三十三 祝言の使い

 文月(七月)十五日。晴れの昼四ツ(午前十時)。


「あと三日もすれば、私の手も空く。

 二人で挨拶に行けるのに、本当に独りでよいのだね」

 菊之助は熱い眼差しで多恵を見つめた。

 多恵も心を込めて菊之助を見つめた。

「はい、旦那様。

 旦那様が忙しい折は私も忙しくして、旦那様の手が空いた折は、誰にもじゃまされずに二人で過しとう思います・・・」

「そうですか。すまないね・・・」

 菊之助は多恵の言葉に胸が熱くなった。こんなところも八重に似ている・・・。

「それでは、お前から山王屋さんに、

『ぜひ、祝言にいらっしゃってください。

 主はここのところ多忙にて、多恵が独りで挨拶にまいりました』

 そうお伝えください」

「わかりました。それでは旦那様。行ってまいります」

 加賀屋の店先で多恵と菊之助はそんな言葉を交わした。端から見れば、二人は今生の別れを交わしているかのように思えた。


 多恵は番頭の平助とともに、呼び寄せた二挺の駕籠に乗った。

 駕籠舁きが駆け出すと、菊之助は多恵の駕籠が見えなくなるまで、店の前で駕籠を見送った。

 日本橋呉服町二丁目の加賀屋から千住大橋南詰め中村町の山王屋まで、徒歩で一時。駕籠なら半時ほどである。



 四ツ半(午前十一時)過ぎ。

 多恵と番頭の平助が乗った駕籠が千住大橋南詰め中村町の口入れ屋、山王屋に着いた。

「さあ、これで昼餉を食べておいで。九ツ半(午後一時)に、ここに来ておくれ」

 番頭の平助は加賀屋菊之助に言われたとおり、昼餉のための心付けをたぷり駕籠舁きに渡した。駕籠代の払いは加賀屋に戻ってからである。


 事前に菊之助が山王屋与三郎に文を送っていたため、与三郎は多恵を待っていた。

 座敷で挨拶がすむと、多恵は与三郎に、葉月(八月)初旬の祝言の日取りを伝えた。

「ぜひ、列席させていただきます。加賀屋様によろしくお伝えくださいまし。

 さあ、昼餉を用意しておりますので、こちらにおいでくださいまし」

 与三郎は快く述べて、多恵と平助を隣の座敷に案内した。


 多恵と平助は、与三郎を交えて昼餉の席に着いた。

「さあ、まず一献差し上げます」 

 与三郎は平助に酒を勧めた。

「本日は加賀屋菊之助の使いですので、それを全うしませぬと・・・」

 平助はそう言い訳する割りに、

「もう使いはすみましたよ。お気軽になさってくださいまし」

 と言う与三郎に、

「いえいえ、そう言われましても、加賀屋に戻って主に報告したその折が、ようやく使いを果たしたと言うもの。しかしながら、そう言われますと・・・」

 と答えて盃を差し出している。そして一杯が二杯になり、二杯が三杯なり・・・。

 平助は酔い潰れた。



「多恵、こっちに・・・。

 平助の盃には眠り薬が仕込んでおいた。小半時は目を覚まさない・・・」

 与三郎はそっと小声で、多恵を隣室の奥座敷に呼んだ。


「多恵・・・」

 与三郎が多恵を抱きしめた。

 多恵は与三郎を足蹴にして突き飛ばし、一喝した。

「ふざけるなっ。てめえにゃ、女がいるだろうっ。

 同じ事を二度と言わせるなっ」


 与三郎は亀のように首を引っこめた。

「わかった・・・。

 では日取りを決めよう。店の締日翌日の夜はどうだ。

 加賀屋は、毎月、奉公人に慰労の宴を設けると聞いてる。皆、酔い潰れるだろう」

 多恵の耳元でそう言う与三郎に、多恵が命じた。

「二十一日の夜九ツ(午前〇時)だ。人足と車馬を手配しておけ。

 刻限を違えるなっ。雨でもやるぞっ」

「わかった」

 そう答える与三郎を連れて、多恵は隣の座敷へ戻った。



 座敷に戻った多恵は膳の銚子を取って盃に注ぎ、いっきに酒を飲み干した。

「おやおや、多恵さんもいける口だったんですね。では一献・・・」

 与三郎は奥座敷での口調と違って丁寧にそう言い、多恵の盃に酒を注いだ。

「与三郎様も、お飲みくださいまし・・・」

