

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