 多恵も言葉使いを変えて銚子を取り、与三郎の盃に酒を注いだ。酌み交わすと多恵はほろ酔いになった。


 九ツ半(午後一時)まで四半時ほどになった。

「平助、平助・・・」

 多恵は番頭の平助の肩を揺り動かした。平助は膳の前で横になって眠りこけている。

 何度か肩を揺すると平助は目を覚ました。

「アアッ!いけませぬ!私としたことが、なんて事を・・・・」

 平助の股間で、下帯がぐっしょりと濡れていた。


 平助の慌てぶりに、薬が効いた、と与三郎は多恵を見て笑みを浮かべた。

 そんな二人の様子を平助は知る余裕はなかった。

「へいすけ・・・・」

 多恵は平助を見て閉口した。

「わたしはっ、わたしはっ・・・・」

 平助は慌てている。

「平助はお酒を飲むと・・・・」

 驚いた顔でそう言う多恵に、

「いえ、決してそんな事はありません。今まで酒を飲んでも、このような粗相をした事はありません・・・」

 平助は慌てて言い訳してうなだれた。


「まずは着換えが先です。

 これっ!およねっ!」

 与三郎は柏手を打って、下女に平助の着換えを用意するよう言いつけた。

「この事は内密にしておきましょう。

 酒を飲んで粗相をしたなどと知れては、商人の名折れです。

 商う呉服から小便が臭うなどと噂が立っては、商いの信用を無くします。

 まずは着換えを・・・」

 与三郎は着換えを持ってきた下女のおよねに、別室で平助を着換えさせるように言いつけて平助を別室へ行かせた。


 平助が部屋を出てゆくと、与三郎が膝立ちで多恵に近づいた。

「眠り薬が効いた。これで、平助の弱みを握った。平助は姐御の手下も同じだ。思いどおりにできる」

 そう言って与三郎は多恵から離れ、自分の膳に戻った。



 昼八ツ(午後二時)過ぎ。

 多恵と平助を乗せた駕籠が日本橋呉服町二丁目の加賀屋に戻った。

 平助は駕籠舁きに手間賃を払って帰し、山王屋での一件を気にして多恵に、

「女将さん。此度の事はくれぐれも内密に」

 と告げた。

「わかってますよ。平助も気苦労が多くて、疲れていたのですよ」

 多恵は優しい眼差しで平助を見つめ、弟をいたわるように微笑んだ。



 菊之助が店の外に出てきて多恵を迎えた。菊之助は満面の笑顔だ。

「旦那様。ただいま戻りました」

 多恵は菊之助に無事の帰宅を報告した。

「おお、よう戻りましたな。平助、ご苦労さんでした。

 して、山王屋さんはいかがでしたか」

 菊之助は平助にねぎらいの言葉をかけて、多恵に笑顔で尋ねた。

「与三郎様は、快く列席を承諾くださいました」

「おお、それは良かった。さあ奥へ入って、山王屋さんの事を聞かせておくれ。

 平助はいつものように御店へ出ておくれ。

 お加代っ。多恵の着換えを手伝っておくれっ」

 そう言って菊之助は多恵の手を引き、店の横の通用口から土間を通って奥へ歩いた。


 多恵は土間を歩きながら、店の雨戸の戸袋を確認した。閉めた雨戸は敷居から外れないが戸袋の中ならたやすく外れる。戸袋は簡単な作りだ。羽目板に棒を差しこんで捻れば、たやすく羽目板が外れる・・・。



 多恵は上り框で足袋を脱いだ。加代が用意した手桶の水で足を洗い、板の間に上がって座敷へ歩いた。

「ささっ、着換えて山王屋さんの事を聞かせておくれ。お加代。頼みますよ」

 菊之助はそう言って奥座敷へ入った。

「はあい・・・。旦那様は、奥様にべた惚れですね」

 多恵の部屋で着換えを手伝う加代は、多恵の匂いがいつもと違うのに気づいた。

 この匂いは男だ。旦那様ではない。若い男だ・・・。

 加代は匂いを嗅ぎ分ける才がある。平助のような独り身の若い男と、菊之助のような中年に近い男の匂いの違いは、かんたんに嗅ぎ分けられる。

 そう言えば、平助の着物と臭いが、出かけていった時とは違ってた・・・。いったい平助に何があったのだろう・・・。

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